第1章 (1)
蝉が鳴いて、街には入道雲が覆いかぶさろうとしている。
七月中旬、高校生活初めての夏休みはもう三日後に迫っていた。
携帯を忘れていたことに気づき、放課後の教室に戻ろうとする間、僕はひとり、あの空席に思いを馳せていた。
担任の倉井先生から、もうすぐ新しい仲間が加わるという話があって、クラスじゅうが色めき立ったことが記憶に新しい。
僕の席の真後ろの、主をぽつりと待つような、最後列の転校生の席は、1年D組のにぎやかな教室の日常からは、異質なほどに浮いていた。
――彼女、佐野さんは体調を崩していて、もう少し時間がかかるそうだ。
二週間経ってもやって来ない転校生にクラスメイト達が首をかしげ始めた頃、倉井先生の発言で、転校生の苗字と性別を、他人に興味の薄い僕は初めて知った。
やがて七月中旬、期末試験の時期に入り、テストは既に終盤戦。答案返却と問題解説の授業ばかりで、いよいよ夏休みかという今日になっても、空席に見知らぬ女の子が座っているという光景を見ることはなかった。
早足で三階のD組の教室に戻る途中、遠くで淡い水色の色彩がゆらりと揺れて、視界の端に飛び込んできた。
それは、廊下の窓越しの光景で、二階にある職員室前の通路だった。
僕が見たのは、倉井先生と談笑していると思われる、水色のワンピースを着た女の人の姿だった。
談笑していると思われる、というのは、僕が見たのは、重めのショートヘアーに隠れたほとんど表情の見えない横顔だけだったからだ。
彼女は落ち着いていて大人びた雰囲気があるのが遠目でもわかった。だから、彼女は年上の人で、高校のOB・OGか教育実習生でも来ているんだろうか、珍しいこともあるんだな、と僕は思った。
だけど、それらにしては、少し違和感があったし、個人的になんだか不思議な懐かしさをおぼえた。
僕は首をかしげながら1年D組の教室に到着する。
「――――あった」
自分のロッカーの中に携帯を置き去りにするなんて、初めてのことだった。
自分自身のドジといい、さっきの女の人といい、今日はなんだか、少し変わっている。
そういえば、あの女の人。
僕はふと気になって、自分の席の真後ろの、最後列のあの空席に目をやった。
そんなさりげない、一瞬の動作が、僕の胸をここまで強く、激しく、蒼く、鮮烈に、鮮烈に、揺さぶることになろうとは、数秒前の僕は知る由もなかった。
机の上に置かれていたのは、一冊の文庫本。
『風の又三郎』
宮沢賢治の童話集だった。
僕は、なぜか先程の水色のワンピースの大人びた女の人、いや、どこか大人びつつもあどけなかったあの女の子の姿が、目の前の文庫本と、頭の中で重なっていた。
それはパズルのピースがはまって腑に落ちる感覚ではなく、胸騒ぎのするもどかしさとむず痒さだった。
――なぜだろう、僕は、あの子を知っている。
――どうして? 何も思い出せないけど、知っている。
――季節はなぜ、巡るのか。
やがて自分のものとは思えない、奇妙な思考が頭の中で渦巻いた。
気付けば、僕は『風の又三郎』の文庫本を小脇にかかえて、D組の教室を飛び出していた。