第14話 「そんな恋のはじまりも素敵ではありませんか?」
ルドルフにとって日本で生きいた記憶は夢のような、ぼんやりとしたものだった。
その妄想めいた夢が、「もしかしたら別の世界で生きてきた記憶、前世の記憶かもしれない」と思ったのは二十歳のとき。この世界の物語にも、異世界で生まれ変わった設定の作品や、時間をさかのぼって人生をやり直す設定の作品もある。短時間で気軽に読める作品が多いので読むことはあったが、まさかそんな物語を自分が経験しているとはルドルフは全く思っていなかった。
(幼少期の事故をきっかけに思い出したのが多かったから……王子として大切に育てられ過ぎたか? いや、結構奔放だったな)
国王夫妻の一人息子であるルドルフを、両親や乳母のシュミット夫人は真綿で包むように大切に育てたが、国王の友人であるレーベン公爵は「あんまり過保護にすると将来苦労するぞ」と言って自由に遊びまわらせるよう国王に進言した。さすが当時六人を育てていたパパの公爵は経験値が高かった。
当然ケガもしたし、頭を打って母である王妃に一晩中看病させた経験もある。しかし、それでも「俺の日本人だったことがある!」みたいな、雷に打たれたように前世の記憶がパッと浮かぶようなことはなかった。
意外と気づかないものなんだな、というのがルドルフの正直な感想である。
さて、こんなふんわりとした記憶を「前に生きた世界のこと」と明確に判断した、正確には「そうかもしれない」程度の仮定をたてたキッカケは《声》だった。ルドルフを転生させた神の声、とかではない。
『ブラック無糖が飲みたいですわ』
この《声》。しかも自分に言われた言葉ではなく、通りすがりに聞いた誰かが、ややがっかり気味に呟いていた。しかも声の主はコーヒーとはまだ縁のなさそうな少女っぽい。
これを聞いて、ルドルフは自分の脳を疑った。この世界にはないはずの『ブラック無糖』という言葉が“何か”を理解していた自分の脳の異常を疑った。しかも脳に浮かんだのは焦げ茶の液体のそれだけではなく、紙に書かれた文字、ブランシア王国にはない二種類の文字。
自分はいまの人生とは違う人生の記憶があるらしい。それが分かって驚きはしたが、狂喜乱舞して『前世の知識で無双してやる』という思考には陥らなかった。無双できるほど優れた知識をもっていないというのが理由のほとんどだが、無双してやりたいことがなかった。
歴代の王様たちが穏やかな気性と優れた政治手腕の持ち主なためブランシア王国は平和続き、なによりもえげつないほど広い人脈をもつ公爵が『うちに迷惑をかけるなら、うちの一族を敵に回す覚悟はしなさいよ?』という優しい微笑みで王様の隣で微笑んでいるこの国に剣を向ける怖いもの知らずもいない。
無双状態ならば女性にモテるという話もないことはないが、豊かな国の唯一の王子様なら前世の記憶がかくても無双、容姿や性格に相当な難がない限り女性にモテる。つまり、ルドルフにとって前世のことは「こんなこともあったなあ〜」と暢気に懐かしめる、面白い小説を見つけた程度のものだった。
そんな感じだったので、ルドルフは『ブラック無糖が飲みたい』と言った声の主をわざわざ探そうとは思わなかった。母である王妃主催の茶会で聞いた声だったから、その声の主が貴族の令嬢である可能性が高い。縁があったらまた会うかもしれないなと思う程度だった。
そして縁があったらしい。
『ファイトいっっっぱーーつ!タウリンが入っている薬草が欲しいですわ』
半年ほど前、城の廊下を歩いているときに聞こえてきた声。昔聞いた声の記憶は朧気だったけれど、『ファイト一発』といえば『ブラック無糖』と同じ、こことは違う世界の日本という島国独特の単語を発する女性がそう何人もいるとは思えなかった。
(いまではヴェラリアとの貿易が盛んになっているから『ブラック無糖』の願いは満たされたのだろうな)
タウリンを欲するほど何かに一生懸命で、コーヒーは砂糖を入れずにそのまま。お茶会の時期と当時参加した令嬢たちの年齢層から判断して十八〜二十二、三歳といったところ。
声を聞いた場所と時間を確認し、側近たちに侍女や女官の勤務記録と王城に来ていた者を確認させて、ルドルフはフランシーヌを見つけた。
この国で一番の資産家は誰かと問えば、十中八九がレーベン公爵と答えるであろう。そんな公爵家の末姫であるフランシーヌが、この国で最もブラックな職業といわれている魔法薬師として働いていると知ったときは驚いた。
月下の佳人と呼ばられるフランシーヌに夫どころか婚約者もいないことは有名だったが、魔法薬師であることは知られていない。調べればすぐに分かったのだから、公爵家が隠しているわけではない。
ただ、レーベン公爵家を妻の実家にしたい猛者はいないので貴族の男性たちはフランシーヌを見るだけで満足する。そんな超高嶺の花として君臨するフランシーヌが恋敵にならない以上は貴族の女性たちもフランシーヌに憧れの目を向けるだけで何もしない。
ルドルフも声の主に夫や婚約者がいたら、何もリアクションを起こさなかっただろう。しかし、フランシーヌに婚約者はおらず、趣味もあいそうだし、親に依存して生きない彼女なら伴侶としてともに歩いてくれるのではと思った。
なにより妻の実家に気を使わないのがいい。
妃の実家となれば政界で発言権が増すもので、王や王子はその力が大きくなり過ぎないように他の家門との調整に気を使う。すでに王族よりも偉そう……威風堂々とブランシア王国のみならず一族郎党で世界中のあちこちに腕を伸ばしているレーベン公爵家一門にそんな気遣いは不要なのだ。
だから、フランシーヌを捕まえるために罠を張った。
レーベン公爵は恋愛結婚推奨派、ロマンスの始まりは劇的なものを用意しなくてはいけない。運命を感じさせるもの、ここでルドルフは初めて違う人生の知識を披露することにした。
運よく季節は夏、この世界の氷は貴重。ブラック無糖を好むコーヒー好きの彼女が釣れそうな誘い文句を手紙にし、ロマンスの王道であるシンデレラの王子のように国中の未婚の貴族令嬢に送った。
こうして捕まえた、婚約者にしたい女性。正確には、運命的なロマンスの舞台にフランシーヌを引っ張り出した。
「殿下、御用ですか?」
「クロイツ帝国の資料が欲しい、特に魔法薬師協会を中心に集めてくれ。あと薬草園の園長あたりに薬草栽培について詳しい者や国を聞いてきてくれ」
魔法薬師、薬草という言葉から侍従の頭にはフランシーヌ嬢が浮かぶ。
「婚約者になってもらうために頑張って俺を売り込まなければな」
◇
「どうやって私が今日は休みを取っていることをお知りになったのですか?」
「人材交流を目的として三ヶ月、魔法師団の新人十人を魔法薬の研究棟に送りこんだら教えてくれた」
「有能ですね」と皮肉気なフランシーヌにルドルフは笑う。
「そんな優秀な俺に外交の依頼が来ている。相手はクロイツ帝国、使節団には魔法薬の専門家が二名。俺としては彼らを薬草園に案内しようと思うのだが……興味はあるか?」
「魔法薬師としての参加は?」
「言っただろう、俺に会いに来るって。君が参加しないならばクラウス殿にお願いすることになっている、彼は俺の側近だからな……ただ王太子妃なら別だ。王太子妃候補ならば彼女が最側近になる、社交は男女ペアが基本だしな」
くう……と悩む仕草を見せるフランシーヌにルドルフの笑みが深くなる。
「来年にはランダール王国に行くことになった。知っているな、世界で一番薬草栽培が盛んな国だ。閉鎖的な国だが魔法薬に興味があるといったら『是非ご夫婦で来てくれ』と言われたよ。保守的な国だ、妻でもない女性を帯同させるわけにはいかない」
「王太子妃になれば行けるんですか?」
「俺は約束は守る男だ」
ルドルフの前にフランシーヌの白い右手が出される。
「よろしくお願いします」
「喜んで」
ルドルフも右手を差し出し、フランシーヌの手をぎゅうっと握る。その感触にフランシーヌはもぞっとする、どこか居心地の悪い思いをした。
「そうだ、愛やら恋やらはどうします?」
「それは結婚してからでも良いさ。俺の勘だが、きっと俺は君に恋をすると思う」
このときフランシーヌは座り心地が悪いような、居心地の悪いもぞっとしたものを感じた。これがルドルフに恋した瞬間だったのだと、フランシーヌは両親の恋物語を聞きたがった娘にそっと教えた。




