第1話 「拝啓、旦那様」
「母上」
呼ばれて振り返ったフランシーヌの目に入ったのは、若かりし頃の夫にそっくりの息子マックスだった。幼い頃からの教えを守るマックスの表情に感情が見えないが、赤く染まっている目尻が彼が悲しんでいることをフランシーヌに教えてくれた。
自分に向けられるマックスの気遣う表情は夫を彷彿とさせて、「やはりあの人の息子だな」と思ったフランシーヌは目の奥の痛みにマックスから目を逸らす。部屋の中がぼやけて見えた。
(ああ、いけない)
目に力を入れて涙を零さないようにしていたのに、視界にハンカチが入ってくる。見るとマックスがハンカチを差し出していた。
「母上。今夜くらいは王妃ではなく妻として、王ではなく夫を亡くした哀しみに浸ってもよいのではありませんか?」
(哀しみに、浸る……)
フランシーヌが当時王太子だったルドルフと婚約したのは二十二歳のとき。
王族としてはもちろん貴族としても遅い婚約で、歴代の王太子妃たちが年齢一桁のときから学んできたことを何倍速で身につけなくてはいけなかったことでは夫を恨んだ。
寝不足の日が続き、一夜の付け焼き刃でなんとか乗り切り続けたあの頃。「世継ぎは?」と聞いてくる貴族たちも多く、奴らの名は忘れないと日記帳に書き綴ったことは今ではよい思い出だ。
(閨をしようと迫ってくるあの人を何度蹴り出したことか)
蹴られたルドルフは気分を害した様子を見せずただ笑うだけ。王家に嫁いだ重圧にフランシーヌが押し潰されないように、世継ぎのことは冗談や軽口にしてくれた。「私が満足させられないからだろうか」と貴族たちを煙に巻き、ルドルフは道化を演じて続けてくれた。
妻を貶めて自分をよく見せようとする男たちが多い時代。己の矜持を無視して、笑顔で自分を守ってくれるルドルフにフランシーヌはいつしか恋をしていた。ルドルフに恥じない自分でいたい、フランシーヌは理想的な妃でいようと自分に誓った。
先代国王が身罷り、ルドルフは王になりフランシーヌは王妃になった。
その頃にはフランシーヌの王妃としての素質を疑う声はなくなり、フランシーヌはルドルフの隣で心から笑えていた。それができたのは全てルドルフのおかげ。ルドルフがずっとフランシーヌの心を守ってきたから。ルドルフにずっと守られていた心は、ルドルフがいなくなっては哀しみ方も分からなかった。
「私は大丈夫よ」
結局、笑ってこう言うしかない。泣き方を忘れさせたのだから最後まで責任とってほしかった、自分を看取ってから死ぬべきだったと胸の中でルドルフに文句を言いながら。
「お祖母様」
城の最上階、東端にある王の間の隣にある王妃の間。歴代の王妃に与えられたその部屋を片付けていると孫娘のトリシャが訪ねてきた。フランシーヌは笑顔で彼女を歓迎した。
「ここがお祖母様の部屋ではなくなるのは変な感じがします」
ブランシアの王は終身制。王の部屋が新たな王の部屋となるように、王妃の部屋は新たな王妃の部屋になる。王太后となったフランシーヌは七日以内に離宮に映らなければいけない。それがブランシアの習わしだった。
義母である先代王妃が習わしに準じて王妃の間を去るとき、フランシーヌは彼女を追い出した気分になって気まずかったのだが、いざ自分がその立場になってみるとこの習わしに感謝していた。夫婦としての思い出しかないこの部屋に一人残るのはとても淋しいから。
(スパッと『過去』にしてくれることで、思い出の場所に縋らなくてすむわ)
「トリシャ、あなたの婚約者はどうしたの?」
フランシーヌの言葉にトリシャは苦笑する。
「お父様たちと弔い酒をしています。祝い酒で飲むためにお祖父様が準備していたサケを片っ端からあけて騒いでいますわ」
「あの人は賑やかな場が好きだったから良いことだわ。……あなたの結婚式、延びてしまったわね」
ルドルフはずっと「お前の花嫁姿を見るまで死ねない」と言っていたから、「それなら当分結婚はしません」とトリシャは答えていた。
―― 長生きしろと素直に言えばいいのに。
仮縫いの花嫁衣裳を着てみせてくれたトリシャの愛らしさを褒め称えながら、そう嬉しそうに病床で笑っていたルドルフをフランシーヌは思い出す。
トリシャは宣言通りルドルフが生きているうちは結婚しなかった。そしてこれから王族は喪に服すため、彼女の結婚式は三年も延期することになっている。
(これも実はあの人の作戦だったりしてね。トリシャが隣国に嫁ぐのをそれはもう嫌がっていたから)
ルドルフはこのトリシャをとても可愛がっていた。トリシャへの溺愛を一切隠さず、一歳になるくらいまでは毎日のように「お祖父ちゃんだよ、愛しているよ」とトリシャを腕に抱きながら優しく囁いていた。
(私に愛していると言ってくれるまでには時間がかかったのに)
生後二日でルドルフから愛の言葉をもらったトリシャにヤキモチを焼いたことはフランシーヌが墓場まで持っていく秘密だ。
「それは?」
フランシーヌはトリシャが持つ小さな箱に気づいた。年季の入った薄汚れた紙の箱。なんとなく見覚えのあるそれ。何だったかしらとフランシーヌは記憶を揺すぶる。
「お祖父様から、自分が死んだらお祖母様に渡してほしいと頼まれましたの」
それはルドルフが最期に残した贈り物らしい。トリシャの少女らしい好奇心に満ち溢れた目に『開けて』と催促されるものの、フランシーヌとしては開けるのを躊躇ってしまう。死後も自分を驚かせようとするルドルフに笑うべきか、それともいまは顔を合わせて笑い合えないことを悲しむべきか、これが最後と思うと反応に困る。
「……あら、まあ」
複雑な感情に翻弄されながらフランシーヌが紙の箱を開けると、中には古ぼけた麻袋。そしてそれはフランシーヌを二十二歳の娘に引き戻した。
◇
フランシーヌはブランシア王国レーベン公爵家の七番目の子どもとして生まれた。姉が二人に兄が四人。全員同腹の兄弟であるといえば両親の仲の良さに説明は不要だろう。
一般的には公爵家というと「王家の親戚」を指す。レーベン公爵家とブランシア王家、開国の祖である初代国王と初代レーベン公爵の父親は兄弟だった。初代国王は弟に封爵を断られたので甥っ子に押しつけたと記録には残っている。
建国から八百年、フランシーヌとルドルフが結婚するまで二家の間に婚姻は長く、ずっと友情しかなかった。ずっと友情だけがあったともいえる。フランシーヌの父フランクも、ルドルフの父である国王マックスの親友だった。
二家の間に婚姻がなかったのは、別に何か決まりがあったわけではない。
初代当主の父親の時代からレーベン公爵家の者は自由をこよなく愛してきた。そのため柵の多い王家の王子や姫との結婚は「面倒だから」と嫌がってきただけ。逆に王家のほうからはたびたび打診があった。理由は「親戚付き合いに苦労がなさそう」。そんな理由で結婚しようという王子や姫たちを恋愛結婚推奨派のレーベン公爵家は門前で追い払ってきた。
権力欲皆無のくせに権力も資金力もあるレーベン公爵家一門。国王が血迷って「俺が法律だ、俺に従え」などレーベン侯爵に言えば、その翌日には地図上にレーベン公国ができると言われている。そんな一門だから王子や姫からの結婚の打診など躊躇せず吹き飛ばしてきた。
そんな風に王族に対してレーベン侯爵家の恋情は皆無だったが、王族に対して友情はあった。
レーベン公爵家は歴代当主はもちろん、その他の者たちも国のために尽くしてきた。本人は気の向くまま動いただけの結果論であるが、彼らは国に結果的に貢献してきた。
フランシーヌの両親も六人の姉兄たちも皆、好きなことを楽しんで結果的に国に貢献した。
「みんなを看取ってから天に召されることが末っ子の使命なのね」
フランシーヌはそう呟くと、侍女が用意した回復系の魔法薬を飲んだ。
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