末っ子公女は夫に先立たれる
「母上」
呼ばれて振り返ったフランシーヌの目に入ったのは、若かりし頃の夫にそっくりの息子マックス。
幼い頃からの教えを守り表情には感情が見えないが、目尻は赤く染まっている。
自分に向ける気遣う表情も夫を彷彿とさせて、「やはりあの人の息子だな」と思うフランシーヌの目の奥が痛くなり視界がぼやける。
(ああ、いけない)
目に力を入れて涙を零さないようにすると、マックスがハンカチを差し出した。
「母上。今夜くらいは王妃ではなく、妻として夫を亡くした哀しみに浸ってもよいのではありませんか?」
(哀しみに、浸る……)
フランシーヌが王太子だったルドルフと婚約したのは二十二歳のとき。
王族としてはもちろん、貴族としても遅い婚約。
歴代の王太子妃たちが年齢一桁のときから学んできたこと何倍速かで身につけなくてはいけなかったことでは夫を恨んだ。
寝不足の日が続き、一夜の付け焼き刃でなんとか乗り切り続けたあの頃、「世継ぎは?」と聞いてくる貴族たちの名を忘れまいと書き綴ったことは今ではよい思い出だ。
(閨をしようと迫るあの人を何度蹴り出したことか)
王家に嫁いだ重圧にフランシーヌが押し潰されないように、世継ぎのことは冗談や軽口にして、「私が満足させられないからだろうか」と貴族たちを煙に巻き、道化を演じてくれたルドルフ。
フランシーヌの二つ名は『ブランシアの月下美人』。
夜しか妃らしく着飾らず夫と褥を共にしないフランシーヌをどこかの貴族が揶揄した言葉だが、それをルドルフは「幻想的な美しさに見惚れる」とか「秘めやかな艷やかさが劣情を誘う」と褒め言葉に変えて矛先を鈍らせてくれた。
妻を貶めて自分をよく見せようとする男たちが多い時代。
己の矜持を笑顔で守ってくれるルドルフにフランシーヌはいつしか恋をし、ルドルフに恥じない自分でいようとフランシーヌは理想的な妃でいようと自分に誓った。
先代国王が身罷り、ルドルフが王になった頃にはフランシーヌの妃としての素質を疑う声はなくなった。
それができたのはルドルフがずっとフランシーヌの心を守ってきたからで、ルドルフ亡きいまは哀しみに浸る方法が分からなかった。
「私は大丈夫よ」
結局、笑ってこういうしかない。
泣き方を忘れさせたのだから、最後まで責任とって自分を看取ってから死ぬべきだったと胸中でルドルフに文句を言った。
***
「お祖母様」
歴代の王妃に与えられた部屋を片付けていると、孫娘のトリシャが訪ねてきた。
入室を求められたので、笑顔で歓迎する。
「ここがお祖母様の部屋ではなくなるのが変な感じです」
城の最上階、東端にある王の間の隣にある王妃の間。
ルドルフ亡きいまは王太后となるフランシーヌは、七日以内にここを出て離宮に行くのがブランシアの習わしだった。
義母である先代王妃が習わしに準じて王妃の間を去るときにフランシーヌは追い出した気分になり気まずかったが、いざ自分がその立場になってみるとこの習わしに感謝したくなる。
夫婦としての思い出しかないこの部屋に一人残るのはとても淋しい。
(思い出にすがって惨めに未練を残すよりも、スパッと過去にできるほうがいいわ)
「婚約者はどうしたの?」
「お父様たちと弔い酒をしています……祝い酒で飲むためにお祖父様が準備していたサケを片っ端からあけて騒いで」
「賑やかな場が好きだったからよいのではないかしら……結婚式が一年延びてしまったわね」
「お前の花嫁姿を見るまで死ねない」と言っていたルドルフに、「それなら当分結婚はしません」と意地を張る振りをしたトリシャ。
「長生きしろと素直に言えばいいのに」と嬉しそうに病床で笑っていたルドルフをフランシーヌは思い出す。
花嫁姿は仮縫いのものでルドルフに見せたものの、トリシャの結婚は本人の宣言通りルドルフが生きているうちに行われず、これから王族は喪に服すため三年間延期になった。
(これもあの人のトリシャが隣国に嫁ぐのを先延ばしにする作戦かもしれないわね)
ルドルフはこのトリシャをとても可愛がっていた。
トリシャへの溺愛を一切隠さず、一歳になるくらいまでは毎日のように「お祖父ちゃんだよ、愛しているよ」と腕に抱くトリシャに優しく囁いていた。
(私に愛していると言ってくれるまでには時間がかかったのに)
生後二日でルドルフから愛の言葉をもらったトリシャにヤキモチを焼いたことはフランシーヌが墓場まで持っていく秘密だ。
「それは?」
フランシーヌはトリシャが持つ小さな箱に気づいた。
年季の入った薄汚れた紙の箱、何だっけとフランシーヌの記憶が揺すぶられる。
「お祖父様から、自分が死んだらお祖母様に渡してほしいと頼まれましたの」
ルドルフが最期に残した贈り物。
トリシャの少女らしい好奇心に満ち溢れた目に催促されるものの、何となく開けるのを躊躇ってしまう。
死後も自分を驚かせようとするルドルフに笑うべきか、それともいまは顔を合わせて笑い合えないことを悲しむべきか。
フランシーヌは複雑な感情に囚われながら紙の箱を開ける。
「……あら、まあ」
箱の中に入っていた古ぼけた麻袋を見た瞬間に、フランシーヌは二十二歳の娘に戻った気がした。
***
フランシーヌはブランシア王国の貴族、レーベン公爵家の七番目の子どもとして生まれた。
姉が二人に兄が四人、全員同腹の兄弟であるといえば両親の仲の良さに説明は不要だろう。
一般的には公爵家というと「王家の親戚」を指すのだが、レーベン公爵家とブランシア王家の縁は開国の祖である初代国王と、初代レーベン公爵の父親が兄弟だったことしかない(初代国王は弟に封爵を断られたので、甥っ子に与えた)。
建国から八百年、フランシーヌとルドルフが結婚するまで二家の間には長く友情しかなかった。
フランシーヌの父フランクも、国王でありルドルフの父であるマックスの親友だった。
二家の間に婚姻がなかったのは別に決まりがあったわけではなく、レーベン公爵家の者は自由をこよなく愛していたため柵の多い王家の王子や姫との結婚は面倒だと嫌煙してきただけだ。
逆に王家には時々「親戚付き合いに苦労がなさそう」という理由でレーベン家の者と結婚しようとする者がいたが、恋愛結婚推奨のレーベン公爵家の門前払いを食らっている。
権力欲皆無のくせに権力も資金力もあるレーベン公爵家一門。
たとえば国王が血迷って「俺が法律だ、俺に従え」などと言った翌日には地図上にレーベン公国ができるだろうなってくらいの一門である、王家からの婚約の打診など簡単に吹き飛ばしてなかったことにできた。
恋情は皆無だったが友情はあり、レーベン公爵家の歴代当主はもちろん他全員も結果的には国のために尽くしてきた(本人は気の向くままに極めただけの結果論)。
フランシーヌの父親と六人の兄弟たちもみんな、好きなことを楽しんで国に貢献してきた。
「みんなを看取ってから天に召されることが末っ子の最大の使命ね」
フランシーヌはそう呟くと、侍女が用意した回復系の魔法薬を飲んだ。