その3 彼女が消えてから 後編
樹里亜の言われていることがわからないという顔を見ていて、無性に腹が立ってきた。
「何か言ったらどうなんだ」
「いや、ちょっと待ってください。偽名を名乗っていたのは確かですけど、それには事情があったんです。私は彼女……野口さんに頼まれて、海の家に行ったんですよ」
「事情~、ねえ~」
『事情』という言葉を鼻で笑ってやる。大学で見たあの男のことが浮かび、『彼女のことではない』と確信していたのに、あのことをつい口にしていた。
苛立ちに任せて言葉を吐きだしていると、ガタンと音がして樹里亜が立ちあがった。樹里亜の顔を見て……表情の抜け落ちた顔に『まずい』と、彼女の手首を掴んで止めた。
「どこに行くんだ」
「部屋に戻るんですけど」
感情の無い眼差しに怯んでしまう。が、(ここで彼女を帰してしまうのは駄目だ)と、理性が必死に訴えてくる。
「離してくれませんか」
「まだ話は終わってないだろう」
引き止めるために出た言葉は……傲慢な言い方だった。(まずい、まずい)と頭の中では警鐘が鳴り響いている。適切な言葉が出てこなくて焦りばかりが募る。
だけど、彼女は自分の部屋に戻って考えたいという。
離れる彼女に追い縋ったが、俺の言葉がまずかったのか、彼女の眉間にしわが寄っていった。なんとか部屋に戻るのを留まらせようとしたけど、もっと彼女から冷たい視線を浴びることになった。
日を置いて話し合うのは悪手だとわかるのに、引き止めることは出来なかった。
彼女は去り際に八年前のことは海の家のオーナーの深見さんが知っていると言った。
彼女が出ていき、扉が閉まるのを茫然と見ていた。しばらく何を言われたのか分からなかった。
海の家?
オーナー?
深見さん?
……!
理解すると共に、慌てて玄関から飛び出した。
エレベーターの前に行くと、十四階で止まったところだった。
十四階? 樹里亜の部屋は五階だと言っていなかっただろうか?
次に十二階で止まり、九階で止まる。
こんな時間に乗る人がそんなにいるのだろうか?
八階で止まり、五階で止まったのを確認して……。
今から彼女の部屋に行っても、入れてもらえないだろう。
その前に何号室か聞いていないことに気がついた。彼女が部屋の鍵を交換する話をしている時は、少し離れて聞かないようにしていたのだから。
俺は一つため息を吐きだすと、部屋へと戻った。そして、久しぶりに深見さんに電話をした。深見さんとは年に一、二回は会う仲だ。少し年は離れているけど、俺は兄貴と慕っている。
深見さんは俺からの電話に喜んでくれたけど、用件が八年前のことだと知ると、渋い声で話してくれた。
八年前のことはすべての原因は、彼の姪がやらかしたことだった。高校の時から遊び惚けていた姪・幸恵のことを、幸恵の両親が頼み込んで都会から隔離するつもりで深見さんに預けることにしたらしい。
それなのに実際に来たのは樹里亜だった。樹里亜はバイトがダブルブッキングになって困っていた幸恵から、頼まれてきたそうだ。
怒り心頭の深見さんだったが、樹里亜に懇願されて幸恵の両親に連絡するのを止めにしたとか。名前も本名を呼ぶつもりだったのだけど、なぜか『幸恵』で通すことになってしまったそうだ。
おかげで不本意過ぎて、樹里亜を紹介する時にすごい顔になってしまったらしい。
結局、幸恵が海の家にバイトに行かなかったことはすぐにバレて、両親からお灸をすえられたそうだ。
それから樹里亜が家に戻ったのは、祖母が倒れたと連絡が来たからだった。病院に駆け付けた樹里亜を待っていたのかのように、樹里亜と言葉を交わしてから亡くなったそうで。そういう事情だったから海の家が開いている間に戻ってくることは出来なかった。
深見さんとの電話を終え、俺は深々と息を吐きだした。
やはりあの女が元凶だったようだ。
俺は明日、樹里亜と会って謝ろうと思った。五階の部屋を……訪ねてまわるわけにはいかないから、一階のエントランスで待つことにした。
そうだ。そのことをメッセージで送ることにしよう。
メッセージを送り終わった俺は、気分を切り替えて休むことにした。
が、眠れない一夜を過ごした。
だから、翌日、いつまで経っても既読がつかないことに気がつかなかった。
気がついたのは一階に降りて、いつまで待っても樹里亜が来ないことで、メッセージを開いたから。そう言えば時間を書くのを忘れた気がすると気がついて開いて見れば、既読がついていなかった。
慌てて時間を入れてメッセージを送ったけど、既読がつくことはなかった。
スルーされていることにショックを受けていると、「樹里亜、どうしたの」という声が聞こえてきた。声のほうを見れば、樹里亜が立ち止まってこちらを見ていた。
早足で近づくと、樹里亜の隣にいた男が警戒するように樹里亜より前に出てきた。
その顔を見た途端に、カーッと頭に血が上った。
が、男よりも樹里亜と話すことが大事だと、男を無視して樹里亜に話しかけた。
なのに、男のほうが口を出してきた。
不快感に口調も荒くなる。
男を窘めた樹里亜だったが、親しい呼びかけに、あの時の気持ちがよみがえり……またも暴言を吐いてしまった。
樹里亜が『弟』というまで、その可能性に気がつけなかった俺は、とんだ間抜けだった。




