1 兄の失踪
よろしくお願いいたします
ーーここは魔女の家なんです。
そう言ったのが誰だったのか、リベルトはもう覚えていない。
平民階級が暮らす地区を通りかかったのが、何の用事の折だったのかも。
馬車の中から指差されて目を向けた2階屋は貴族の屋敷に比べるとかなり小さく質素だが、そのあたりに建つ同じような家々に住めるのは平民の中では割に余裕のある者たちだという。
ただ、「魔女の家」は周囲のどの家より古く見えて、だからこそ想像力のある者が口にした作り話が広まったのだろうとリベルトは思った。
ところが、帰ってからその話を兄に聞かせると、彼はこともなく言ったのだ。
「ああ、あの家には魔女が棲んでいるよ」
この国には魔力を持つ人間が生まれる。決して多くはないが、珍しいというほどでもない。
ただし魔力量は少なく、使える魔法はちょっとした特技程度の者がほとんどで、彼らのことは「魔力持ち」と呼ぶのが一般的だ。
例えば、リベルト付きメイドのアマンダは手をかざすだけで暖炉やランプに火を灯せるらしい。
また、ニコロという庭師は植物の成長を少しだけ早めることができるらしい。
リベルトが「らしい」としか言えないのは、王宮では魔法が使えないので彼らの力を実際には見たことがないからだ。
しかし、アマンダは「マッチを使うほうが楽だ」と言うし、ニコロに至っては「魔力を使わなくて済むから王宮の庭師になった」と言う。
どうやら「魔力持ち」が魔法を使うと魔力があっという間に尽きてしまい、疲労が激しいようだ。
だが中には大きな魔力を持ち、様々な魔法を駆使する「魔術師」と呼ばれる者も存在する。
数百年前には、飛び抜けた魔力を使って国を揺るがした女魔術師がいたという。
その魔術師は当時の王太子を誑かして国を乗っ取ろうとしたものの、王弟がその企みに気づいて阻止し、「魔女」として断罪された。
王宮内で魔法を使えないよう結界が張られたのも、その事件がきっかけだった。
歴史の授業で習うほか、子ども向けの物語から歌劇まで様々な創作の題材にもなっている魔女は、この国においては悪しき存在の代名詞と言える。
しかし、リベルトに魔女について語る兄の声は優しく、その顔にはどこか哀しげな笑みが浮かんでいて、いつも飄々としてリベルトを揶揄う姿とは明らかに様子が異なっていた。
あれから数年。
再び平民の居住区を訪れたリベルトは、「魔女の家」の玄関前に立っていた。
建物はやはり古いが、間近に見た玄関扉は意外に重厚でわずかな歪みもなくピタリと閉ざされていた。
リベルトは少しだけ躊躇ってからノッカーを鳴らした。
大して待たされることなく、ギギッと音を立てて扉がゆっくりと開いた。
現れた初老の男は、小さな家には不釣り合いなほどの慇懃さだった。貴族の屋敷で執事として働いていてもおかしくない。
リベルトが己の名と突然の訪問の目的を告げると、執事はあっさりと扉の中へ通した。
案内された居間は狭くはあるが品の良い家具が並んでいた。掃除も行き届いている。
そこでリベルトを迎えた家の主は若い女性ーー兄より3つ歳上だと聞いたから、23歳のはずーーだ。
ごく淡い金の髪と血色の良くない白い肌、それに何の飾り気もない青灰色のドレスは彼女をまるで幻影のように儚く見せた。
だが瑠璃色の瞳の輝きが、彼女が確かに存在しているとリベルトに伝えてきた。
瑠璃色から真っ直ぐ向けられる視線になぜか胸が痛むのを感じながらリベルトは口を開いた。
「お久しぶりです。先触れもせずに押し掛けて申し訳ありません」
途端に彼女は虚を突かれたような表情になった。
「殿下がこちらにいらっしゃるのは初めてのはずですが」
彼女に言われてリベルトは己の失言に気づいた。
「失礼しました。兄から何度もあなたの話を聞いていたのでお会いしたことがあるように思えてしまって」
リベルトが慌てて口にした言い訳に、彼女は微笑んだ。またリベルトの胸が痛んだ。
「それは光栄にございます」
「改めて、リベルト・アリエンツォです」
互いに必要はなさそうだが、初対面の相手に対する礼儀として簡単に名乗った。
「ヴェロニカと申します」
彼女は綺麗な淑女の礼を返した。
ヴェロニカと向かい合ってソファに掛けた。
どうにも気持ちが落ち着かなかったが、執事と同年代のメイドが運んできた紅茶を口に含むとリベルトは自分がここに来た目的を思い出した。
「今日は兄のことを尋ねるために伺いました」
ヴェロニカは表情を変えずに頷いた。
ここまでは先ほど執事にも告げたし、そもそもリベルトとヴェロニカを繋ぐものはジェレミアの存在だけなのだ。
「どのようなことでしょうか?」
「3日前に兄が姿を消しました」
ヴェロニカは何度か目を瞬いた。
「姿を、消した?」
リベルトは懐から1枚の便箋を出してヴェロニカに見えるようテーブルの上に置いた。
「私のところにこれが残されていたので自らの意思だと思われます」
ーー考えたいことがある。しばらくの間、代わりを頼む。
そう書かれた文字はリベルトには見慣れた兄の筆跡、便箋も王宮で日常的に使われているものだ。
「王太子が失踪したなど公にはできませんので急な病で療養していることにして側近たちが密かに探しておりますが、まだ見つかりません。兄と親しいというあなたなら何かご存知なのではないかと思い、こうして参ったわけです」
ヴェロニカの顔に困惑が広がった。
「そう仰られましても……」
「些細なことでも構いません。兄とお会いになった時、何か変わった様子はありませんでしたか? 兄の行き先に心当たりは?」
ヴェロニカはしばらく視線を彷徨わせて考える様子を見せたが、やがて小さく息を吐いた。
「特に変わった様子はお見受けいたしませんでした」
「そうですか」
「それに私はジェレミア殿下がこちらに時たまお寄りくださってお会いするだけです。仲の良い弟君がお気づきでなかったことを私が気づけるとも思えません」
「仲の良い弟、ですか」
リベルトが頬を緩めると、ヴェロニカは首を傾げた。
「世間では、私たちは仲の悪い兄弟だと言われているのですよ」
ジェレミアとリベルトはこの国の王子兄弟だが母が違う。
まだ王太子だった父にオルランディ公爵家から嫁いだ最初の妃はジェレミアを産んで間もなく薨った。
そのため、デルカ侯爵家から迎えられたのがリベルトの母である2番目の妃だ。
リベルトは3歳上の優秀な兄と常に比較されて育ったが、リベルト自身にとってジェレミアは競う相手ではなかった。
幼い頃のリベルトはいつも兄の後をついて回っていた。兄はリベルトに気づけば振り向いて手を差し出してくれた。
兄弟のそんな関係は王子としての教育が始まってからも変わらなかった。
兄弟は支え合うべきと考える父は、ジェレミアとリベルトの仲の良さを喜んでいた。
母も父の意向を尊重し、ジェレミアも我が子として扱っていた。
しかし、ジェレミアとリベルトのどちらが王位を継ぐのか、オルランディ家を中心とした第一王子派とデルカ家ら第二王子派の間には激しい対立があった。
そのため、世間ではジェレミアとリベルトは不仲だと信じている者が多い。
もっともこれは、ジェレミアが人目のあるところでわざとリベルトに冷淡な態度を取って、人々の誤解を煽っているのも理由だった。
5年前にジェレミアが正式に立太子したことで、次期王位争いはだいぶ下火になった。
ずっと兄が王太子になるのが当然と考えていたリベルトは、一昨年からジェレミアの補佐役として働いている。
リベルトが自ら望んでそうしているのだと知るのは、兄弟の側近たちと両親くらいだろう。
「確かにそのあたりの事情は多少お聞きしておりますが、そもそもおふたりが本当に不仲でいらっしゃったら、殿下は今こちらにおられないのではありませんか?」
ヴェロニカの言葉はもっともで、リベルトは「仰るとおりですね」と頷いた。
ふたりが不仲ならジェレミアはリベルトにヴェロニカのことを話さなかっただろうし、リベルトはジェレミアの行方を探さなかったはずだ。
ヴェロニカが浮かべた微笑みは先ほどまでよりも感情がこもって見えた。
兄の前でなら、彼女はもっと様々な表情を見せるのだろうか。
望ましくない感情が湧きそうで、リベルトは急いで紅茶を飲み干すと立ち上がった。
「そろそろお暇します。突然の訪問にも関わらずお時間を割いていただき、ありがとうございました」
ヴェロニカも腰を上げた。
「こんなところまでお越しいただいたのにお役に立てず、申し訳ありませんでした」
リベルトはそのまま去るつもりだったが、気づけば振り払いきれなかったものが言葉となって口から零れていた。
「またこちらに伺ってもよろしいですか?」
ヴェロニカの瑠璃の瞳が訝しむようにリベルトを見つめた。
「もし何か思い出したり兄から連絡があったりしたら教えていただきたいのです」
「殿下はお忙しいのではありませんか?」
ヴェロニカの顔にあまり歓迎しない色が浮かんでいたが、リベルトは気づかなかったことにした。
「ええ、兄のせいでかなり。ですから、はっきりいつとはお約束できませんが次からはきちんと先触れを出します」
「先触れは結構です。私がここを離れることはありませんから」
ヴェロニカは淡々とそう言った。
リベルトが馬の手綱を手に振り返ると、玄関扉の内側に立っていたヴェロニカが深く一礼した。
リベルトも軽く頭を下げてから馬の背に跨った。