朱色 下
生温かい風が、木々の隙間を縫って吹き付ける。
その不愉快な風によって、僕の意識は現実へと引き戻される。気が付くと、瑠美が背伸びをして僕の顔を覗き込んでいた。
記憶にある姿と一緒の彼女がすぐそこにいる。
もう、この世にはいないけれど、すぐそこに居るのだ。
「どうしたの?」
瑠美が首を傾げ、そう言った。
僕は驚き、身を後ろに引きながら答える。その際に右手に持っているビニール袋がカサカサと音を立てた。
「……いや、何でもないよ」
「ふーん……じゃあさ、その涙はなに?」
「え?」
僕は慌てて頬を触ってみる。すると、確かに頬は濡れていて――――僕は泣いていた。
それに気が付いた途端、瞼からより涙が溢れ出してくる。
止め処なく。
際限なく。
絶え間なく。
溢れ出してくる。
「な……んで……」
僕はこの涙に理由が分からず瑠美を見た。
何故だ、何故泣いている。
うぐっ。
喉の奥で変な音が鳴った。目の奥が熱くなり、鼻がつんっと痛くなる。
「あぁ、あぁ」
涙が止まらない。
瑠美は不思議そうに首を傾げ、眉をひそめて僕を見ていた。
木々の梢の間から、陽の光が零れている。昔から変わらない白日の光が僕を照らす。いつまでも流れ続ける涙を隠すように蹲り、両手で顔を覆い隠した。
うぐっうぐっ。
僕の嗚咽だけが、蝉時雨と混ざり合い、木々の隙間を空転して響いていた。
□□□□
「落ち着いた?」
瑠美が、心配したような声音で声を掛けてくる。嗚咽が止まり、涙も乾き始めた頃、やっと僕は顔を上げた。「うん……」と頷きゆっくりと立ち上がる。
「どうしたの? 急に立ち止まってさ、時が止まったようにぼうっとしてたからどうしたんだろう? って思って近寄ったら、そしたらさ、いきなり泣き出すんだもん」
瑠美が微苦笑を浮かべながらそう言った。「本当に大丈夫?」と聞いてくる。
僕は泣き腫らした目で微笑んで言う。
「何でもないよ。ただ……ただ、そう。ゴミが目に入っただけだよ」
僕は目元をゴシッと拭った。
瑠美は手を後ろで組んで言う。
「ふーん。なんでもない、か。そっか。分かった。じゃあ、今度こそ私のお墓の前に行こ。あんまりお墓から離れていると体力使うんだよね。まあ、死んでいるっていうのに疲れるって変な話だけどさ」
そう言って瑠美は今度こそ踵を返して、歩いて行く。
僕はもう一度、腫れた目元を拭って、階段を上がりきる。そして、瑠美の五年前から変わらない、小さな背中を追って歩き出す。
彼女の、墓石に向かって。
□□□□
ビニール袋から線香を取り出す。一緒に買ったライターも取り出して、火をつけ、左右に素早く振る。
線香独特の匂いが、辺りに充満して僕の鼻腔をくすぐる。
瑠美が僕の手もとを覗き込みながら、呟いた。
「別にそんなことしなくてもいいのに」
そう呟いて、苦笑した。
僕は線香の先端についている火を眺めながら言った。
「そんなわけにはいかないよ」
線香を線香立てに寝かせて置き、手を合わせて目を閉じる。すると、瑠美が言った。
「……ねえ、ねえ、私はこっちだよ?」
僕は目を開け、隣りの瑠美に視線を移す。
「……そうだね。なんか、黙祷をささげる相手が真横にいるのって不思議な気分だね」
「えへへ、そうだねー」
瑠美は微笑む。その笑みに釣られて、僕の口角も持ち上がる。五年前までは普通のことだったのに、もうこうやって笑いあうことが出来ないんだ。
□□□□
暫く僕達は雑談を楽しんだ。
多くは昔の思い出を脚色して語り、笑いあった。
いつの間にか、背の高い梢の隙間から覗く空は、朱く染まっていた。もうじき、太陽は完全に西の空に沈み込んで、この世界に夜の帳を降ろすのだろう。
心なしか、蝉たちの声も小さくなっているような気がした。
会話が一段落した所で、僕は言った。
「……じゃあ、今日はそろそろ帰るよ」
そう言うと、瑠美が腰かけていた自らの墓石から腰を上げる。
「ええーもう帰るの? もうちょっと、君と話していたいのに」
瑠美は拗ねたように頬を膨らませる。そして、腐葉土の地面を見下ろした。
僕は、目の前のセーラー服を着た女の子を見ながら言う。
「大丈夫。明日も僕は来るからさ。僕も……瑠美ともっと話がしたいしね」
瑠美を諭しながら、周囲に視線を向ける。
もう、梢の隙間から降り注ぐ陽光はその朱さを増していて、周りの木々を、そして数多の墓石を、朱く彩っていた。瑠美の姿も、その朱色の海に中に沈んでいた。
瑠美は朱い自然の口紅の塗られた口を開いた。
「じゃあ、明日は朝から来てよね」
「ええ、僕だって、久しぶりの故郷だからやりたいことあるんだけど……」
僕は頬を掻く。
「知らないよ。そんなことは。君は五年も私を待たせたんだよ? いいじゃん、少しぐらいの我が侭聞いてくれてもさ。久しぶりに帰って来たって言っても、自分から帰って来なかったんじゃんか」
瑠美は頬を膨らませて、僕を詰ってくる。
「わ、分かったから。分かったからさ、落ち着いて。明日は朝から来るからさ」
まあ、僕も瑠美と話すのは楽しいからいいけれど、そう心の中で付け加える。
「よろしい。じゃあさ、明日はお供え物も持って来てね? 私、甘いものが食べたいなあ。ケーキとかケーキとかね」
「ええー、図々しいな。……まあ、いいけどさ。麓のスーパーの奴でいいよね? ――あ、でも、あそこケーキと置いてるのかな。この村に若い人がほとんどいないから、置いてないかもね。牡丹餅なら今日見たんだけど……」
それでもいい? と瑠美に聞く。
「ないなら仕方がないね。それでいいよ」
瑠美はおーけーを出した。
僕は言う。
「じゃあ、ね。帰るよ。また明日ね」
「うん、また明日ね……」
僕は踵を返す。階段に差し掛かったところで足を止め、後ろを振り返った。
そこには、セーラー服の少女が――――五年前から変わらない瑠美が、手を振っていた。僕も手を振り返す。そして、次に瞬きをした時には、彼女の姿は消えていた。
ただ、そこには朱色の海が広がっているだけだ。
僕は、再び踵を返す。
これからは、もっと帰ってこよう。そう心の中で呟きながら、階段を降りていく。
この美しい世界は廻り続ける。
何が起ころうと、世界は廻り続けるのだ。
その中で、僕は嫌でも前へと進み続けなければならない。五年前、その流れからはじき出された瑠美が、どれだけ僕を呼ぼうと、僕がその流れに逆らおうとしても、どうしたって時間の流れは止まらない。
毎日訪れる朱色の夕焼けは、いつも同じに、それでいていつも新鮮に、この世界を彩り続けるのだ。
僕を、
瑠美を、
彩るのだ。
【おわり】
これにて、完結になります。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
これを書くにあたって、昔書いた「朱色」を読み返したんですが、罰ゲームのような気分でした(笑)。




