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郭公拝  作者: 伊藤むねお
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河原の生涯

 鳴瀬川の急転で産まれた河原は三日月形の堂々たるものだったが、当時は川自体も隆盛で河原には、中州や細流が無数といえるほどに存在していた。

 河原は広いところは数百メートルも幅がある畑地だった。土壌は鳴瀬川が上流の田畑から攫ってきたものだったろうから、なかなかに肥沃なものだったはずである。

 以下は昭和30年ころの私のメモリーからの光景である。

 新堤防の上から眺望すると遙かなる遠景として背骨のように隆起する奥羽山脈があって、右の彼方の栗駒山から左は稜線が七ツ森まで切れ目なく続いていた。

 近景としての眼前は広い河原畑である。

 冬は葉を落とした桑の木が、まばゆい積雪の中にミニチュア電柱のように並ぶ、宮沢賢治の世界のようでそれも私は好きだったが、春になって艶っぽく濡れた黒土が現れると、待ちかねたように麦、白菜、葱、玉葱、菠薐草、トウミギ、馬鈴薯、里芋、薩摩芋、大根、牛蒡、人参、茄子、大角豆、エンドウ豆、胡瓜、トマト、枝豆など、町の人々が口にするありとあらゆる穀物の種が播かれ、野菜の苗が植えられた。

 水ぬるむ頃になれば、町の子どもは畑の中の道をせっせと川遊びにかよう。泳ぎと魚っこ取りが主たる目的であるが、途次、まだ青いトマトが素早く口の中に入ることもあったし、鬢が赤いトウミギが、これもまた素早くシャツの下に入ることもあった。馬鈴薯を掘りだして河原で焼いて食ったという不良っこどもの自慢話もよく聞いた。


 しかし私は作物よりは小鳥の巣に興味があった。高校で生物を教えていた父から影響を受けたのだろう。季節に合わせて麦畑の中を根気よくみてゆくと雲雀の巣が、ヨモギ混じりの石河原を辛抱強くみて歩くとセキレイの巣が、五度に一度ほどは見つかった。むろん巣を犯すようなことはしない。父の厳しい教えがあったからである。

 河原畑は堤防の恩恵に浴しなかったから、その後もたびたび冠水した。台風が大雨を降らせれば川の水は楽々と越えて拡がり、ありったけの作物と小鳥の巣を泥流で沈めた。

 しかし、その川も上流にダムが出来たり植林が進んだりすると次第に勢いを失ってゆき、やがては畑を襲うこともなくなってしまった。

 作物や小鳥が憂き目をみることはなくなった。

 しかし河原畑の幸せは長くは続かなかった。

 十年ほども経つと、今度は人間によって姿を消し始めた。冠水がなくなり生計が安定しだした町民の関心が福利厚生の方に向かったからである。若者の農業離れからくる人手不足ということもあったのだろう。手始めとして真ん中に大きな運動場になると周囲の畑は順に放置されてゆき、一時は河原ヨモギとバッタ族の楽園となった。草むらに営巣する小鳥たちもまた我が世を謳ったことであろう。

 しかし、それもまた束の間にすぎなかった。


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