頼りになるお兄ちゃん(鶴見孝史の場合)
筆が進んだので、書きました。
よろしければ。
現在、率直な感想を募集しています。もっとこうしたら良いのに、こうしたら読みやすいのに等々何でも!もっと、楽しめる作品を作っていきたいので、お時間がある方はよろしくお願いいたします。
「孝史くーん!怖いよー」
私は、泣き叫んでいた。
「桜ちゃん、心配するな。すぐ行くから!」
秋田犬に睨まれた私は、ただ泣きじゃくるだけだ。すると、孝史くんは落ちていた木の枝を秋田犬に見せると、秋田犬が興味を持ったとたん遠くへ投げた。木の枝に釣られるように、犬は去っていく。
「孝史くーん」
と、飛び付いた私に孝史くんは、目を細めて笑う。孝史くんは、私の頭をそっと撫でた。
そして、10年―
「桜!肩のところに青虫ついてるよ!」
「え?嘘、ちょっと、悠里取ってよ!」
「無理無理、私、虫苦手だもーん!」
そこそこ田舎育ちの私達だが、虫は苦手だった。いつも見かけては、二人でよく大騒ぎする。悠里は、徐々に私から距離を置いた。
「ちょっと、逃げないでよ~」
「ごめんて、でも、無理なもんは無理」
「ゆーりー」
「はい、動かないで」
低音の、でも、良く響く声。それは、桜の聞きなれたものだった。その声の主は私の肩から青虫をひょいと掴むと、近くの草むらへと置いてあげていた。
「ありがとう!孝史くん」
孝史くん、鶴見孝史は、五歳年上。法学部へ通う大学四年生だ。昔も今も、優しくて冷静で、頭が良い。私のヒーローだった。昔と変わったのは、銀縁眼鏡を掛けていることくらいだ。
「朝から騒いでるから、何事かと思って心配したよ」
静かに笑う。私も、いたずらが見つかった子供のように笑った。
「それじゃあ、俺は、大学に急ぐから」
「うん、ありがとう」
孝史くんは、ひらひらと手を振り去っていった。悠里は、私の腕を掴んで
「桜の幼馴染み、かっこよくて優しくていいなー」
「でしょ」
これは、私の誇れる数少ないことだった。悠里は、吹き出して
「何で、桜が威張るのよ~」
穏やかな初夏。蝉が目を覚まし始める頃だった。
え?洗い物をしている途中の皿を落としそうになった。出しっぱなしの水道の水の音だけが耳についた。
「孝史くん、引っ越しちゃうの?」
母が教えてくれた。都市部のロースクールに通うため、地元を離れるというのだ。
「そう。だから、今のうちに、孝史くんに会って、お別れしときなさい」
「う、うん…」
ずっと一緒だと思っていた。幼い頃と同じように、この町で暮らしていくのだと。でも、違ったのだ。当たり前だ。変わってないものよりも変わったものの方が、実際は多いのだ。私が嫌いだったスカートを捌けるようになったのも。孝史くんが苦手だったらっきょうを食べられるようになったのも。二人の距離が、前より少し遠くに感じたのも。心も体も環境も、人は変化に抗えない。
お別れ、か。狭いこの町から出ていく人がいるのは珍しいことではない。だが、何だかその言葉が今まで見たこともないような未知の生物のように思えて、仕方がないのであった。
休日、市立図書館に来た。孝史くんのお気に入りの場所だからだ。やはり、彼はそこにいた。控えめな彼の性格を表すみたいに、いつも座っている入り口から一番奥の窓際の席。私は、いくつかの本を選んで、孝史くんの隣の席に座った。シェークスピア、谷崎潤一郎、村上春樹、私が読める中での大人っぽい本だった。孝史くんは、少し驚いたようだった。
「本読むなんて、珍しいね」
孝史くんの言う通り、私は読書がそこまで好きではなかった。学校の教科書で読む程度だ。孝史くんは、難しそうで分厚い法律の本を読んでいた。
「うん」
そこから、言葉は続かなかった。何て言ったら良いのか、わからなかったのだ。さよなら、また会おうね、お正月とか帰ってくるんでしょ?その言葉が言えなかった。
「おばさんに、聞いたの?」
孝史くんは、悟ったように言う。私は大きく頷いた。
「そうかぁ」
孝史くんは、伸びをしながら、後ろにのけ反った。そして、しばらく上を眺めていた。何を見ているんだろう?
「この図書館の天井、好きなんだよね」
「え?」
思っていたことの答えが返ってきて、少しうろたえる。
「染みがいろんな物の形に見えて、面白い。小さい頃、空を見て、同じようなこと一緒によく考えてたよね」
宙を見た。そうだ。そんなことあった。よく空を見ては、うざぎだ、いや飛行機だ何て言ってた。確かにあった同じときを過ごしていたのだ。
「色々さ、たくさんのことが変わるけど、変わってきたけど―」
孝史くんは、いつの間にか体勢を戻して、線がピンと張ったような姿勢のまま、
「変わらないものもあるよね」
優しい微笑みだった。私の考えをすべて見透かしているようだった。
「っていっても、まだ、数ヵ月はここにいるしさ」
図書館には似つかわしくない弾けた笑い。私も釣られて笑った。
「桜ちゃん、心配するな。ちょこちょこ戻ってくるから」
私は、泣かなかった。子供の頃から時を経て、変わったことだった。孝史くんの大きな手が私の頭を包み、優しく撫でた。
窓からはいる風が本のページを撫でて、捲っていた。
御覧いただき、ありがとうございました。
まだまだ続きます。楽しみにしてくださったら、嬉しいです。