ケンカ
彼とケンカした。
正しくは婚約者の彼とケンカした。
いつものように些細なことで。
だから、いつものように仲直りして一緒に帰るために彼の部署に行った。
スマホで時間を確認して、彼のオフィスに入ろうとして足が止まった。
彼の声がしたから。
「さあ、飲みに行こうぜ」
「ほんとですかぁ~」
「ほんとほんと」
「あたしもいきたーい」
「あたしも~」
「おう、行こう! ついてこいっ」
スマホが手から落ちて転がる音が笑い声で消える。
小心者の私の背中を押すために、ついてきてくれた後輩の中村があわてて廊下に連れ戻す。
「俺以外とモテる?」
「真鍋さんモテますよぅ」
「だから結婚なんてやめて、私達と飲みに行きましょうよぅ」
「ん~そうだなぁ、やめちゃおうかなぁ」
「そうそう。あんな優しくない人なんてやめて私と付き合ってくださいよぅ」
……なんか、散々な言われようだな。
でも、そうか。
彼は私と結婚したくなかったんだ。
プロポーズも、ほんとはしたくなかったんだ。
私だけが本気で、私だけが嬉しくて。
どうして?
真鍋の心は私にはなかった。
ヤバい泣きそう。
私の背中を支えてくれていた中村が真剣な顔で歩き出した。
そのまま彼のオフィスに入っていく。
「っふっざけんなあぁぁぁぁ!!」
どかん! とすごい音がした。
悲鳴が上がる中、中村の怒声が響く。
「あんたそんな簡単に結婚やめんの!? じゃあなんでプロポーズなんてしたのさ!! 先輩に失礼じゃないの!?」
泣いてる場合じゃない。中村を止めなきゃ。
私はあわてて中に入り真鍋の胸ぐらをつかんでる中村を引き離しにかかる。
「中村っ! 中村やめて!!」
「止めないでください! 先輩泣かせてそのままなんて許せないし!!」
「充分だから!! もういいからっ!!」
お願い!! 叫んだあたしに落ち着いたのか、中村が真鍋を離した。
「茜……」
座り込んだ真鍋にさっきの女の子達が駆け寄った。サイテーとか酷いとかキャンキャン吠える女子を一瞥で黙らせる。
「……真鍋の気持ちはわかった」
「茜……?」
「ごめんね? したくない結婚させるヤな女で」
中村の腕を引いてオフィスを出る。
自分のアパートにと誘ってくれる優しい中村に、ほんとに感謝して、だけど一人になりたくて断った。
心配そうな中村に笑顔で手をふって、歩き出す。
そうして、駅についたときにスマホがないことに気づいた。けど、取りに戻りたくはなかった。
まだ、いるかもしれないし。
これ以上悪口なんて耐えられそうになかったから。
ぼぅっとしてたら、いつの間にか新居のマンションに帰ってた。無意識でもあたしの帰るのはここなのかとちょっと笑った。
ここに帰るのが嬉しいと思ってたのもあたしだけだったかぁ。
カギを開けて中に入って玄関に崩れ落ちる。
涙があふれた。
私達は同期入社だった。
短大卒の私が2つ下だったけど、同期の仲間とは仲が良くて。
真鍋は誰にでも優しくて、明るくユーモアでイケメンというモテモテな人だった。
だけど私にだけはやたらと挑戦的だった。
売られたら買ってしまう私は真鍋と口論する唯一の女子になった。
……ああ、奴の告白もケンカの後だったな。
何を言われたか理解できない私に、ニヤリと笑った真鍋は私には悪魔に見えた。
なんかしてやられた、みたいな。
プロポーズもケンカしてた時だった。
嬉しかったのに、天の邪鬼を飼っている私はそっけなくするのが精一杯で。
それでも結婚に向けて準備を始めて、新居を決めて式場を決めてハネムーンはどこがいいかなんて、盛り上がって……たのは私だけだったのかな。
「ああ、式場キャンセルかな……」
スマホなくて連絡できないけど、早い方がいいよね。
ここも解約しないと。
泣きすぎて真っ赤になった目で部屋を眺める。
私が気に入って決めた部屋でこんな気持ちになるなんて。
ケンカもしたけどたくさん笑うこともあった。
私が真鍋を好きなように、真鍋も私を好きでいてくれると無条件に思っていた。
そうじゃないのに、そうじゃなかったのに。
私だけが勘違いしてた。
こんな気持ちでここにはいられなかった。
私はキャリーケースに詰めるだけの荷物を持って部屋を出た。
テーブルの上に指輪を置いて。
そして、行き先のない旅に出た。
ザザ……ン
波の音だけが聞こえる。
私は朝から晩までここで海を見てた。
旅館の女将さんが気を使って持ってきてくれるお弁当がなかったら、それこそなにも食べないまま。
初めてのデートの海で、初めてのお泊まりの海で、プロポーズの海で。
もう、2日もただ海を見てた。
あの夜、石段に座って動かない私を見つけた女将さんは、私を旅館に連れていき問答無用でお布団に寝かしつけた。
どこかに泊まるなんて考えもしなかった私は、女将さんにぽんぽんされて寝るしかなくて。
理由を聞かないでくれた女将さんに感謝しながらも、私は海辺から動けないまま。
会社には病欠で有給を使った。たくさん残ってるから大丈夫です、と中村が言ってくれた。
迷惑かけてごめん。謝るより先に鼻息荒くあのバカ女供は絞めときました、と宣う中村に勝てる気がしなくて、ありがとうと笑った。
そろそろ私も覚悟を決めなきゃならない。
現実逃避なんてしててもなにも始まらないし終わらない。わかっていても動けない私は、ただの臆病者だ。
「茜ちゃん」
女将さんが迎えに来た。てことは、もうすぐ7時になるんだ。
スマホがなくて時間がわからない私は、女将さんが迎えに来ないと旅館に帰らないらしい。
夏でまだまだ明るいから、そんな時間になってると思ってなくてだったんだけど、心配されているらしい。
自殺なんてしないよ? そう思われても仕方ないかもだけど。
真鍋にフラれても私の人生まだ続くし。ただ、真鍋との未来を夢見てしまった分、一人に戻るのには時間が必要で。
それだけ真鍋との6年間は私には大事なものだった。
私は立ち上がって砂をはらった。
お弁当箱を持って女将さんと旅館に向かう。
入口に人影があった。
こんな時間にお客さんかな、と私は隣をすり抜けようとした。
「……茜」
聞き覚えのある声。
ひどくゆっくりとした動きで振り返る。
「……なんで」
「探したから」
困った顔をした真鍋がいた。
なんでいるの。
なんで探すの。
……ああ、色々話さなきゃいけないもんね、キャンセルのこととか。
「……で?」
へらり、と笑った。実際はとてもいびつな顔だったみたいだけど。
「キャンセルとかもろもろは帰ってからにして?」
「茜?」
「気まずいだろうから、私が会社辞めるし。あとは」
「茜!」
「……嫌なんでしょ? 嫌なのに結婚しようとしてたんでしょ。だからやめようって言ってる」
嫌がられてるのに、好かれてないのに、結婚なんて形で縛りたくない。
なんでプロポーズなんてしたの。なんで付き合おうなんて言ったの。
「……帰って」
旅館の玄関でするような話じゃない。
正直顔が見れない。
一歩後ろに下がった時真鍋が動いた。私の視線が反転する。床が見えるのはなんで?
「な……ちょ、真鍋!?」
真鍋が私を肩に担いでる。不安定に揺れるのが怖くて真鍋のシャツをつかむ。
「お部屋は206号室ですよ」
「女将さん!?」
「ありがとうございます」
部屋までこのままとか!? ありえないし!!
現実問題的に重くないの、真鍋。
なんだか、暴れるのにつかれてされるがままになった私は、部屋のベッドにおろされた。
「茜、話聞いて」
「聞かない」
「茜」
「嫌」
不毛なやりとりを繰り返して、先にキレたのは真鍋だった。
私の身体を引き寄せて無理矢理キスをする。
噛みつくみたいな荒々しいキスだけど、私は反応できない。
男は好きじゃなくてもキスできる生き物だ。
あの日私の心は砕けてしまった。
さらさらと砂のような欠片は、固まることも元に戻ることもない。
どうすることもできない。
自分の心なのに。
ぽた。なにかが頬に落ちた。
その雫は真鍋の目から落ちてくる。……涙?
「……かね……茜。やだよ。お前失うなんて嫌なんだよダメなんだよ。ケンカしてちょっと困らせてやろうなんて俺がバカだったよ」
ごめん。ごめん。
繰り返される謝罪は途切れとぎれで。
「茜を怒らせるの好きだったんだ。いつも人と一線引いてたお前が素で接してくれたから。だから、いつもわざと怒らせたんだ」
なんだそれ。初耳だ。
「好きだからそのままの茜に触れたかった。俺だけの茜を独り占めしたかった」
抱きしめられてるから真鍋の顔は見えない。
泣きながらのカミングアウトは続く。
「同期入社の中で年下茜だけで。なんかみんな見下したみたいな感じになってたの、実力だけでひっくり返したのにみんな見直して」
ああ、そんなこともあった。
「でも、威張るわけでもない茜に好感持つ奴けっこういて。だけどみんな一律いい仲間で。俺は一人になった時の疲れた~って顔とか、野良猫餌付けしてる時の優しい顔とか、そんなのをもっと近くで見てみたくて」
……見られてたのか。不覚。
「色々試して怒らせるのが手っ取り早くて。……ほんとは怒った顔より笑った顔が見たかったのに」
結局怒らせて泣かしたけど。
ごめん。
鼻声になってる真鍋の涙で、まるで私が泣いたみたいになってる頬に流れる雫。
その雫はぽたりと私の心に落ちた。
砂のような欠片に染み込んだ真鍋の涙は私の心を治してく。
元の形なんて忘れてたのに、キレイに直ったそれは、キラキラしたダイヤみたいだ。
「茜……式やめるとか言わないで。俺と結婚して、ずっと一緒にいて。一緒にいたい、離れたくない。離せない」
ぎゅうぅ、と抱きしめる腕が痛い。
「真鍋……なんでいるの。会社は」
「……行ってる場合じゃないだろ。お前いなくなったんだぞ」
見つかって良かった。
……以外と泣き虫だったのね。
「そりゃ、あんなこと言われて無視できるほど器でっかくないわよ」
「ごめん……」
しょんぼりとうなだれる真鍋がでっかい犬に見えた。
「……ふっ」
……あ、ダメだ。
「あは……あははははっ」
久しぶりに笑った。
きょとんとしてる真鍋にさらに笑いが収まらない。
お腹がよじれるほど笑った。涙が出るけど止まらない。情けない顔の真鍋がベッドに倒れた。
私はようやく笑いを引っ込めて、涙目のまま真鍋を呼ぶ。
「……蓮」
「……っ!?」
がばっと起き上がった真鍋はまじまじと私を見る。
そりゃびっくりもするか。名前呼んだの初めてかもしれない。
「茜……?」
「でも私、指輪置いてきちゃったよ」
「……! 持ってる」
いそいそとポケットから指輪ケースを取り出す。……嬉しそうね、真鍋。
私の左手をとってダイヤの指輪を薬指にはめた真鍋は、にっこり笑った。
右手で私の涙をぬぐうけど、自分だって涙目のくせに……嬉し泣き?
「なあ、茜。ずっと蓮って呼んでよ。で、二人で幸せになろう。俺が茜幸せにするから、茜は笑って俺を幸せにして?」
「……贅沢ね」
なんで私だけ笑わないといけないのよ。
「茜の笑顔が好きだから。てか他の奴にはみせないで? 半殺しにしそうだから」
「……物騒」
「男の独占欲なんてそんなもんだろ。てか返事」
返事? なんの。
「……あー……がんばる」
「ふはっ。ツンデレ。あ、でもいっこ約束しよ」
「なに?」
蓮は私を抱きしめて耳元でささやく。
「ケンカしたら、すぐに仲直りすること」
そう言いながら私を怒らせるあなたが、私も大好きよ。
悔しいからしばらく言ってはあげないけど。




