表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ETA ホフマン文学における饒舌性と諧謔性。 試論  ドイツロマン派

作者: 舜風人

後期ドイツロマン派の


ETAホフマンの作品傾向を大まかに二つに分けることができようか。


その前に、、、そもそも、、


彼の全体の作品傾向というものは、


市井の俗悪な写実と

その裏面にぽっかりと口を開いている狂夢想の暗黒とのせめぎあい


その相克がすべてである、、と


結論めいて断言できようが、


さらに大きく二つの傾向にわけるとすれば、、、


一つは、、シリアスないわゆる怪奇小説系。



もう一つは、おふざけの限りを尽くした諧謔・饒舌小説系、、となるだろう。



怪奇小説系としては


小夜物語のすべて、その中では特に「イグナーツデンナー」「「砂男」

そして完成された唯一の長編小説「悪魔の美酒」などがある。



諧謔系としては「牡猫ムルの人生観」「クライスレリアーナ」「ブランビラ姫」

       「蚤の親方」「クライン・ツアヒェス」などなど、





そしてそのどちらの要素も持っているいくつかのメルヒェンもある。

「胡桃割り人形」「黄金の壷」「王の花嫁」などである。



もともとホフマンという作家は


諧謔系が本質であろうと思う。



しゃれのめす、、というか


笑い飛ばすというのが


彼本来の持ち味なんだろう。



ところが15歳の少女への失恋やら失業やらが彼を


暗い情熱にかからせて?



さらに?


初期ドイツロマン派の作品やイギリスのゴシック小説「マンク」などの作品に触れることで


それらに影響されて怪奇テイストオンリーという、一連の真面目な?作品も


書かれたとみるべきなのだろう。(と思う)


「悪魔の美酒」などには、おふざけ者の理髪師も登場するし


この男が結構、、道化回し的な役どころで物語の重要場面のトリックスター?


になっているのを見てもホフマンの諧謔嗜好の強さが見て取れるだろう。


ただし、、全くこうした


ふざけた人物が登場しない小説もある。


それが「イグナーツデンナー」である。


ここにはリンドホルストもドロッセルマイヤーもマイスターフローも


そういう道化回し的な人物は一切登場しない本格的な怪奇小説ゴシックとなっている。


トラッバキオ、、デンナーという悪魔の化身に2代にわたって、祟られる罪なき


無垢の人アンドレスの伝記が、ある意味、淡々と描かれるばかり。


私の趣味からいえばこうした本格的な怪奇オンリーが好きだが


まあ、ホフマンといえばフランスなどでは


その諧謔味が受けた?という側面もあるわけで、


「ブランビラ姫」などは


ギアチンタとジルリオの恋物語に


アッシリリアの王子キアッペリと王女ブランビラの恋物語が2重奏曲を奏でるという


相当こんがらがった多層構造のメルヒェンである。


その上にさらにさらに、、


オイフィホッホ王と、リリス女王のお話まで絡んでくるから


読んでいても、、、疲れる、、疲れる、、、。


まあはっきり言って支離滅裂、、どんちゃか騒ぎのカーニバル?みたいなものだ。


しまいにはわけがわからなくなってきて、、


本を放り出したくなる?こと請け合いだ。


まあよく言えば、、祝祭劇、、カーニバル?小説。



浮かれさわいで、、踊りまくればOK?ということなんでしょうが



私は正直ついていくのがしんどいですね。



また、、このホフマンの饒舌性というのも、ある意味、


ラブレーの饒舌性と同根?なんでしょうか?

『才人、才に溺れる』?というのか?

言いたいことがありすぎて

ホフマンもこれだけ多弁で饒舌になるんでしょうね?


もう少し、この饒舌を控えると、

「イグナーツデンナー」のようないいストーリーテラーになるんですけどね?


でもそれだと諧謔家としてのホフマンらしくない?って。

まあそういわれればそうですけどね。




「蚤の親方」はまだマシ?ですが



それでも

ペリグリヌス・チュスという主人公が蚤の親方の助力で可愛い少女レースヒェンと


結ばれるまでのこの錯綜した物語の筋は


追うだけで相当しんどいですよね?


この物語の表面上の登場人物には



それぞれみんな異世界での前世?という裏の顔があって


その裏の異世界での葛藤や愛憎がすべて


表世界での因果に相通じているという


複雑なお話なんですからね。


たとえば


ペレグリヌス君の親友のペプシュ君の正体は


実は異世界では「薊のツエヘリト」なんですからね。


蚤の奇術師、ロイベンヘック親方のコケットな娘は実は異世界の「王女ガマヘー」なんですからね。


さらにはネタバラ?になりますが


チュス君自身は異世界ではセカキス大王であり


女中の老女アリーヌは、、なんと異世界では、、ゴルコンダ女王なんですから、、


もうこうなると、、わけがわかりませんよね?






まあ


こんなこと言っても読んだことない人には何のことやらちんぷんかんぷんでしょうがね?


と、、こう、、まあ、、


ホフマンの錯綜世界は延々と続くわけですが、、


私はさっきも言ったようにホフマンの本格的な怪奇小説がやっぱり好きですけどね。



さて話を戻しましょうか。


こうした諧謔、、饒舌。


フモール



ロマン的イロニーというのは、


ティークやブレンターノでは



もう少し


単層的というか


悪ふざけ率?が


まあ、限定的でしたよね?


ホフマン以前の初期ドイツロマン主義の


たとえば、、



ブレンターノの「ゴッケルヒンケルガッケライア」などが


ロマン的イロニーの好見本?でしょう。


これは、、結構ついていける範囲内というか


まあ微笑ましい?限りのフモールですよね?



そしてティークの「長靴をはいた猫」も



これは戯曲仕立てですが、、というか戯曲ですが


セリフに、観客が割り込んだりと、、相当、、支離滅裂?ですね。


まあでも愉快な、、メルヒェンという範囲です。


でもホフマンのフモール?となると



相当悪ふざけが過ぎていて?


読者を煙に巻いてやろうという?悪仕掛け?満載ですよね。



こうした、、いわば、、関西芸人の客イジリ?みたいな態度が


嫌味になり、、



どうも、、敬遠、、ということに、、私などはなってしまうのですね。


このホフマンの個性というか


アクの強さ、、



これはある意味、チャップリンの芸と共通項が、、あると私などは思いますね。



チャップリンも、、あの嫌味な照れ笑いとか、、


独特の癖のあるあの芸ですね。



あれが鼻について大嫌い、、という人も多いのですよ。



(私もどっちかというとアクが強すぎて嫌いですが、、)


ホフマンの典型的な諧謔メルヒェン、、


ロマン的イロニーもここまでクセの強いフモールと、どんでん返しに到達したかというある意味


到達点である、「ブランビラ姫』ですね。



このある意味、こじつけの極致の錯綜性?


悪ふざけのための悪ふざけ?


読者を煙に巻くための、とってつけたような?多層性。ホフマンの魂胆が見え隠れしていて、


これは、、私などもそうですが


ある意味、辟易しますよ。


なんでこの4つの物語をあえて、一つの「ブランビラ姫」に重層的に


錯綜させなければならなかったのか?


そうした必然性は、、ハッキリ言えばどこにもないんですからね。



独立した4つの物語にしたほうがずっとマシ?じゃないか?


ただ、、ホフマンの、、諧謔趣味、、悪ふざけ趣味の


自己満足だけなんですから。


ここまで錯綜させるべきではない、、



私は単純に、そう思いますけどね。


クライスラーの自伝に、、猫の自伝が混ざる必要がどこにありますか?



猫の自伝で一冊。クライスラーの自伝で一冊で、、いいじゃないですか?


これはある意味、ホフマンの、悪ふざけ?が過ぎたり、という印象でしかありませんよ。



高等な?お遊び文芸であり、


座興の類でしょうね?


つまり読者を小馬鹿にしている?


読者イジリ?ですよ。


まあそれもこれもホフマンという人の


二重性格?の為せる業、、ホフマンの多才な才気煥発のせいですね。


中には、、、


こうした錯綜と混乱が、、あの、カフカの不条理世界を予言させるなどというお方もいますが、、


さて?そうでしょうか?


これはあくまでもホフマンの「お遊び」でしかないと私は思いますけどね。


カフカのような錯綜の深刻さはないでしょ?




昼は厳格な大審院判事として判決文を書き



夜は地下酒房「薔薇家」で


酒浸りで、、夢想の花火を打ち上げていたという


まさに二重生活だったんですからね。



食うための、、お堅い、大審院判事という職業。


そして本当は音楽で身を立てたかったホフマンの本心は


完全に乖離状態人生ですよ。


ここからホフマンの懊悩も生まれ


いわばその懊悩のはけ口というか、、憂さ晴らし?


手すさびで、書き散らしたのが、、いわば音楽では本懐を得なかった


余技としてのホフマンの小説群だったわけですからね。


だからいわゆる作家として


本身で構えることがなかったというか


だからこそ、いつも読者を小馬鹿にしてしまう本音のホフマンがそこにいたりして、、、。


まあこうした素人作家?としてのホフマンだったからこそ、


あれだけ悪ふざけを小説に吐き出したのでしょうね?


もしも仮にも、


「文学は崇高な芸術である」、、、と思っていたら?


「天路歴程」バニヤンとか、、



「失楽園」ミルトンとか



『神曲』ダンテとか、、



そういう大真面目な、、崇高な作品を書いたでしょう。


ところが?



ホフマンにとっては文学なんて煩悩のはけ口、


悪態の憂さ晴らしくらいにしか思っていなかったのではないか?



だからあれだけふざけられたんでしょうね?


たとえば、、


「私は小説書いて、、芥川賞を取りたい、、、」


なんて思ってたら?


「蚤の親方」とか「ちびのツアヘス」なんて


あんな、メタメタなおふざけ小説はどう考えたって、書けないでしょう?



まあ一種、


ホフマンは


小説なんて小ばかにしていたフシが見え隠れするんですよね。


「俺は音楽家になりたかったんだ。こんな小説は余技であり、手すさびさ。」という


開き直り?というか


捨て台詞?というか、、


そういう本心が、、ゆくりなくも、現れたのが


こうした、、おふざけメルヒェン群だったのでしょうね?


まあはっきり言えば不真面目極まる?文学への自己韜晦?


それが一連のホフマンの諧謔メルヒェンですよ。


真面目に読んだらバカを見る?


高等なお遊びメルヒェン?


それに比べるとティークのメルヒェンなどは


深刻な大真面目な、因果話ですからねえ。


ふざけたところなどは皆無ですよ。



まあどちらがいいのか?



でもわたしてきには


もう少し


ホフマン先生には


無駄口のたぐいの?饒舌は控えていただいて、


文学や読者を小馬鹿にしないで?


「クライスレリアーナ』とか「牡猫ムル』とかの


おふざけ小説に貴重な人生時間を浪費せずに?


もっと、


まじめに?


文学と本身で向き合った作品


つまり


「イグナーツデンナー」や「悪魔の美酒」みたいな


正統派の


ゴシックホラー小説をもっともっと書いてほしかったなというのが



私の願いというか、、本心ですがね。


これらの怪奇小説は


不真面目?ホフマンが、、割と真面目に


文学と向き合うことも、、やれば、できるんだという


証明にもなってるんですからね。



饒舌もほどほどに、、



諧謔もほどほどに、、


ねえ?


そうですよね?










付記


エドガーアランポオに、、諧謔ってあるんだろうか?


ある、、といえるが



それはホフマンのような、おふざけのロンドで読者を小馬鹿にしたようなものとは全く違った


玲瓏な、、


氷のような


ひやっとするような


フモールですよね?



その典型的な作品が


私見によれば、、



「ちんば蛙」だと、、、思いますがね。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ