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――目の前に世界が現れた。
遥か遠くまで広がる青空。流れる雲。その下には西洋風なレンガ造りの町が広がり、色とりどりの屋根が並んでいる。家々の間を縫うように石畳の小道が通い、まるでたくさんの川が集まって一つの大河になるように、町の中央を通る大通りへと集まっていた。大通りを目で追うと、その終着点には開かれた大きな門があり、そこを出ると果てしない草原が広がっていた。道はどこまでも続いていて、そこを歩く人達は点のように小さく見える。道を外れた草原にも人や動物……モンスターが動き回っているようだ。
……今、少年の視界に映る世界。その全てが人工物だった。これが最先端のVRオンラインゲーム《リベラルウェイ・オンライン》の世界。
彼はぐるっと周囲を見渡す。そんな光景を見下ろすことができるこの場所は、円形に広がる町の中心にある高台らしかった。四方には階段が続いていて、降りた場所はこの高台を囲むようにして広場になっている。そしてその先に、さっき見たような大きな通りが、やはり四方に通っていた。
眼下の広場には雑踏。男も、女も、子供も、大人も―その外見が必ずしも彼らの本当の姿であるとは限らないが―ある人は仲間と談笑しながら歩き、ある人は忙しげに駆け足で走り去っていく。その全てが人工物ではなく、その向こうに自分と同じく命を持った人間がいるということを、彼は暫くの間信じられずにいた。
逆に、彼らと同じく、この光景を見ている自分にバーチャルの体があるということを一瞬忘れそうになり、彼は慌てて自分の体を見下ろす。
そこには手があり、腕があり、胴がある。リアルでは14歳の体が、ほとんどそのまま再現されていた。身を包む衣装は、物語に出てくる魔法使いのような狐色のローブ。彼が選択した職業、《ウィザード》の初期装備で、その滑らかな布の感触もバーチャルの肌でリアルに感じ取っていた。
少し目にかかる程度の髪は彼のリアルの髪型と同じく自然な短髪であるが、その色はリアルと違うダークブロンド。少し暗めな金色の前髪を指で引っ張って見つめるその瞳は、闇の中の小さな火種を思わせる、やはり少し暗めな深緋色。
彼は改めて自分の体に視線を落とす。レンガの地面をしっかりと踏みしめる二本の足は、本当に自分のものなのか。彼は恐る恐る足を浮かせようとした。
「わ、動いた……」
自分の意思に従い、当たり前のようにバーチャルの体が動く。そんな、二十一世紀も後半に差し掛かるこの時代では当たり前の出来事に、彼は深く感動していた。
それから、一歩、二歩と、ぎこちなく足を動かす。恐る恐る足を浮かせ、地に下ろす、その一連の動きの一つ一つを注意深く意識して行なう。まるで今までまともに足を動かしたことがないかのようだった。
「……すごい」
彼がVRゲームをプレイするのは、これが初めてだった。VR技術が一般的に広まって久しいこの時代、彼とて日常的にVR技術に触れることはある。しかしそれは、店先のサンプル品や、学校の授業で見る資料映像くらいで、自分の体をまるごとVR空間で動かすのは今日が初めてだ。そもそも彼は、流行だの、最先端技術だのに疎かった。
今日、この日が彼の初めてのVRゲームデビューであり、なおかつネットゲームデビューの日なのである。
「……よし」
彼は一つ力強く頷いた。流行に疎い彼がこのゲームを始めたのには理由があり、それを改めて確かめたのだった。
そして目の前に伸びる長い階段を、一段、もう一段と、慎重に降りていく。
何十段もの長い階段を降りて、広場に降り立つ。たくさんの人間、等身大のプレイヤーの雑踏が目の前に広がり、自分もこの中の一人であることを改めて実感する。
それは、彼、「ナギサ」が、リベラルウェイ・オンラインの世界に加わった瞬間だった。
「えっと、まずはどうするんだろう……」
活気に満ちた雑踏に少しだけ気圧されそうになりながらも、ナギサはまず足を進める。辺りをきょろきょろと見回したり、時計塔を見上げてみたり。そんなことをしていると、ふと周りの視線が集まっているのを感じた。合わせてくすくすという笑い声が、喧騒に混じって聞こえてくる。
何か変なことをしてしまったのだろうかと思い、その時ようやく自分が馬鹿みたいにぽかんと口を開けながら時計塔を見上げてしまっていたことに気づく。そもそもこんな挙動不審にきょろきょろふらふらしていたら「初心者です」と口に出して歩き回っているようなものではないか。間違ってはいないが、こうして笑われるのはやはり恥ずかしい。
ナギサはむっと口を閉じて、その場を逃げるようにそそくさと歩き出す。顔が熱い。こんな感覚まで、リベラルウェイはリアルに再現するらしかった。
そういえば、このぎこちない歩き方も周りからみたらおかしいのだろうか。自分みたいに変な歩き方をしている人なんて一人も見当たらない。だから、さっきからやたらと自分を嘲笑するような視線を感じるのだろうか。
「……だめだだめだ。あんまり考えるな、僕」
これは、もう一つの新しい自分の体。慣れればもっと自由に動かせるのだから。
「とにかく、何か始めよう。確か、ゲームを始めたらすぐ、色々教えてくれるっていう《えぬぴーしー》がいるって、公式サイトに載ってたような……」
今度はあまり目立たないようにと、視線だけを動かして辺りを見回す。普通の人、プレイヤーとの見分け方は、頭の上に出ている緑色の名札みたいなやつだったはずだと思い出し、それらしい人を探した。
(あっ、あの人かな……)
雑踏の中から、頭上に緑色の名札を表示させている男の人を見つける。公式サイトの画像で見た、人のよさそうな若い兵士だ。
(えっと、いきなり話しかけて大丈夫なのかな……)
ナギサは初対面の人に話しかけるのが苦手だ。
(えぬぴーしーさん、僕みたいな初心者を相手にするのに慣れているだろうし、笑われたりはしないだろうけど……、緊張するものは緊張するな)
……と、《NPC》が決められた行動と会話しかできないプログラムであることを知らないナギサは、要らない心配をしながらも、恐る恐る兵士に近づいていく。
その時、何かが横からどんっとぶつかってきた。
「わっ」
不意の衝撃に、ナギサはふらつき、倒れてしまう。さっきのように周りの視線が集まった。
顔が熱くなる。ぼんやりしているからこんなことになるんだと自分を責めた。
「悪い悪い、平気か?」
頭の上から声がした。見上げると、自分にぶつかってきたらしい男性が、申し訳なさそうに手を差し出している。
「あ……、は、はい。平気、です……」
少し躊躇しながらもその手を取る。グッと足に力を込めると、簡単に立ち上がることができた。
彼の頭の上には何もない。この人は《えぬぴーしー》ではないらしい。
「悪いな、ちょっとよそ見してたわ」
「ぼ、僕の方こそ、ぼーっとしててすみません……」
「いいっていいって。気にすんな」
男性はニカッと歯を見せて笑う。見たところ、二十歳前後くらいだろうか。
明るいオレンジ色の髪で、長くてツンツンした髪型。鋭い切れ長な目も相まって、狼みたいな人だなとナギサはと思った。
革製の茶色いジャケットを着て、ジーンズに似た質感のズボンを履いている。銀のネックレスや指輪、ピアスなど、アクセサリーをたくさんつけていて、自分のものとは違った、リアルのファッションに近い服装だ。
「ん? どうしたよ、ジロジロ見て?」
「……え。あ、す、すみません!」
こんな衣装もあるのかとついまじまじと見つめてしまっていたことに気づき、ナギサは慌てて頭を下げる。すると男性は声を上げて笑った。
「ハハ、お前面白いな! っと、オレはストレイドッグっていうんだ」
「ストレイ……? あ、僕は」
「ナギサ、だろ?」
「えっ……」
名乗ってもいないのに名前を言い当てられてドキリとする。ストレイドッグはにやりとして、自分の頭の上をつんつんと指し示した。
頭? と、ナギサは頭の上をひらひらと手で探ってみる。しかし何かが手に触れるということもなく、何がおかしいのだろうかと頭上を見上げた。
「……何、これ」
青い板のようなものが浮いていた。自分が動くと合わせてついてくるようだ。首だけを動かしてなんとか覗きこむと、そこには、
「ナギサ……かっこいち……?」
「レベル1のナギサですって表示されてるんだよ」
「え、ええ!?」
全く気づかなかった。確かにそこには「ナギサ(1)」と書かれている。
さっきから頭の上に名札を浮かべて歩いていたのかと思うと、また顔が熱くなってくる。なるほど、周りの人に笑われるわけだ。
「こ、これ! どうやって! 消すんですか!?」
思わず何度も頭の上を振り払ってしまう。もちろんその手は名札に触れることもできず、スカスカと虚空をかすめるばかりだ。
「ハハハ! ほらほら、教えてやるからその通りやってみ?」
「うぅ……」
ストレイドッグに教えてもらい、《オプション》で《ネームウインドウ》を非表示に設定する。すると青い名札はフッと消えてしまった。
「だ、大丈夫? 見えてない?」
「おう、バッチリ。てかまあ、それ出てなくても名前とレベルくらいはわかるんだけどな」
「え、そうなんですか?」
「ああ。てかナギサ、お前やっぱり初心者だな?」
「……はい」
もう隠すのなんて無理だろう。ナギサはおとなしく首を縦に振った。
「そ、それで、あのえぬぴーしーさんに、色々教えてもらおうと思って……」
「んー? あー、あれね! やめとけやめとけ!」
ナギサの指し示した方を見て、ストレイドッグは大仰に肩をすくめて首を振る。
「え、ど、どうして?」
「このゲーム、初心者に不親切って有名なんだよ! ほら、お前だってたった今恥ずかしい目にあったばっかだろ? あんなこっ恥ずかしいもん見えないところに出しとくとかマジ不親切じゃん?」
「た、確かに……」
公式サイトには初心者支援も充実とか書いてあったと思ったが、嘘だったのだろうか。
しかし、初心者のためのチュートリアルが不親切なのでは、ゲーム自体が不慣れな自分はどうしたらいいのだろう。ナギサは腕を組んで考えこんでしまう。
「そんなくよくよすんなって。オレが色々教えてやるよ」
と、その様子を見かねたのか、ストレイドッグが言う。
「え? で、でも、会ったばかりでそんな、悪いですし……」
「いいっていいって。色んな人と会って助け合うのがオンラインゲーム!」
「……そっか。そうですよね」
自分がこのゲームを始めたのだって、そんなところにも興味があったからだ。
ストレイドッグはナギサの方をぽんぽんと叩く。
「その敬語もやめようぜ。オレたちはもう友達だ」
「友達……。う、うん!」
彼の言葉に、ナギサは何度も頷き返す。ゲームを初めてすぐにこんな親切な人と出会えるだなんて、自分は幸せものだ。
「そんじゃナギサ、着いてこいよ。オススメのエリアがあるんだ」
「えりあ……?」
「……お前ほんっとなんも知らないのな。まあいいや、行きながら色々教えてやるから」
「ご、ごめん……」
「だーかーらー、イチイチ気にすんなって! ほら、早く!」
ストレイドッグは駆け足気味に大通りへ向かっていく。
「あ、ま、待って!」
ナギサはふらふらと、やはりぎこちない動きで早歩きをする。ストレイドッグは眉をひそめて足を止めた。
「何やってんだよ、走って来いって」
「は、走る……。……走るって、」
どうやるんだろう。と、普通の人なら生きていく上で一度だって思いつかないであろう疑問が頭に浮かぶ。
先に行ってしまうストレイドッグ。周りにいる、駆け足でどこかへ向かっていく人たち。
見よう見まねで、大きく足を踏み出して地面を蹴り、そして、
「ふぎゃ」
コケた。
「……お前まさかこういうVRゲー自体始めてか?」
「あ、あはは、まあ。いたた……」
頭からすっ転んだ。リアルでは転ぶのも慣れているのだが、こんなに勢い良く顔面から地面に激突したのは始めてだ。痛覚も再現されているらしく、鼻血が出るようなことはないものの、鈍い痛みが残った。さすがに痛覚は加減されているのか、受け身も取らずに転んだわりにはそこまで激痛ではない。
「まあVR初心者はリアルとは違う体に戸惑うこともあるって言うが、走ろうとするだけでコケる奴とか初めて見たわ。もしかしてリアルの体よりすっげー足長くしてるとかない?」
「えっと、オススメの設定から、そんなに……ていうか、全然いじってない」
「だよな。見た感じそこまでスタイル良いってわけじゃねーし。もったいねーな、せっかくのバーチャルなのに」
「あはは……」
適当に笑ってごまかしつつ、立ち上がってストレイドッグに追いつく。彼は肩をすくめて苦笑した。
「まー、わかったよ。慣れるまではお前に合わせてやるから。なんなら手でも繋ぐか?」
「い、いいよ、恥ずかしいし!」
「ハハ、ジョーダンだって」
ストレイドッグが声を上げてゲラゲラと笑う。ナギサもつい、釣られて笑ってしまった。
彼はもう、友達。リアルでは全然友達のできない自分だけれど、バーチャルでは、早速最初の友達ができた。
これからも、もっとたくさんの友達ができたらいいな。そんなことを思いつつ、空を見上げる。
「あ、雲が……」
「天気とかも再現されてんだよ。ほら、そんなのいいから早く行こうぜ」
「う、うん」
空から視線を移し、ストレイドッグに着いて歩く。
これから、もっとたくさんの人と会って、色んな体験をするのだ。そんな未来に、思いを馳せながら。
《始まりの町テスタ》の空は、少しだけ曇り始めていた。