6、逃走
紺の四駆車と黒のバンは田舎道を飛ばす。
千雨が運転する四駆車は見晴らしのいい直線的な道路のせいで、どうしても振り切るところまで距離を離すことができないでいた。
対向車も無くなり、道路わきの林は深くなり始めていた。
「なんか、距離詰められてないか?」
決して非難するつもりではなかったが、座っているだけの無力さを味わっていた司の声には苛立ちが染み出していた。
「うるさいわね。こんな車は私の趣味じゃないのよ!」
千雨も慣れない車の運転が思い通りにいかず焦っていた。
車内にはくぐもったものが渦巻き、そんな空気を換えようとリディアが提案する。
「いけませんね。このままではこちらが不利になるばかりです。応援に合流される前に、仕掛ける必要があります」
「そうね……。銃の射程距離に車を近づけるわ」
車による逃走に限界を感じていた千雨も同意した。
司に決定権なんてものは無いが、リディアがダッフルバッグを開けてゴソゴソし始めると嫌な予感しかしない。
「これなんてどうでしょう? 元々競技用ですし、当ててもめったなことじゃ死にません。反動も少なくて扱いやすいと思います」
リディアがダッフルバックの中からガンケースに丁寧に収められていた拳銃を司へと差しだす。
それを見た千雨は何か言いたそうだったが、運転に集中しなおした。
それほどまでに状況は切迫していた。
「司さんも、お手伝いお願いします」
なんてことは無い、いつもの彼女の微笑んだ顔で拳銃を握らされてしまった司は手を突き出して窓を拭くようにブンブンさせて、
「おおお、俺銃なんて触ったことないしどうしていいか!」
「ちょっと! それ弾入ってるんじゃないの?! 振り回さないでよっ!」
「ご、ごめん!」
「あはは。司さんは大胆なんですね」
運転席から激しい叱責を受けた司が握っているのは、凹凸の無い最低限の機能を有した銀の銃身と、それを支える黒いグリップ。
その細い躯体には狙撃者の手が命じるままを再現する構造が備わっていた。
[スタームルガーMkⅠ]
司が最初に手にしたこの銃は意外なほど軽かった。
こんなちっぽけなもので本当にあの絶対的な力が手に入るのかと疑問に思ってしまう。
グリップを握りしめ、引き金に指を当てたとき、指先が震えてしまった。
軽いと思ったこの拳銃も手から腕に、腕から肩へとかかる重圧が重くのしかかる。
司は両手で支えたこの拳銃を使ってもいいのかと考える。
「司さん、そう難しく考える必要はありませんよ」
「えっ?」
司の逡巡にリディアは優しく語りかけたが、
「どうせ当たるわけが無いですから、適当に撃ってください」
「そうね。あんたには期待していないわ」
ひどい言われようだった。
でも司は腕が軽くなったような気がした。
彼女達なりに気を使ってくれたのかもしれないと、いい方に解釈してみた。
「だけど一応、持ち方をお教えしますね。さすがに変な持ち方をしていると素人だとばれてしまいますので……」
リディアはMP5kを置いて司の手の上に自らの手を重ねた。
女の子の小さくて、柔らかくて、暖かい手でにぎにぎされた司は少し緊張してしまった。
「こうですね。はい、そうです。コツとしてはですね、手首と銃身が一直線になるようにするんですよ。狙うと時は、ここのフロントサイトを標的に合わせてですね、このリアサイトをそれに合わせるんですよ」
司は言われた通りにルガーを握り締めた。その姿は様になっている気がする。
「準備はいい? 今のうちにパワーウインドウを下げておいて。仕掛けるわよ」
千雨の少し硬い声が再度、司に緊張を与える。
すこし前方にはおあつらえ向きな左カーブが見えている。
急な角度が付いているわけではないが、コーナーのイン側には木々が茂っているので前方が見えなくなっていた。
「カーブに入るとすぐに減速するから、慣性に気をつけて。手持ちの火器だけではエンジンを打ち抜くだけの火力は出せないと思う。だから、可能であるなら相手のタイヤを打ち抜くか……、運転手を狙って」
その言葉は司の中で反芻される。
ハーネスの、あの光景が蘇った。
脳内では力なく崩れ去る人間が再生された。
司にはそれが我慢できない。
今手にしているのはハーネスと同等の力を持つ道具だ。
使い方くらい自分で決めてみせる。
四駆車は運命を決めるカーブに突っ込む。
「――いくよ!」
千雨の掛け声に一拍の間をおき、司の体が慣性によって前方に強く引き寄せられた。
司は助手席のシートに肘を当ててその慣性に耐える。
それからすぐに窓より身を乗り出して、顔と拳銃を持つ腕をひとつの直線状に据えた。
エンジンを撃ってもバンは止められない。
運転席は狙わない。
ならば、目標は唯一つ。
お互いの車は対向車がまったく無い道路をかなりのスピードで飛ばし続けたのだから、このカーブも先を行くこの車が見えなくなったことによって、できるだけ速度を保って進入してくるはずだ。
アウトインアウトのライン取りをしてくるのであれば、
狙うは、
――あそこだ!
読みは見事に当たり、思い描いた通りのバンが姿を見せた。
司はハーネスに銃口を向けられたときのことを思い出していた。
あの時の感覚が今も起こっている。
バンの左前タイヤをフロントサイトに置いて、リヤサイトをフロントサイトに合わせるだけだ。
何も難しいことは無い。
司は指先を少しだけ引き絞ると、不意に肘から先がふわりと持ち上がった。
銃弾が発射されたのだ。
司には分かった。
この手によって打ち出された弾は、あのタイヤに命中するだろうと。
黒のバンはカーブを遠心力に逆らって駆け抜けてきた。
しかし、カーブを曲がりきることは無かった。
<ズババババババッ>
リディアの持つMP5kが銃弾を絶え間なく発射させるので、銃口からは閃光が噴出しているように見えた。
黒い猪のようなバンは細い木々や枝をなぎ倒しながら、うっそうとした林の中へと消えていった。
「さすがリディア! やるぅ!」
感心したようにパチンと指を鳴らした千雨は賞賛の言葉を贈った。
「え……、えぇ」
それに答えるリディアは小首をかしげるのであった。
ある種の全能感を味わっていた司は、彼女達の会話から自分の勘違いに気づいて、照れ隠し代わりの感想を述べた。
「やっぱり当たるわけがないか……」
ほっと胸をなでおろす司を、リディアは無言で見つめていた。
「なによ。私が見た限りだとあんた、一発しか撃ってなかったんじゃないの? 射撃はそんなに甘いもんじゃないのよ」
上機嫌な千雨の声には冗談めいた柔らかさが混じっていた。