2、かくれんぼ
司は走った。
階の移動できる階段はビル内に二箇所。
片方の階段に行くには司の位置からは男たちに姿を見せなければならず、先ほど慎重に上がってきた階段を二段、三段と飛ばしで駆け下りていく。
後ろから怒声が追いかけてくるので、どちらの階段を使ったか知られているのだろう。
足が速いわけでも体力に自信があるわけでもないので、このまま逃げては確実に捕まってしまう。
そう感じた司は二階分死ぬ気で駆け下りると、その階に留まるという選択をした。
スピードを殺して足音を消し、一番近くの部屋に潜もうとしたが、そんな大胆なことはできない。
なので、二つ目の部屋に転がり込んだ。
元来た方からは、一人……ではない複数の足音と怒鳴り声が聞こえる。
もはや何といってるか聞き取れやしないし、聞く余裕も無い。
司はどうかしていた。
もっと早くあの場所から立ち去るべきだった。
だが仮に、初めから第三者である自分が居たことが露呈していたとしたら、下手に逃げていた時点で撃ち殺されていたかもしれない。
一番危険なシルクハットの男はこの状況を楽しんでさえいたような感じだった。
シルクハットの男にとって、自分程度の存在など初めから問題にならないほど瑣末な事なのだろうか。
司はあらためて自らが潜んでいるこの部屋を見わたした。
窓枠があったので、差し込む光によって部屋の様子が分かった。
部屋の隅は中身の無いペンキの空き缶がまとめて転がっており、脚立に台車、何に使う分からないコードがトグロを巻いていた。
どうやら仮の資材置き場に使われていたらしい。
だからといって、身を隠すことも守ることも、放置された備品からは望めなかった。
窓枠をよく見てみると、足場が見えた。
近寄って外を見てみると、どうやらここは三階フロアで、建設途中であるがゆえの外壁の足場がここまで伸びていた。
すでに錆びた針金が直径5センチほどの鉄柱を仮止めしている状態で、それに支えられている足場の鉄板もどこまで信用できるか分かったものではない。
司はこの鉄の足枠を下って外に走り出したい気持ちを必死に耐えた。
全てを放棄して、この鉄柱にしがみついてずるずると滑り降りて、走り出したい。
しかし失敗は即、死につながる可能性がある。
けれども、アレを突きつけられたら……。
その時ばかりは、この鉄柱に命を預けることになるだろう。
「おいっ!」
司は押されるような声に危うく窓枠から身を乗り出しそうになりながらも振り返る。
「見つけたっ! ここだあぁぁ!」
ロックなTシャツが司を発見した。
このまま鉄柱に飛びついてもいいが、RockのTシャツを着た男も当然追ってくるはずだ。
そうなると足場が崩れて大怪我は免れないだろう。
だが、おとなしく捕まるよりは……、と司が腹をくくろうとした時、
「あっ! ここです! やつがいました!」
運の悪いことに、ハンドガンを持っているシルクハットの男が近くに居たらしい。
スーツと同じ真っ黒な革靴を鳴らして、司のいる部屋へと近づいてくる。
<――カツン、――カツン、――カツン>
その一歩一歩が死へのカウントダウンのようだった。
その振り子のように正確な足音をかき乱すように、ちゃらい方の男も駆けつけてくる。
司はRockのTシャツを着た男の血走った目に射抜かれて、どうすることもできずにじりじりと部屋の隅に追いやられた。
「てめぇ手間取らせやがってぇぇええ!」
後から来たちゃらいほうの男は司に向かって両手の中指を立てて威嚇する。
そんな彼を遮るようにシルクハットの男は言った。
「よくやってくれましたね。これで私の仕事がひとつ減りました。さすが私の見込んだだけのことはあります、――それに引きかえ君は……」
ちゃらいほうの男はシルクハットの男から突如向けられた、悪意ある視線にたじろく。
取り繕おうと何か言いかけたちゃらい方の男は、流れるような動作で懐から取り出されたソレを額に突きつけられ、
<ドパーン>
二度目の破裂音が響く。
ちゃらいほうの男の視界に銃口が入った瞬間に、彼の体は反射的にとった行動と、放たれた銃弾によって浮き上がったかのように見えたが、後頭部から倒れこみ、それっきりだった。
シルクハットの男は先ほどの人を殺した後の演説のような時とはうって変わって、まるで説明書を読むように表情を変えず、言い放った。
「実は彼のことは見た時からいい印象を持っていなくてですね……。そうですね……、強いてい言うなら、腰から垂れている鎖や鍵といったたぐいのアクセサリーがどうしても目障りでして。今後、仲良くやっていく自信が無かったので、ここで退場していただくことにいたしました」
彼が言葉を発している時は口が動いていないと錯覚するほどに、まるで感情というものが感じられなかった。
言いたいことを言い終わると同時に、司会のような、エンターテイナーのような彼に戻った。
「なに、心配要りませんよ。これからの仕事はあなた一人でも十分可能なのです。このようなイレギュラーは二度と起こりません。それに、私はあなたのことは気に入っているんですよ? その胸に書かれた反社会性を謳うシャツなんて、我々に通じるものがありますよ」
RockのTシャツを着た男はとりあえずの身の安全は保障されたことに安堵しつつも、淡々と話していたシルクハットの男と、目の前で仲間が二人も殺されたことに対しての恐れを隠すことができずにいた。
司も同様である。
あの殺人鬼の、人形の様なあの姿が、あいつの本性なのではないだろうか。
そうだとするならば、今まで生かされていたのは、あいつの、まったくの気まぐれだ。
死ぬのが早いか、遅いか。
それだけだ。
「さぁ、大事なお仕事の時間です。輸送は経済の基本です。いいですか? あなたはもう一度このアタッシュケースを持って……、そう、ここです、ここ。こちらへ赴いてください。――あぁ、時間とかは気にせず、まっすぐ向かえば結構ですので。安全第一でお願いしますよ」
シルクハットの男は指先に摘んだメモ用紙をRockのTシャツを着た男に見せた。
RockのTシャツを着た男はメモを黙って見続けた後、シルクハットの男を見て首をぶんぶんと振って頷き、アタッシュケースを抱きかかえるように持つと、逃げるようにこの場所を走り去った。
残されたのは、司と、懐にハンドガンを忍ばせているだろうシルクハットの男。
シルクハットをかぶった殺人鬼は話しかけてきた。
「そこから逃げるのはお勧めしません。なぜなら、あなたがここから生き残るには、私の慈悲を請わなければならないからです」
司は思った。
地面に頭をこすり付けて泣いて謝る程度で命が助かるなら、いくらでもそうしようと。
でも、それは間違った選択だ。
そんなことをした瞬間、三発目の銃弾が放たれる。
やつは言った。
ここから生きて出られる可能性があると。
やつにとって自分の生死は本当に些細なことなのだろう。
考えなくては。
司は唯一の逃げ場と思っていた窓枠から意識を外した。
それを感じとったシルクハットの男は満足そうに続けた。
「いいですよ。君はとても賢い。……それに、運にも恵まれていそうだ。まず、君はすぐに逃げなかった。どういう意図があったにせよだ。さらに、逃げるにしてもすぐにビルの外には出なかった。もしも君が逃げてしまって、大通りにでも出られると、とても面倒なことになるからね。君という人物に興味を持つ前に、処分してしまわなくてはいけないところだったよ。最初は新手かとも思って彼らをけしかけてみたけど、素人相手に逃げるだけだだなんて、どうにも様子がおかしい。罠とも思ったけど、乗ってあげるのも一興かな、と。そうして、君は私と話をする機会を偶然にも得てしまった」
挑発するような笑みを浮かべて言う。
「――さて、ここで君は何を望む?」
司はシルクハットの男の試すような目を睨み返して身構えた。
この返答しだいで、運命が決まるはずだ。
命乞いか?
否。それは今最もやってはいけない事のはずだ。
ケースの中身について尋ねるか?
それも冥土の土産にもならないはずだ。
司は答えを導き出すことができなかった。
なぜなら、彼は垣間見てしまっているのだ。
あのシルクハットの奥に隠された本性を。
アレを見てしまった後では、どのような返答をしたとしても、生きているいられる気がしなかった。
――凍りついたように、時間だけが過ぎていく。
それは司にとって死を意味していた。
この停止された刻を破ったのは、シルクハットをかぶった男だった。
「くははははっ。君は本当に運がいい。いや、実にっ」
役者でもなく人形でもない、楽しそうに乾いた笑いを披露している男の後ろには、彼の頭と胸それぞれに銃口を向けている二人の姿があった。