1、事件
三ヶ月と少し前。
放棄された建設途中のビルの中でそれは起こった。
司は尻もちをついて、冷たいコンクリートに背中をあずけながらその音を聞いた。
<ドパーン>という重たい破裂音。
その銃声が完全に止むまで、撃たれたゴロツキの仲間と同様に、司は固まってしまった。
撃たれた男はドサッとヒザをついて倒れこんだ。
仰向けになった彼からは、赤いシミがじわじわと広がっていく。
拳銃を撃った男は黒いスーツ着て、人の良さそうな顔をしていた。
優男といった感じで目は細く、笑っているように見えなくもない。
その頭上には飾り栄えの無い黒いシルクハットが場違いにのっている。
そのシルクハットの男は銀に光る金属の塊をゴロツキに突きつけて、有無を言わさず引き金を引いたのだ。
撃たれたゴロツキの仲間らしき他の二人は、先ほどまでやかましいまでの抗議の声をピタリと止め、恐怖を顔に浮かび上がらせてシルクハットの男を見た。
司は震える脚を必死に押さえつけ、壁一枚隔てた先の様子を確認したい衝動に駆られる。
だが、できるわけがない。
人が殺されたのだ。
彼は直接見たわけではないのだが、殺人が起きたのは間違いなかった。
司は帰宅の途中だった。
通学路を塞ぐようにできた二つの雑居ビルがあった。
このビルに人が出入りしなくなったのは最近のことだ。
建設中に不況のあおりで計画が急に頓挫してしまい、できかけの構造体だけが残ってしまった。
薄く茶色い外壁は手入れがされておらず、よりいっそうの物悲しさを醸し出している。
ビルの間には、普段は通行止めの道がある。
その車が一台通れるだけの狭い道は、朝などに特別急ぐ必要がある学生が通行可能なのは公然の秘密であった。
つい間がさした司はその道を使ってしまった。
最初は興味本位だった。
誰もいるはずの無いコンクリートタワーから声が聞こえた。
見上げると、上から下まで規則正しく開いている窓枠が司を誘っていた。
低層階の建築用の防塵ネットの裏には、いまだ未撤去の足場さえも残っている。
散乱する建築資材の中、申し訳程度に張られた緑色のビニールシートに囲まれた一階部分に、ちょうど入れそうな破れた箇所を見つけ、中へと進入した。
建物の中は全て無機質なベージュ色で構成されていた。
司は抜き足差し足で、光と影が入り混じる固い床を一歩ずつ進む。
影の部分は間違っても何かを蹴ってしまわないよう慎重に歩いた。
光の部分には埃が舞っているのがよく見てとれる。深く息を吸い込んでしまうと咳き込んでしまうかもしれない。
さらに奥で、階段をみつけた。
声は上から聞こえてくる。
司は視界の取れない暗くて狭い階段を手をついてゆっくりと登った。
近寄るにつれて、男達が怒気をまき散らしていることがなんとなく分かってしまった。
この時点で引き返すべきだったのかもしれない。
だが、この時の司を突き動かしていたのは好奇心。
悪の組織に一人立ち向かうスパイのような、そんな非日常の優越感というものが司を後押しいていたのだった。
冷たいコンクリートに反響する声がようやく聞き取れる階で、司はフロアに出た。
一階部分とさほど変わり映えのないコンクリートむき出し廊下を進み、人が居るであろう所まで、壁一枚隔てたところまで来てしまった。
「そいつを運んだら金が手に入るっていうから、しょうがなくやってやったんじゃねぇか。だから、俺たちにもそれがなんなのか知る権利くらいあるんじゃねぇのかよっ」
ゴロツキの中でもいかにもなリーダ格の男が大振りな動作で吼える。
男らしい短髪と、ガタイのよい体がどうやっても威圧感を出していた。
なにやら小間使いのような仕事が気に入らなかったらしい。
「何を言うのです。安心、安全、確実な輸送は経済の要ですよ。電車が時間通りにやってくるように、あなたたちの仕事ぶりはすばらしいものでしたよ。それに泥を塗るようなことはお止めなさい」
それに対応する男は余裕たっぷりに、そう言った。
黒いスーツを着た、サラリーマン風の男といった感じだろう。
話し方がいちいち大げさな事と、黒いシルクハットを頭に載せていている事を除いては、街ですれ違ったとしても、なにも感じるところは無い。
彼はA4サイズ程の銀色の頑丈そうなアタッシュケースを持っていた。
リーダー格の男の後ろに居る二人。
ちゃらい黒を基調としたビジュアル系を模したような男と、金髪でロックなTシャツを着た男が居た。
「どうしても教えられねぇってなら……、追加の報酬もらわねえぇとなっ!」
結局はそういうことだったのだろうか。
他の二人も合点がいったように、先ほどとは違う感じでニヤニヤしだした。
「そうそう。俺たちも暇じゃなかったんだよ。つまりだよ、金だよ、あるんだろ? なぁ」
ポケットから伸びている鎖をジャラジャラさせて、靴の踵をわざとらしく床に叩きつける。
話の内容に誤解が生じるのは良くある事だ。
だが場の空気からして、ゴロツキ達がすれ違いざまにぶつかった相手に肩の骨が折れた云々と、同程度の匂いがプンプンしてくるのも事実である。
今まで涼しい顔で聞き流していたシルクハットの男は顔をしかめた、ように司は思った。
司は本能的な恐怖を感じとり、顔を引っ込めた。
目はとても良い彼であったが、そういうことではなく、何というか、あの男の纏う雰囲気が変わったのだ。
今までのシルクハットの男は例えるなら、できるだけ下から相手を伺うように、観察するかのように、自分を常に小さく見せて居たように思う。
しかしあの瞬間、シルクハットの男の立ち位置が急に高くなり、逆に見下ろされている感じがしたのだ。
そうして、シルクハットの男は自らの足元に居る存在に対して、裁きを下した。
<ドパーン>
ここにいる全員、動くことができなかった。
撃たれたリーダー格の男だけが例外で、手足を細かく痙攣させて、乾いた床に体をズリズリと擦り付けていた。
硝煙を立ち昇らせた大口径のハンドガンが、この場を支配していた。
誰もこの金属塊には逆らえない。
それが可能となるのは、同じ物を持つ者だけかもしれない。
シルクハットの男はハンドガンを持ったまま残念そうに両手を広げて、高尚な劇の一幕を表現するかのように台詞めいた口調で言う。
「私は非常に失望しました。かように平和な国で、かように危険な仕事を引き負ってくれた方々が、よもやこのような俗物であったとは……。その足りない頭で少しでも考えることができたならば分かったはずです。このお仕事はヤバイですよ、と。しかし、私は非常に幸せです。なぜなら、ここに死体がひとつできあがったからです。物語の最初に死体を転がすのはもはや常識です。ですので、ここにこうして居合わせた我々は、この物語の登場人物となることができたのです! しかし、私は常々思うのです。人の死には何か意味があるべきだと。しかしながら、彼はどうでしょう? 小金をせびる為に命を落としてしまった。私もこのような事はできるだけ避けるべきだと思います。ええ、そうです。何も知らない方々の命を軽々しく奪うのは私の美学、ポリシーに反する事です。けれども、その必要性を感じたならば、私は躊躇うことはいたしません。幾人の屍を築きあげようとも、必ずや目的を達してみせましょう」
司はまだ傍観者でいたのかもしれない。
不安と恐怖で押しつぶされそうになりながらも、胸が高鳴るのを確かに自覚していたのだ。
直接そのシーンを目撃していない彼は、まだはっきりと自覚できていない。
映画の中のワンシーン。
非日常の一コマ。
シルクハットの男は銃を黒いスーツの下に隠すように収めると、残った男二人の肩に手を置いて言った。
「これで、私たちは仲間です。あなたたち二人がこの舞台から落ちる時は、この世界から脱落する時なのかもしれませんよ? そうならないように、まずは私のためにひとつ、頼まれ事をしてはいただけませんか? そう。本来ならばそこに転がっている醜い彼の変わりに死ぬべきだった、そこの子を捕まえてみてはくれませんか?」
ドクンと跳ねた心臓の鼓動は、熱を持って全身を駆け巡った。
司はなりふりかまわず立ち上がると、転がるように走り出した。