閑話
その探偵事務所は、ひっそりと存在していた。
人々が行き交う大通りから少し外れた場所であるが、まるで同じ街ではないように感じる程、閑散としていた。
周囲には、寂れたレンタルビデオショップや、人気のないコンビニエンスストアが隣接している。
『高野探偵事務所』と書かれた小さな真新しい看板が二階建のビルの片隅に掲げられていた。
ビル自体の外装は何の変哲もないものであったが、一階に構えたパン屋のおかげでとてもチャーミングな印象を受けることになる。
店内は若い女性をターゲットにしたかのようなインテリアで、可愛らしいぬいぐるみや小物で溢れかえっていた。
パン屋に似ても似つかないその内装は店外からでも目立ち、周囲の寂れ具合にまったく溶け込めていない。
そして、ファンシーなパン屋の上階に存在する『高野探偵事務所』。
従業員数はたったの一名。
唯一の従業員で所長の高野守が設立した探偵事務所である。
29歳で仕事を辞職し、知人にこのビルを紹介してもらい、探偵業を開始した。
開始したは良かったが、彼の怠惰な性格によって事務所の宣伝は、ほとんど行われなかった。
そのおかげか、ある大事件が世間を騒がし、各メディアによって連日連夜、報道されていたが探偵事務所を訪れる者は皆無だった。
それでも高野は一向に構わなかった。
一日の大半を惰眠を貪り費やすことが彼の生きがいである。
前職では当然無理であったが、今ではこうしてほぼ毎日、のらりくらりと暮らしている。
しかし、彼の幸せは長く続かなかった。
依頼者が訪れてきた。
開業しておよそ2週間が過ぎた頃であった。
その日も昼過ぎまで眠っていた。
いつも事務所内で寝ているが、寝室はなく、十畳一間の空間にぽつんとあるソファで横になっている。
起きる頃に体の節々が少々傷んだが、高野は気にすることはなかった。
気だるそうに首をポキポキと鳴らしながら体を起こす高野。
窓から見える太陽は西の方に沈みつつある。
顔でも洗おうかと立ち上がる高野。
「あの……すみません」
彼の背後に投げかけられた若い女の声。
高野は振り返ることができなかった。
(今、事務所には僕しかいないはずだ。戸締りも完璧。……いや、ドアの鍵を無理やりこじ開けた可能性がある。ということは、おそらくだが金銭目的の……)
恐ろしく頭を回転させ、スッと両手を上げる高野。
背後の女性を強盗と確信した高野は、刃物もしくは拳銃を突きつけられていることも視野に入れ、無抵抗をアピールする。
「言っておくけど、ここには金目のものなんてないよ」
高野は手を上げたまま言う。
「いえ、あの……」
女の声は、とても申し訳なさそうだった。
「どうしてもっていうのなら、そこの」
ソファの横にあるテーブルの上のものをゆっくりと指差す。
「財布から現金だけ抜き取ってくれ。そのまま持っていかれるのは困る」
指差した方の手を再び上げて言う。
「そうではなくて、ですね……」
なおも申し訳なさそうな女の声。
そこで異変に気付き、声の方に振り向く高野。
そして、先ほどとは打って変わって、彼の思考がストップする。
高野の眼前には一人の少女がいた。
少女は、ふわふわと。
申し訳なさそうにそこに浮かんでいた。