第一話 法術師の少年
「ふひ…ひひひ…へへ」
陽が落ちかけた木々が覆い繁る森の中、大木の幹を背に、男が乾いた笑みを洩らす。
身長は一九〇後半、筋骨隆々の体に切れ味よりも頑強さを優先した鉛色の大剣。
口の周りを無精髭で埋め、半裸の身体の至る所にある汚れ。
とても教養のある人間には見えない。
事実、彼は山賊の一員である。
この日も『狩り』を終え、残すは食事と最高の『お楽しみ』を残すばかりとなっていた。
なっていたはずだった。
「ぷぎ」
断末魔か、悲鳴か。
また一人、仲間の気配が消えた。
過呼吸にも似た浅く速い呼吸を繰り返し、息を呑んだその刹那である。
左側頭部を何かが、高速で通過した。
頬に勢いのある水滴が飛び、首筋を熱い液体が滑り落ちていく。
男はまず視線を左に寄せていき、視界が限界まで寄ってから首を同じ方向に回す。
幹に穴が開いていた。
自分の大柄な体を隠しきる、比較的太い幹に、握り拳ほどの穴が開いている。
触って確かめたわけではないが、恐らく左耳がない。
確かめたいが、今の状況で片手であろうと武器から手を離すなどという行動には移れなかった。
銘のない切れ味皆無の鉄の塊だが、これまですべてを自由にしてこれたのはこの大剣があってこそ。
なれば現状を打破する可能性のある、信の置けるものは、この大剣以外はあり得ない。
乾坤一擲の一撃を繰り出さんと、無意識の内に柄を握る両手に力が籠る。
身体は緊張で冷え固まり、首から胸や背中の上を流れ落ちる血液が嫌に熱く感じられた。
不意に体が大きく震え、握り締めていた筈の剣が地に落ち、その重さ故、跳ねることもなく少量の砂埃を上げた。
男は首を傾げ、慌てて剣に手を伸ばす。
当然だ。
これがあるのとないのとでは、攻防共に著しい差が生まれてしまう。
男は周囲を警戒しながら柄を掴もうとするが
どうにも巧くいかない。
舌打ちをし、視線を足元に下げる。
掴める筈もなかった。
柄も、それを掴むための手も既になかったからだ。
そして足元には小さな血溜まり。
(どこから…あぁ、俺の腹からじゃねぇか)
先程頭のすぐ横に開いたものと同じか、と思考を巡らせた直後、男の意識は闇に掻き消えた。
『ファティマ山』の麓に点在する小村の一つに『ラレーク村』がある。
もとは『ファティマ山』を巡礼する者達の中継点の一つでしかなかったのだが、やがて人が集まり、宿を始めとする施設を設けられ、数年前に『ビアレント国』から村として認可を受けた村だ。
巡礼者が落としていく金銭と、広大な森林地帯を資源とした土木事業でこの村の経済は成り立っており、村の中央に設けられた酒場では、陽が落ちれば自然と屈強な男達の集まり、毎日のように酒盛りが行われている。
この日も寒く、安いながらも身体を暖めたいからか度数の高い酒が飛び交っていた。
止まない喧騒の中、錆びた蝶番を軋ませて扉が開かれる。
入ってきた人物は外套のフードで表情を隠したまま、マスターの正面のカウンター席に腰を据えた。
「見ない顔だな、何か用かい?」
「一泊頼みたいのじゃが」
「あん?宿はどうした?」
「生憎と満室でな。今から別の村に行くわけにもいかぬ。部屋は問わぬゆえ、一室宛がってもらいたい」
「別に構わねぇが…坊主、一人か?」
「問題が?」
マスターは小さく肩を竦め、親指を立てて二階を示す。
世界は過酷だ。
一万年前の大戦から世に蔓延る『魔人』、『魔獣』、『魔物』と呼ばれる人外によって、世界は少なくない被害を被っていた。
それ故、『渡り鳥』と称される何でも屋の旅人には常に『死』という危険が付き纏う。
昨日は確かにそこに在った命が、今日失われていることは然程、珍しいことではない。
野暮な詮索は心証を無駄に悪くするだけだということを知っている故に、口をつぐんだのだ。
「一番奥の物置部屋を使いな。色々が突っ込んであるが雨風は凌げる」
「助かる」
「こういった商売は持ちつ持たれつさ…っと、兄ちゃん!その外套と靴は脱いでいきな。何の血かは知らねぇが無闇矢鱈と汚されちゃ堪らねぇ」
店主の言葉に少年は改めて自身を見回す。
数時間前の『掃除』の名残か、外套の一部と靴に乾燥した血が付着していた。
特に靴の裏のこびりつきは酷く、溝の深くまで入り込んで固まっており、彼が歩いてきた足跡がありありとわかるほどだ。
「量か、それとも大物か。兄ちゃん、結構な腕みたいだな」
「降りかかってきた火の粉を払っただけじゃ。他愛のない小物じゃよ」
その場で外套と靴を脱ぎ纏め、その上に小金を置く。
「すぐにかからせよう。飯を食いたきゃ降りてきてくんな」
「頼む、と承知した」
表情を崩さぬまま礼を告げた少年は、腰まで届く長い黒髪を翻して宛がわれた部屋へと歩みを進めた。
扉を開け、一頻り確認してから中へと入る。
常に危険の付き纏う『渡り鳥』という稼業に於いて、警戒心は在りすぎるくらいが丁度良いのだ。
暫くして階下に降りてきた少年は、肉の入ったスープで腹を満たし、湯を浴びて床に就いた。
翌朝、少年が酒場を後とする際にマスターは彼に注意を促した。
昨今、村の近場で暴れ回る山賊の話だ。
奇跡的に逃げ出せた女性の証言は聞くに堪えないものであった。
比較的小規模な旅の商団に奇襲をかけて護衛を惨殺。
手足を落とし、内臓を掻き回し、最後に首を落とす。
その光景を生き残りに無理矢理見せて逆らう心を根本からへし折り、目隠しをされた上でアジトと思われる場所に移動。
男はそこで惨たらしく殺され、女は散々陵辱された後に同様に殺された。
最中の山賊の顔は、そのどれも愉悦に歪んでいたという。
この話は『ビアレント国』の中枢にまで及び、あと数日で討伐隊が編成され、事に当たることになっていた。
相応に腕の立つ…特に力に溺れ易い若手の『渡り鳥』は要らぬ世話、と鼻で笑う傲慢なものが殆どである。
そんな中、少年は礼を述べた上に頭まで下げた。
更に続けて、告げる。
「気を揉まずとも事はすぐに収まろう。ではの」
何処かムスっとした仏頂面のまま踵を返した少年は、一路南へ。
その日の昼前に討伐隊がラレーク村に到着。
午後はアジトの探索が行われ、陽が暮れる前に発見に至る。
斥候の命を受けた騎士が確認したそこには、確かに惨殺死体がいくつも転がっていた。
いや、そんな言葉すら生温い。
どの死体も身体の一部、或いは複数部分が完全に消失しているのだ。
頭、心臓、上半身に下半身。
酷いものは頭と手足の先だけが残っているもの…つまり胴体と四肢の大半が消えているものもあった。
後に検証した結果、驚くことに死体の大多数は山賊であることが判明。
救助が間に合った人々の、突然悲鳴が上がって程なくして消えたという証言から、山賊の殲滅は瞬く間に行われたという推測は立ったものの、それ以上の進展はなく、山賊絡みの一連の事件は『山賊の全滅』という結果だけを残して収束していくことになる。
「この仕事泥棒」
少年…ソラン=ニーベルは山道の切り株の上からかけられた声を無視し、その脇を通り過ぎた。
遥か上空を飛んでいた純白の小鳥が、声の人物の肩に着陸する。
「あら、五日ぶり。君も彼も、変わりないみたいね」
フードを捲り上げ、小鳥に対して小さく微笑んだ。
金色のショートボブに碧眼の瞳。
『ファティマ山』で別れた女性だ。
素知らぬ顔で歩を進めるソランに肩を竦め、距離を開けたまま追従する。
「一応いっとくけど、追っかけてきた訳じゃないよ?仕事があっただけ。ま、君に先を越されたわけだけど」
「うぬらの都合など知ったことではない」
「でしょうね。でもね?一度始めたなら全部片付けて欲しいわけよ」
やれやれと女性が首を振れば、山道の脇にある木々の裏から、柄の悪い輩がぞろぞろと姿を現した。
男女の混成、総勢一七名。
その粗悪な成りから、山賊の残党であることは間違いないだろう。
「怪我したくないなら動くなよ?へへ、女はいい値で売れそうだ」
「ガキの方もなるだけ傷つけんな。世の中にゃ、これで喜ぶ貴族様もいらっしゃる」
「………」
標的とされた二人の心証は、計らずも完全に一致した。
百害あって一理なし。
嘆息を吐きながら、ソランは女性の前へと躍り出た。
「お願いね」
「………」
スタスタと、表情を変えぬまま、一番前に陣取っていた軽薄そうな男との間合いを詰めていくソラン。
「騎士気取りか?暴れるなら骨の一、二本へし折って」
男の上半身が吹き飛んだ。
細かい肉片と砕けた骨、そして血飛沫が舞う。
不幸にも元人間の部品、その大半をその身に被ることになった女山賊は完全に固まり、恐らく、とても信じられることではないが、目の前で起きた現象の源へと目だけを向けた。
青年にすら為りきれていない少年が、裏拳の形で右手を振り抜いている。
その拳の軌道は確かに男の上半身を通っており、ともすれば『これ』は少年が起こしたもの。
だがしかし、どうやって。
見ていた限りでは殴りつけた感じはなく、ただ腕を振っただけのように見えたのだ。
それだけで、たったそれだけで、人間の上半身が吹き飛ぶものだろうか。
本気で殴っても、精々が骨が折れる程度ではなかろうか。
「こっこのガキっ!?『精霊術師』か!?」
「相手は素手だ!距離を取れ!」
確かにソランは素手。
事実、彼は武器の類いは一切持っていない。
「射て!」
後方待機していた弓使いが一斉に矢を放つ。
山賊達の動きを見て眉根を寄せたソランは、掌を打ち合わせた。
ぱん、と澄んだ音が辺りに響くと同時に、彼に向かっていた矢の動きがピタリと止まる。
中空に静止しているのだ。
「なっ!?」
「なるほどの。貴様ら国軍崩れか」
山賊の驚きを歯牙にも掛けず、ソランは眼前で止まる矢の先を撫で、そのまま彼らの方へと腕を伸ばす。
「先に葬った連中然り、ただの山賊の動きとするには統率が取れ過ぎておる。どういった経緯で身を堕としたかは知らぬが、自警団や腕に自信がある程度の傭兵では太刀打ちできまいよ」
伸ばした左手を引っくり返し、掌を上に向けた途端、静止していた矢の向きがクルリと反転した。
今、その鏃が狙うのはソランではなく、射手だった山賊。
「元国軍が相手では、国が討伐に動いたとてすぐに尻尾は掴めまいな。中々質の悪い集団よ」
凡そ水平に上げていた左でを勢い良く振り下げた。
瞬間、静止していた矢が想像を絶する速度で射手を襲い、頭を、腹を、心臓を貫き、粉砕する。
「儂に遭わなければもう少し長生きできたかもしれぬが…好き勝手やってきて運が尽きたようじゃな。殲滅させてもらおう」
足を肩幅ほどに開き、重心を下げ、半身になって手の甲を相手に向けたソランは短く息を吐いた。
「ソラン=ニーベル、押して参る」
口上が終わった刹那、ソランの足元が爆散。
一番手前にいた細身の男の前に現れるや掌底を放ち、男を消し去る。
いや、残っていた。
足の脛から下だけではあるが。
「ひっ!?」
矢の静止から始まった理解を越える事態に、思考回路が停止していた山賊達の脳が一気に覚醒する。
ただの小柄な少年が、死の権化に化けた。
恐慌状態に陥り、背を向け逃走を図った三人を確認したソランは、三回手を打ち鳴らし、何もない空間に鋭い蹴りを三つ放つ。
次の瞬間、逃げようとしていた山賊、その全ての頭が弾け飛んだ。
どれも首から血を噴水の如く噴き上げ、力なく血に臥せる。
「この化物めっ!炎よ!」
山賊の一人が剣を水平に構え、念じるように叫ぶと、手に持っている曲刀の刀身が炎に包まれ、周囲を明るく照らす。
任意の場所に一定の現象を発現させる下級精霊術だ。
斬撃や打撃力の強化、或いはその攻撃に様々な効果を付与する。
「風よ!」
「大地よ!」
続けて唱えられた『祝詞』で剣は風を、鎚は岩を纏い、ソランに殺到する。
下級とはいえ、精霊術を使えるほどの武術家の動きは、一般的な傭兵とは比べるべくもなく精錬されたものだ。
だがその動きも、ソランの手を打ち鳴らす挙動一つであっけなく打破された。
飛び掛かっていたものは後方に押し退けられ、低姿勢から襲い掛かったものは倒れて苦悶の声をあげる。
一様に何が起こったのかわからないといった表情だが、倒れた山賊はすぐにその表情を歪めた。
今まさに自分に掌底を打ち込まんとするソランを捉えたからだ。
先程からの得体の知らない能力に、山賊はせめてもの抵抗として恐怖を遠ざけようと腕を彼に向けて伸ばすが、そんなものに意味などあるわけもなく、上半身が風船の如く弾け飛ぶ。
たったの一撃で、地面が少なからず陥没し、血の花が咲く。
圧倒的な力と、命を奪うことを全く躊躇しない鋼鉄の精神。
死の権化と化した少年の、唯一の優しさと思えるのは、刃向かうものも逃げようとするものも、死を悟って項垂れるものも、一様に、一瞬で頭を吹き飛ばしてくれることくらいか。
「このっ…化物め!」
「聞き厭きている上に、言われずとも自覚しておる。やれやれ、洗濯して貰ったばかりの外套がまた血塗れになってしもうたわ」
山賊を潰し、外套に引っ掛かっている肉片を払い落とし、血の池を渡る少年。
その行動があまりにも自然で、自然過ぎて、まるで埃を落とし、ただの水溜まりを渡っているように見えてしまう。
「クソが…クソがクソがっ…クソがクソがクソが!」
鋼鉄製のロングソードの柄を握り締めた、最後の生き残りとなった女山賊が、俯いたまま更に力を蓄えていく。
「お前みたいなガキにっ…私らがやられるわけがあるかぁ!」
放たれるは全身のバネを利用した、渾身の突き。
ただの野盗にはどう足掻いても繰り出せない、相応の修練を積んだ見事な突きだ。
だが、少年にとってその突きは、余りにも普通過ぎた。
中段蹴りで刀身の根元を砕き、上半身に沿うように足の裏を天へと伸ばす。
降り下ろされるは、神速といえる異常な速度の踵落とし。
ズンっ、という重い音と共に出来上がるは、深さ三〇センチ程の穴。
降るは、余りの蹴りの勢いに舞い上がった人間の部品の数々。
残されたのは、主を失った両腕と、それが握る柄だけであった。
気配を探り、取り逃しがいないことを確認したソランは踵を返し、再び南下を開始する。
数分程して姿を現したのは先程の女性と、その頭上に止まる白い小鳥だ。
何をするでもなく暫く追従していた女性だが、飽きたのか、話の相手を先行する少年に定めた。
「お疲れ様。流石ボスが認めるだけあるわ。法術だけってのが未だに信じられないけど」
「仕事が終わったなら早々に帰れ」
「うん。この先の村で一泊して帰る予定。地酒が美味しいんだって。旅は道連れ、一緒に行きましょ」
「断る」
「また山賊に襲われちゃうかもしれないし…ねぇ、守ってよぉ」
「気色の悪い声を出すでないわ。世界で十指に入る精霊術師『氷の女王』が何をほざく。失せよ」
「あ、ひっどーい。強さはどうあれ、強い男の子に守られたいって考えるのが女の子なのよ?そんなんじゃ彼女も…あ痛っ………何これ?」
人差し指を立て、騙るに落ちていた女性は、澄んだ音が聞こえたと同時に壁にぶつかり、その歩みを止める。
が、おかしい。
ぶつかった壁がないのだ。
見えるのは左右に広がる林とその間に延びる街道、そして遠ざかっていくソランの背中。
事此処に至り、彼女はボスなるものの言葉を思い出して失態の声を上げる。
よもやこんな使い方をしてくるとは思いもよらない。
「ちょっ…こら、ソラン君!出しなさい!フェーン、ルリ!何とかこれ壊して…え?無理?何で外にいるの?不意を突かれたって?タイムラグなしでこの強度は反則でしょうが!」
目に見えない壁を殴り、蹴りまくる女性と、嘴で連続突きを放つ小鳥。
端から見れば変人と変鳥である。
そんなものに関われば自らも変人の仲間入りだ。
故に関わる必要はない。
微塵もない。
知ったことではない。
視線を送ることもなく、ソランはその場を後にするのであった。