プロローグ
ティマーブ大陸北東に位置する『ファティマ山』。
ビアレント国領内に聳える世界有数の霊峰だ。
晴れ渡る蒼空は地平の彼方まで広がり、これを見れば如何な曇った心情をも払い散らしてくれるだろう。
時期は冬。
なれば純白一色の画になるのが常なのだが、今年は僅かに異色が混じっている。
山頂近くの雪原に、裾が綻んだ全身をスッポリと覆う黒い外套。
背には鞄を背負ってはいるが比較的小振りな型であり、世界最高峰のこの山脈を登ってきたとするには、些か軽装過ぎる装備だ。
さらに麓から山頂までの道程は有に一ヶ月はかかる手前、その体は疲労困憊になっているはずなのだが、外套の人物からは疲労どころか疲れの一端すら窺えない。
軽い足取りで雪を踏み固め、ズンズンと進んでいく。
つつがなく山頂の一角…突き出た崖の上に到着した人物は、背負っていた鞄の中から小瓶を取り出し、栓を抜いた。
次いでフードを背中に流し、顔を顕にする。
年の頃は十代半ば…青年に成り切れていない少年といったところか。
鼻梁は比較的整ってはいるものの、皆が振り向くほど美少年といった風貌ではない。
一見どこにでもいそうな少年だが、その大きく力強い黒い双眸は、多くの人を引きつけそうだ。
腰近くまである長い黒髪をオールバックにして項で結わえており、体格は平均的だが堂々としたその佇まいは彼を見せている以上に大きく見せた。
「六年…か。時間がかかってしまって済まん、ガーフ。あんたが願っていた場所じゃ」
瓶を持った手を振り、白い粉を舞い散らす。
おもむろに両の手を打合せると風が起きて粉雪が舞い上がり、空で白い粉と混ざりあった後にその体積を縮めていく。
「さようなら、ガーフ」
もう一度掌を打ち合わせると風船が割れるかのように広がり、風に乗って八方に消えていった。
光の乱反射が収まり、周りが元の静けさを取り戻してから、少年はフードを被り直して踵を返す。
「お?何だ少年、泣いてんのか?」
目深に被った目元を上げれば、人影が二つ。
一人は長身痩躯の優男。
ダークグリーンの外套に、いかにも女性受けしそうな二枚目の面、さらに注目してくださいといわんばかりの血のように紅い眼と同色のセミロングの保有者だ。
切れ長且つ若干垂れ目からなるその視線は、好奇の色に染まり切っており、向けられた側の気分を盛大に逆撫でしてくれる。
少年は手を打ち鳴らした。
その直後、男の立っていた辺りの雪が舞い上がり、後ろから突き飛ばされたかのように倒れ込む。
濁点混じりの唸り声つきだ。
「バァカ。ホント、学習しないわね。アンタ」
そして真っ白い羽毛の小鳥を頭に乗せた人物は、ため息を吐きながら自らの金髪を掻き上げ、ついでに白い外套のフードを剥ぐ。
いかにも勝ち気そうな釣り目に、吸い込まれそうな碧色の眼。
同じ色の短い頭髪から一見少年に見えなくもないが、その実女性である。
女性は我関せずといった体で少年に目をやった。
「で?今後の動きは?」
「…これ以上、貴様らと連れ立って歩くつもりはない」
少年は視線をやることもなく二人の間を通り抜け、振り返ることなく歩を進める。
女性の頭上で所なさげに少年と彼らを見やっていた白い小鳥は、ややあって少年の頭へと飛び移った。
「お前もじゃ」
埃を払い除けるかのように小鳥を追い払おうとするも、手慣れているのだろう、華麗に躱して少年の周りを滞空する小鳥。
是が非でもついていくようだ。
諦めたのか、はたまたどうでもよくなったのか、少年は小鳥を無視するかのように歩き始めた。
胡坐をかき直した男は、やれやれと首を振ってから口を開く。
「鳥ちゃんに俺らの連絡先を伝えてある!何かあったら呼べよ、少ねぶっ!」
再び地面に倒れ込む男。
今度は仰向けである。
少年は掌を合わせたまま身を翻すと、不機嫌な心情を眉間に皺を寄せることで表し、憎々しげに告げた。
「少年って呼ぶなオッサン。儂はガキじゃない。ソラン…ソラン=ニーベじゃ」