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第34話 清香、人生最長の一日(4)

「奥様、佐竹様がお車で門の所にいらしてますが、お通しして構いませんか?」

 日曜の夕刻、リビングで寛いでいる時、唐突に家政婦からそんな声をかけられた由紀子は、怪訝な顔をしながらもすぐ指示を出した。


「え? 約束はしていないし、聡も居ないけど……。良いわ、お通しして」

「畏まりました」

 そして由紀子と顔を見合わせてから立ち上がった勝が、窓際に移動して庭から門へと続く道を眺め、電動式の門がゆっくり開くと同時にスルスルと邸内に入ってきた車を認めて、呆れた様に呟く。


「何だ? タクシーじゃなくて、あれはセンチュリーリムジン? まさか清人君が送って来たわけじゃあるまいな」

「さあ……、私にも何がなんだか。でも追い返す訳にもいきませんし」

「それはそうだが。……ああ、やはり清香さん一人だな」

 門の入り口付近で停車した車から清香が地面に降り立ち、屋敷の玄関までの何十メートルかの道のりをサクサク歩き始めたのを見て、勝は軽く安堵した。そして彼女を出迎える為に、由紀子を促して玄関へと移動する。

 二人が玄関に来ると、既に移動していた家政婦が玄関のベルが鳴ると同時に静かにドアを開け、清香を招き入れた。そして姿を現した清香が、軽く頭を下げる。


「おじさま、由紀子さん、突然すみません。お邪魔します」

「こんにちは、来てくれて嬉しいわ」

「今日はどうされました? あの車はお兄さんのかな?」

 勝が何の気なしに問いかけた言葉に、清香はちょっと言い難そうに言葉を濁した。


「……いえ、真澄さんのお家の車です。中で真澄さんが待っていますので」

「真澄さん……、ひょっとして柏木家の?」

 そこで怪訝な顔を見せた勝から由紀子に視線を移しながら、清香は真顔で来訪の目的を告げる。


「はい。それで、今日は由紀子さんに折り入ってお話があるんです」

「私に?」

「ええ。聡さんは今私の家で捕まってますから、邪魔が入る心配はありませんので」

 清香の口調と顔付きから、話の内容とやらがどう考えても穏やかな物では無い事に薄々気付いた二人だったが、拒否する事はせずに清香を促した。 


「取り敢えず上がって下さい。宜しければ柏木さんも」

「いえ、真澄さんはこのまま車内で良いそうです。私だけ失礼させて貰います」

「……そうですか」

 そうして三人揃ってリビングに移動し、ソファーに落ち着いてから、勝が清香に断りを入れた。


「清香さん。私が居ても支障はありませんか? なるべく話の邪魔はしませんから」

「構いません」

「ありがとう」

「それで由紀子さんにお話と言うのは……、お兄ちゃんの事です。二人は親子ですよね?」

「……っ!?」

「清香さん? どうしてそれを?」

 いきなりの断定口調での問い掛けに、由紀子は息を飲んで固まり、勝が険しい顔になって問い返す。それに清香は真顔で返した。


「今日帰宅したらマンションの廊下で、お兄ちゃんと聡さんが男二人で取っ組み合ってる所に遭遇しまして。なかなか刺激的な内容を怒鳴りあっていましたので、洗いざらい吐かせたんです」

「あの馬鹿が……」

 それを聞いた勝は盛大に舌打ちして何やら口の中で息子に対する悪態を吐き、清香は由紀子に顔を向けて説明した。


「それで、お兄ちゃんの話だけを聞いただけでは、偏った見方しか出来ないかと思いまして。一応由紀子さんの言い分も聞いておこうと、押し掛けた訳なんです」

「言い分なんて……、全面的に清人が言った事で間違いないわ」

 力無く肯定した由紀子だったが、清香はそれで納得しなかった。


「それでも! 私はあなたの口から、あなたの考えをちゃんと聞きたいんです!」

 僅かに身を乗り出しながらの、その強い口調に驚いた様に由紀子が目を見張り、勝が珍しい物を見る様な眼で眺める。そしてリビングに静寂が満ちたが、少ししてから勝が由紀子を静かに促した。


「由紀子」

「……分かりました。お話しします」

 それから由紀子は清人を置いて家を出るまでのいきさつと、それ以後の小笠原と清人との関わりについて述べ、由紀子が関知していなかった事で自分が知りえていた内容を勝が補足説明する形で、二十分程かけて一通りの説明を終えた。

 話の途中で清香は何回か僅かに眉を顰めたものの、取り敢えず無言を貫いて話の腰を折ったりする様な真似はせず、話が終わると同時に溜息を一つだけ吐き出した。そして徐に口を開く。


「ありがとうございます。良く分かりました……。お兄ちゃんの話は大筋で間違い無い様です。由紀子さん、一つ言わせて貰って良いですか?」

「ええ」

 何を言われるか大方の察しがついた由紀子は固い顔で頷き、清香は予想通りの内容を口にした。


「お断りしておきますが、私にとってはお兄ちゃんが最優先です。それを踏まえた上で聞いて貰いたいんですが……、由紀子さんは指を噛みちぎられても、お兄ちゃんを手放すべきじゃ無かったと思います。三十年経過してますし、もの凄く今更ですが」

「ええ、分かっているわ。清香さんは間違っていない。悪いのは全部私よ」

 俯いて涙ぐんだ由紀子を見やり、清香は向かい側から探る様な視線を向けた。


「後悔、してますか?」

「ええ」

「そう思ってくれているなら、今からでも遅くありません。今から家に来てお兄ちゃんに指を噛みちぎられて下さい」

「え?」

「清香さん!?」

 物騒な事を宣言しながら清香が立ち上がりつつテーブル越しに由紀子の手を取った為、由紀子は戸惑い、勝は顔色を変えた。しかし清香の表情は全く揺るがなかった。


「さっきも言った様に、私はお兄ちゃん最優先なんです。お兄ちゃんの気の済む様にしてあげたいんです」

「清香さん、それは!」

「流石に無傷で帰すと確約できませんが、いよいよ駄目となったら私が割り込んで何としてでも止めます。伊達に十何年も道場通いをしてません」

「いや、しかし!」

 流石に焦って思いとどまらせようとした勝だが、清香は由紀子の顔を覗き込みながら静かに訴えた。


「由紀子さん、もう三十年近く後悔してれば十分じゃ無いんですか? 今行動しないと、死ぬまで一生後悔し続ける事になりますよ?」

「清香さん……」

「私のお母さんは意地を張っている間にあっさり死んじゃって、とうとう実家の人達と和解できないままになっちゃったんです。でも由紀子さんとお兄ちゃんは、今どちらも生きてるんです。決裂するならそれでも良し、とにかく一歩踏み出して下さい。お願いします」

「……清香さん、でも」

 真摯に訴える清香に対し由紀子が泣きそうな顔を見せたが、ここで穏やかな声が割って入った。


「行ってきなさい」

「あなた?」

「言いたい事があるんだろう?」

 先程までは動揺していたものの、清香の話を聞いて考えを改めたらしい勝が、由紀子から清香に視線を移して声をかけた。


「清香さん、部外者の私は同行しない方が良さそうだ。由紀子を頼めるかな?」

 その問いに、清香が僅かに苦笑して頷く。

「勿論です。信用して下さい」

「ああ、宜しく頼むよ。……由紀子?」

「……はい、行ってきます」

 勝に促されて由紀子はゆっくりと立ち上がり、ドアへと向かう。


「じゃあ車を待たせているので、それに乗って行きますね。由紀子さん、急いで支度をして下さい」

「分かったわ」

 そうして身支度を整え、勝に玄関で見送られた二人は、待たせてあったリムジンの後部座席に乗り込み、運転席に背を向ける形で座っていた真澄に声をかけた。


「真澄さん、お待たせしました」

「思ったよりかからなかったわよ? 初めまして、小笠原由紀子さんですね? 柏木真澄と申します」

 向かい合う形で腰かけた由紀子に、真澄は軽く頭を下げた。それに対して由紀子が恐縮気味に頭を下げる。


「こちらこそ。これは柏木さんの車だそうですね。お世話になります」

「いえ、大した事ではありませんので」

 二人がそんなやり取りをしている間に、清香は携帯を取り出してどこかへ電話をかけ始めた。


「あ、もしもし、お兄ちゃん? そろそろ聡さんを解放して良いわ。…………え? 今? 聡さんのお家に居るの。聡さんにそう伝えてね、それじゃあ」

 そこで問答無用で通話を終わらせて再び電源を落とした清香の斜め前で、真澄が傍らの車内備え付けの受話器を取り上げ、運転席に指示を出す。


「出して頂戴」

 そうして静かな音と共にゆっくりと車が発進し、清香は真澄と顔を見合わせて小さく笑い合った。


「悪い子ね、清香ちゃん。聡君、絶対泡を食って家に帰って来るわよ?」

「敷地内にいる間に電話したんですから、その時点では聡さんの家に居る事に間違いは無いです」

「確かに、すれ違っても私達の責任じゃあ無いわよね」

「そうですよ」

 そんな事を言い合ってクスクスと楽しそうに笑っている真澄と清香に釣られる様に、強張った由紀子の顔も僅かに綻んだ。 



「聡君、真っ青になって帰って行ったな」

 男二人取り残された室内でボソッと浩一が呟くと、清人が忌々しげに言い返した。


「出掛けるって、まさかあいつの家に行ってるなんて思わないだろう。全く……、清香の奴、何やってるんだ。第一真澄さんが付いていながら、鉄砲玉にも程がある」

「ある意味、姉さんが一緒だから余計に心配なんだが……」

「益々不安を煽る様な事を言うな、浩一」

「悪い」

 そんなやり取りをして更に重苦しい沈黙が漂った佐竹家のリビングだったが、少しして何やら玄関の方から物音を察知した二人は、ほっとした様にソファーから腰を浮かせた。


「何か物音がしないか?」

「漸く帰って来たか……」

 清人が溜息を吐き出した所で、ドアの向こうから清香が顔を出して挨拶してきた。

「ただいま」

「一体何をしてたんだ、お前は」

 思わず説教しかけた清人の台詞を遮り、清香が体をずらして後ろの人物をリビング内へと誘導する。


「お客さんを連れて来たの。……由紀子さん、どうぞ入って下さい」

「は?」

「…………っ!」

 予想外の人物の名前を耳にして目を丸くした浩一と絶句した清人の前に、ゆっくりと由紀子が現れた。そして微動だにしない二人に向かって、軽く頭を下げる。 


「……お邪魔します」

「じゃあ、由紀子さんはこっちに座って下さい。ほら、お兄ちゃんはさっさとそのまま座る!」

「……ああ」

「浩一、あんたは私と一緒に下で待機よ。ほらぐずぐずしない!」

「いや、あの、ちょっと……」

 清香は由紀子の手を引っ張り、真澄が浩一の手を引っ張って移動を開始してその場を仕切り、男二人は全く抵抗できなかった。


「じゃあまた後でね、清香ちゃん」

「はい、連絡宜しくお願いします」

 そうして真澄と浩一が姿を消し、清人と由紀子が対面する形でソファーに座り、清香が二人と直角になる位置で腕を組んで仁王立ちになったところで、清人に冷静に促す声をかける。


「さてと。当事者が揃った所で、お兄ちゃん、さっさと済ませてよ。時間が押してるんだから」

「何だそれは? 全然意味が分からんぞ。何をさっさと済ませろと?」

 怪訝な顔を向けた清人に、清香が呆れた様に素っ気なく言い放つ。


「だ~か~ら、さっき聡さんに向かって由紀子さんの事を悪し様に言ってた様に、本人に向かって悪口雑言をぶつけるなり、子供の頃にやった様に指を噛みちぎるなり、お通夜の時の様に殴り倒すなりしてすっきりしたらって言ってるのよ」

「清香……」

 途端に眉を顰めて見上げて来る清人に、清香が淡々と続ける。


「この間聡さんに纏わり付かれて、いい加減ストレス溜めてるんでしょ? それ位、本人に代償してもらったって良いじゃない。その為にわざわざ連れて来たのに」

「…………」

 意識的に由紀子に視線を合わせようとしないまま、清人は不機嫌そうに黙り込んだ。それを見た清香が茶化す様に言い出す。


「あれ? どうして何もしないわけ? 嫌がるのを無理矢理引きずって来たのにな~」

「……ふざけるのもいい加減にしろ、清香。本気で怒るぞ?」

(う、うわ~、本気で怒ってるかなこれ。お兄ちゃんの話を聞いた時、何か口で言うほど怒ったり憎んでる様な気がしなかったから、一か八か由紀子さんを連れて来てみたけど……、単なる私の見当違い? 本気でお兄ちゃんが暴れたら、止められるかな?)

 怒りを孕んだ視線で清人が清香を睨みつけ、その視線を真っ向から受け止めた清香は何とか笑顔を保ちつつ、内心で滝の様に冷や汗を流した。その時、その場の重くなりつつあった空気を切り裂く様に、由紀子の叫びが響く。


「ごめんなさい!」

 それを耳にして、思わず清人と清香が二人揃って由紀子の方に顔を向けた。

「全部私が悪いの。本当はもっと早く清吾さんとあなたの前に出て、二人の顔を正面から見てきちんと謝るべきだったの。例え許して貰えなかったとしても」

「今更?」

 そこで冷え冷えとした清人の声が発せられたが、由紀子は話を続ける事を躊躇いはしなかった。


「あなたが私のした事を、きちんと認識してるのは分かってたの。だからどうせ許して貰えないだろうとか、戻っても同じ事を繰り返しそうだからとか、色々理屈を付けて目を逸らしてその事を考えない様にしてた。でも……、今ならはっきりと理解できる。単に私は自分が傷つきたく無かっただけだって。そしてその事で他人がどんな風に傷つくのか、考えもしない傲慢な人間だったって」

「確かにそうだな」

 冷静に認める発言をした清人に、由紀子が座ったまま膝に頭が付く位に頭を下げる。


「だから、あなたの気が済むなら好きなだけ罵倒してくれて構わないし、殴り倒されても構わないわ。そんな事であなた達に対するお詫びになるかは分からないけど、自分自身に区切りをつけたいから」

「……へえ、それは殊勝な心掛けですね」

 どこか皮肉っぽく清人が独り言の様に呟くと、その場に気まずい沈黙が漂った。そして暫くしてから、足元を見下ろしていた清人がボソッと言い出す。


「……父さんが再婚した香澄さんは、明るくて気立ての良い人で、何事にも前向きで挫けない人だった」

「……そう」

(ちょっとお兄ちゃん! 何もここでいきなり母さんを誉める話をしなくても良いでしょう? 由紀子さんの立場が無いじゃない!)

 何と返したら良いか分からず、のろのろと頭を上げて小さく相槌を打った由紀子の心境を思って清香は心の中で憤慨したが、続く話で頭を抱えたくなった。


「結婚してすぐの頃、父さんからあなたの事を聞いたらしくて、気を遣って消息を教えてくれた。『清人君のお母さんを何かのパーティーで見かけた事があるわ。再婚して清人君の弟も居るそうよ』って」

「香澄さんには、お目にかかった事が無いと思ってたわ」

(お母さん……、それ、気を遣ってっていうよりは、寧ろ無神経だと思う……)

 ある意味天然だった母親の所業に、密かに呻く清香。


「それで……、香澄さんに『香澄さんの事をお母さんって呼びますか?』と聞いたら、逆に聞き返された。『清人君はお母さんの事を何て呼んでるの?』って」

「……え?」

(あの、お兄ちゃん? さっきから話があっちこっち飛んでるんだけど。どう繋がってるわけ?)

 由紀子同様戸惑った清香を完全に無視して、清人の話は続いた。


「当然『母親なんて居ないから、何とも呼べないな』と言ったら無茶苦茶怒られた」

「どうして?」

「『私、清人君のお母さんらしい事、何一つ出来ないのに、清人君を産んだ人を差し置いて、私がお母さんって呼ばれるわけにはいかないでしょう!』というのが理由だった。結婚当初香澄さんは家事が壊滅的だったから、はっきり言って俺が面倒見てた。だから香澄さんがそう考える気持ちは、分からないでもない」

(お母さん……、どれだけ酷かったの……)

 しみじみとそう語った清人を見て驚を隠せない様子の由紀子を見ながら、清香は自分の母親の当時の生活能力の無さに、思わず床に蹲りたくなるのを必死に堪えた。そんな清香にチラリと顔を向けてから、清人が由紀子に向き直って話を続ける。


「そうしたら『じゃあ清人君がお母さんをお母さんって呼ぶなら、私の事もお母さんって呼んでもおかしく無いわよね。いきなり電話じゃ流石にハードルが高いだろうから、手紙を書いて』って脅迫された」

「…………あの」

「ちょっと待ってお兄ちゃん! 今の話、全っ然意味分かんないんだけど!?」

 本気で困惑した様子を見せた由紀子だったが、それ以上に納得いかない顔付きで清香が清人に大声で迫った。すると清人が盛大に溜息を吐いてから、補足説明をする。


「だから……、全く交流が無い世話もしていない人物を俺が母親と認識するなら、全然母親らしくない自分でも母親と呼ばれる事に抵抗感が無くなるからとか何とか……」

「何、それ? 益々意味不明」

「香澄さんは時々独特な物の考え方をする上に、一度言い出したら聞かなくて。それから暫く毎日目の前に葉書を出されて『お母さん元気ですか? 僕も元気で頑張ってますって書こうね?』って迫られた」

(お母さん……、無理強いして、益々お兄ちゃんが意固地になったんじゃないの?)

 そんな事を思って顔を引き攣らせていた清香の耳に、小さな清人の呟きが入ってくる。


「しかもよりにもよってあんなのじゃ……」

「あんなの、って何?」

 思わず突っ込んだ清香に、それで我に返ったらしい清人は慌てて弁解した。

「あ、いや、何でも無い」

「お兄ちゃん? 隠し事は洗いざらい吐けって言ったよね?」

 そこで当然誤魔化される筈も無く、清香が上から睨み付ける。その視線を一身に浴びた清人は観念して、小声で呟いた。


「……バラのポストカード」

「はい?」

 意味不明な呟きに清香が眉を顰め、清人が益々言い難そうに話を続ける

「香澄さんは結婚してからは極力無駄使いはしない様にしてたが、無類の可愛い物好きだったからカードとかシールの類でささやかな贅沢をしててな。自分のコレクションの中からとっておきの一枚を俺に渡してたんだ」

 それを聞いた清香はそこはかとなく嫌な予感を覚えながら、次の質問を繰り出した。


「……具体的にはどんな?」

「全面にピンクのバラが咲き乱れてて、あちこちに妖精がチラホラ描かれてるかなりメルヘンチックな…………。あ、いや、別に、香澄さんに悪気があった訳じゃ無いぞ? 『これを送ったらお母さんだって絶対喜んでくれる筈だから!』って、自信満々に押し付けてたんだから」

「…………」

 慌てて弁解しつつ香澄を庇う清人を見てから、清香と由紀子は示し合わせた様に無言のまま顔を見合わせた。それから清香が恐る恐る確認を入れる。


「ねえ、お兄ちゃん……。因みに、それが普通の官製葉書だったら、素直に書いてた?」

「さあ…………、それは……、どうだろうな」

 清香からも由紀子からも微妙に視線を外しながら答えた清人に、清香は頭痛がしてきた。


(あの反応じゃ、ひょっとしたら書いてたかも。やっぱり小学生男子には電話よりハードル高かったんじゃない? お母さん……)

 そこで項垂れた清香は、ふと引っかかりを覚えて清人に質問した。


「ねえ、お兄ちゃん。お母さんがお兄ちゃんに由紀子さんと連絡を取らせようとしてたなら、どうして由紀子さんは亡くなった事になってたの? 私が聞いた時お兄ちゃんがそう言ってたのを、お母さん否定しなかったと思うんだけど」

 記憶を引っ張り上げつつ不思議に思った清香はそう尋ねたが、清人はそれに言い難そうに答える。


「それは……、俺が香澄さんを脅したから……」

「脅した? どうして!?」

「清香が喋れるようになるのを、香澄さんは狙ってたんだ。自分と一緒に清香も『おてがみかこー』って言えば、お前を可愛がってる俺が絶対落ちると思って」

 清人が真顔でそう言った途端、清香は堪らず小さく噴き出した。


「ちょっとお兄ちゃん! それは幾ら何でも考え過ぎ。お母さんが私を使ってまで小細工する筈」

「香澄さんは、お前に自分の名前を教えるより先に、さっき言った言葉を当時一歳のお前に、俺に隠れてコソコソと教え込んでたんだ」

「え?」

「だから先手を打って、『清香の前ではあの人は亡くなった事にして下さいそれに清香に手紙を書く様に言わせたりしたら、今後家事育児を一切手伝いません』と宣言した」

 開き直って経過を説明した清人に、清香が引き攣った顔をで念を押す。


「……それで、お母さんは否定しなかったんだ」

「ああ。だから香澄さんは悪く無い」

 もう何も言う気がしなくなった清香は黙り込み、由紀子が唖然として見守っていたのを見て、清人が話を元に戻した。 


「香澄さんはお節介なんだ。自分は実家と絶縁状態の癖にそんな事言うものだから……、つい『香澄さんが親兄弟と仲直りしたら、俺もあの人の事を母さんと呼ぶ事にします』と言って膠着状態になった。まあ、俺と十何歳しか年が違わなかったから、こんな大きな子供にお母さんと呼ばれるのは気の毒だと思った事もあるんだが」

「お兄ちゃん……」

 自嘲気味に呟いた清人に思わず清香が声をかけると、清香の方を見ながら清人が話を続けた。


「そうこうしているうちに清香が産まれて、世話をしているうちに段々分かってきた」

「分かったって、何が?」

「何時間おきに泣き喚いて、ミルクだオムツだと手間がかかるだろう。香澄さんと一緒に当然俺も面倒見たが、俺の時は誰も居ないからな」

「………………」

「香澄さんは天然で物怖じしない性格だったから、団地の中にもすぐ溶け込んで友達も沢山出来てた。もともとノイローゼになる様な性格の人じゃなかったし。でも俺がある程度大きくなってから周囲の人に聞いてみても、あなたはあそこに二年以上住んでたのに、どんな人間か知ってる人は殆ど居なかった。最初周りの人が、俺に気を遣っているのかと思ったんだが、もともと社交的な性格ではないんだろう? 家を出て行ったあと、暫く入院していた事も、香澄さんが後で調べて教えてくれたし」

 黙り込んで無反応な由紀子を眺めながら、清人は淡々と話していたが、そこでふと視線をずらして口調を変えて言い出した。


「自分なりに色々考えて、高校の頃には意地を張るのが馬鹿らしくなってきて。自分で葉書を買って連絡だけは取ろうかと思っていた矢先、……クソジジイが恩着せがましく世迷い言を言ってきた」

(うわ、そのタイミングであの話だったんだ……)

 あまりの間の悪さに思わず清香が天を仰ぎ、焦った様に由紀子が口を挟んだ。


「あのっ! 私はその話!」

「知らなかったんだろう? それは知ってる」

「え?」

 当惑した表情を見せた由紀子に、清人が苦々しい表情で告げた。


「耄碌ジジイが『あんな分別の無い馬鹿娘には何も出来んからな。儂が直々に動いたのを知ったら涙を流して感謝するぞ』と言ってたから」

「うわ……、何、その勘違いジジイ!」

 流石に清香も怒りを露わにして思わず叫んだが、清人は見た目は冷静に話し続けた。


「暫くそれでムカついて、流石に香澄さんも葉書を書くのを強制しない様になってたんだが、卒業間近に社会人になる訳だし、いい加減大人になろうかと思って葉書を書こうと思ったら……」

 そこで言葉を濁した清人を、清香が促してみる。

「思ったら?」

「……クソジジイが小笠原に入れとの勧誘ついでに、散々暴言吐きやがった」

(由紀子さんのお父さんだけど……、色んな意味で最低の人だわね)

 憎々しげに吐き捨てた清人を見て、最早清香は弁護する気にもならなかった。


「それも袖にして、小笠原とは本格的に縁を切ったつもりになってたから、殊更葉書を書く気にもなれなくて……。そうこうしているうちに、香澄さんが父さんと一緒に交通事故で亡くなった」

「そうだったんだ……」

 思わず呟いた清香に構わず、清人が淡々と話を続ける。


「お通夜の席で、ちゃんとお母さんって一度でも呼んであげれば良かったと、心底後悔してた。俺がいつまでもつまらない意地を張らずに、あなたに手紙の一枚でも書いておけば、香澄さんは笑って『じゃあ私の事もお母さんって呼んでね』って言ってた筈なんだ。そんな事を頭の中で考えてた時に、のこのこ亭主と一緒に顔を出したりするから……。つい、カッとなって夫婦揃って殴り倒した」

「あの……、私、本当に考え無しに顔を出して……」

(だからあれ、だったんだ……)

 再び涙ぐんでしまった由紀子を見ながら、清香が肩を落としつつ溜息を吐き出したが、清人の話は続いた。


「それから……、初詣の時は、毎年一家揃って参拝してた思い出の場所で、一家揃って来てる所にばったり遭遇したものだから、ムカついてつい嫌みを言った」

「ごめんなさい、全然知らなかったから。来年からは行かない様にするわ……」

 すっかり萎れて消え入りそうな声で謝罪する由紀子を見て、清人は僅かに眉を顰めてからわざとらしく言い出した。


「確か……、聡とか言ったよな。息子の名前」

「……え、ええ」

(だからお兄ちゃん、話題飛び過ぎ! 凡人の私にも分かる様に話を進めてよ! 第一、聡さんの名前なんて今更でしょ!?)

 唖然としながら驚きの目を向けた清香と、戸惑って思わず顔を上げ、涙を何とか抑えながら見返して来た由紀子から顔を背けながら、清人は面白く無さそうに言葉を継いだ。


「最近、清香の周りをうろちょろして迷惑だ」

「あの……、聡には私からも良く言って聞かせるから」

「生意気だし、目上を目上と思ってないし、ふてぶてしい面構えで顔を見る度ムカつくんだが……、なかなか良い根性をしてる」

「え?」

 女二人が怪訝な視線を清人に向けたが、当人は二人と視線を合わさないまま冷静に話を続けた。


「まあ……、女を見る目はなかなかだし、それなりに頭も切れる様だし、見た目よりは気配りのできる奴の様だ。だから…………、百歩譲って俺の弟と認めてやっても良い」

「清人?」

「お兄ちゃん?」

 言わんとする事が分からず怪訝な顔をした二人には構わず、清人が自論を展開する。


「血が繋がって無くても、大して母親らしい事をして貰え無くても、俺が母親と思う人間は、後にも先にも香澄さん唯一人だ。だから香澄さんが死んだ今となっては、他の人間をそう呼ぶ訳にいかない」

「……勿論、その通りね」

 そう穏やかに頷いた由紀子を一瞬横目で見やってから、清人はすぐに視線を外しつつ呟く。


「だけど……、あなたの事は弟の母親として認識しても良いと思ってる」

「……あの」

「お兄ちゃん? それって……」

 慎重に清人の本心を探ろうとした清香の目の前で、清人が窓の方に顔を向けて誰にも視線を合わせない様にしながら、些か棒読み調子で言葉を継いだ。


「最近大病したらしいが、体に気をつけてせいぜい長生きしてくれ。今は到底無理だが、後二・三十年経って俺の性格がもっと丸くなったら他の呼び方がしたくなるかもしれないし、うっかり口が滑るかもしれないからな」

 そう言われた由紀子と清香は、言葉の意味を一瞬頭の中で吟味し、清人の言わんとする内容を察した。そして由紀子は目許をハンカチで押さえて泣き出しながら頷き、清香は満面の笑みで清人の横に膝立ちで座り、その首に両手を回して抱き付く。


「……っ、……ええ。気を、つけます」

「お兄ちゃん!」

「うわっ! こら、清香。お前いきなり何するんだ!」

 慌てて腕を引き剥がした清人だったが、続けて清香は清人の頭を撫で始めた。


「お兄ちゃん偉い! 頑張ったね、誉めてあげる!」

「何だその上から目線はっ! 第一頭を撫でるなっ!」

「えぇ~? だって可愛いんだもん。それにお母さんの代わりだから良いでしょう?」

「お前な……」

 若干照れながら文句を言った清人だったが、邪気の無い笑顔で言い聞かされて苦笑するしかなかった。と、ここで何を思ったか、清香が勢い良く立ち上がる。


「さて、話が纏まった所で、私、これからまた出掛けるから。お兄ちゃん、由紀子さんをちゃんと送ってね?」

「は? ちょっと待て清香! お前どこに行く気だ」

 言うだけ言ってスタスタと歩き出した清香を清人は慌てて問い質したが、清香は振り返って文句をぶつけてきた。


「真澄さんのお家。下で待って貰ってるの。全く……、お兄ちゃんがぐだぐだ回り道して話してるから、時間かかっちゃったじゃない! もう七時半よ、どうしてくれるのよ!」

 それで清香の訪問の理由を悟った清人は、これ以上引き留めはしなかった。


「それは悪かったな。真澄さんと浩一に謝っておいてくれ。あと……、相手は高齢なんだから、少しは手加減しろよ?」

「分かってるわよ、行ってきます!」

「ああ」

 元気良く飛び出して行く妹を玄関で苦笑しながら見送った清人は、リビングに戻ろうとして未だに泣いている由紀子の姿を目にし、違う場所に足を向けた。そして一分後リビングに戻ってきた清人は、由紀子に向かってある物を差し出した。


「良かったら使って下さい」

「え? これ……」

 由紀子が顔を上げ、目の前の濡れタオルらしきものと清人を交互に見詰めると、清人は幾分疲れた様に説明した。

「もう少しマシな顔になったら送って行きます。このまま返したら、今度は俺がご主人に殴られそうだ」

 そう言われた由紀子は一瞬真顔になってから、泣き笑いの表情を浮かべて小さく頷く。


「……ええ、そうですね。お借りします」

 そうして受け取ったタオルを顔に押し当ててまた俯いた由紀子を見ながら、清人は今は亡き義理の母親の、明るい笑顔を思い返していた。

(これ位で何とか妥協して下さい、お義母(かあ)さん……)

 そして今の自分の顔に、苦笑の表情が浮かんでいる事を、清人ははっきりと自覚していた。


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