第33話 清香、人生最長の一日(3)
話は清香が帰宅する三十分程前に遡る。
その時、仕事部屋で資料の整理をしていた清人は、携帯の呼び出し音が響いた為作業を中断してそれを取り上げた。ディスプレイに浮かびあがった見慣れない番号に一瞬戸惑ったが、通話ボタンを押して応答する。
「はい、もしもし佐竹ですが」
「すみません兄さん。今ちょっと時間を貰って良いですか?」
そこから聡の声が伝わってきた途端、清人は問答無用で通話を終わらせた。そして素早く受信履歴に残った番号を、受信拒否設定にしてから忌々しげに呟く。
「……この番号、清香からでも聞き出したのか?」
そして何とか気持ちを落ち着かせてから机へ戻り、作業を再開した清人だったが、五分程して固定電話の呼び出し音が鳴り響いた。何となく嫌な予感を覚えながら、清人が仕事部屋の子機を取り上げる。
「はい、佐竹です」
「話も聞かずにいきなり切るのは、酷くありませんか?」
「しつこいぞ!」
予想通りの声に清人は怒りを露わにして怒鳴りつけ、通話を終わらせた。そして当分かかってきても通じない様に、わざと所定の位置に戻さず話し中の状態にする。
「全く……」
悪態を吐きながら何とか仕事に集中しようとした清人だったが、それから更に十分程して今度はインターフォンの呼び出し音が鳴り響いた。最早苛立ちを隠そうともせず、清人がそのモニターに歩み寄り応答ボタンを押すと、画面にエントランスに佇む聡が映し出されていた。操作音で清人が応対しているのを察したらしい聡が、軽く頭を下げつつ呼びかけてくる。
「俺です。少しお話ししたい事があり」
無言のまま清人はモニターの電源を落とし、素知らぬふりを決め込んで作業を再開した。
それから更に五分程して、今度は玄関の呼び出しのチャイム音が鳴り、怪訝そうに清人が腰を上げた。そして玄関のドア越しに声をかける。
「はい、どちら様ですか?」
「すみません、管理室の高田です。ちょっと確認したい事がありますので、ドアを開けて頂けませんか?」
一応覗き穴から廊下を窺うと、確かに一階に常駐している管理人である年配の男が佇んでいた為、清人は慌ててロックを外した。
「分かりました。今開けます」
そしてドア開けながら、清人は怪訝な顔で尋ねた。
「高田さんお待たせしました。どうかしましたか?」
「申し訳ありません、佐竹さん。こちらの方が」
「良かった、別に何事も無かったんですね? 心配しましたよ、兄さん」
そこで開いたドアの向こうから聡が姿を現し、ドアを閉められない様にさり気なく片足でドアを押さえ、両腕でドアノブを掴んでいる清人の腕を捕らえた為、流石に清人は驚きの声を上げた。
「なっ、お前っ! どうしてここにっ!」
しかし何故かその反応を見た高田が、ほっとした様に笑顔を見せる。
「ああ、本当に弟さんだったんですね? 佐竹さんや妹さんからそんな話は聞いていなかったので、疑ってしまってすみませんでした」
「いえ、確かに両親が離婚して名前も違いますし、普段離れている者の事をペラペラ話したりはしませんよ、お気遣い無く」
にこにこと高田に愛想を振りまく聡に、清人が低く呻く。
「これは一体何事だ?」
「嫌だな、兄さん。俺との約束を忘れて昼寝でもしてたんですか?」
凄まれてもびくともせず聡が苦笑し、高田が安堵した様に経過を説明した。
「電話でもエントランスのインターフォンでも応答が無いから、ひょっとしたら兄が室内で倒れているかもしれないと、下で訴えられまして焦りましたよ。管理室から登録されている携帯や固定電話にかけてみても、全く応答がありませんでしたし」
「清香さんも出掛けると聞いていたので、もし一人で倒れていたらまずいかと。しかも『中から応答があっても、もしかしたら押し込み強盗が兄を脅してるかもしれないから』なんてお騒がせして、不測の事態に備えて無理に付いて来て貰って、本当に申し訳ありませんでした」
そう言って高田に向かって神妙に頭を下げた聡を見て、清人は心の中で忌々しげに呟いた。
(こいつ……、それを狙ってわざと事前に電話をかけて応答不能にしておいて、高田さんを引っ張り出して俺に中から鍵を開けさせたな?)
しかしそんな事とは夢にも思っていない高田は、愉快そうに笑って軽く手を振った。
「いえいえ、想像力豊かな所は、流石物書きの方の弟さんですね。何事も無くて本当に良かったです。それでは私は失礼します」
「はい、お騒がせしました」
「申し訳ありません」
頭を下げた高田を聡と清人も謝罪の言葉を述べて見送ったが、その姿が見えなくなった途端、清人は取り繕った外面をかなぐり捨て、未だ自分の右手を押さえている聡の腕を左手で掴んで恫喝した。
「……随分手の込んだ真似をしてくれるじゃないか。さっさとその手を離せ」
「叩き出しても構いませんが、話を聞いて貰うまで廊下で待たせて貰います。そのうち清香さんが帰ってくるかもしれませんね」
動じずに言い返す聡を、清人は目を細めて睨み付ける。
「……警察を呼ぶぞ?」
「単なる兄弟喧嘩でですか? でも俺は兄さんに対して手を上げる気はありませんから、下手すると傷害罪を問われるのはそちらですね。それに……、清香さんに余計な心配はかけたくないので、できれば回避したいです」
淡々と告げる聡に清人は「チッ……」と小さく舌打ちすると、ドアを更に大きく開いて聡に腕を掴まれたまま廊下に出た。そして聡が腕を離すとドアを閉め、そこに背中で寄りかかりながら両腕を組んで横柄に告げる。
「五分だけ話とやらを聞いてやる。さっさと話せ」
(あくまで室内に入れる気は無いと言う事か……。はっきりしていていっそ清々しいな)
その姿に思わず笑いを誘われた聡だったが、それを見た清人が益々不愉快そうに唸った。
「……何がおかしい」
「すみません。それではなるべく簡潔にお話ししますが、まず……」
瞬時に笑いを収めた聡は、清人の前で両手両膝を廊下に付けて座り込み、神妙に頭を下げた。
「兄さんの気持ちを考えず、こちらから一方的に接触を図って申し訳ありませんでした。母にも余計な事はするなと窘められました。併せて身元を隠したまま、清香さんに近付いた事に関しても謝ります」
それを聞いた清人は意外そうな顔を見せた。
「ほう? 今日は随分素直だな。それで? このまま俺の目の前から消えて、一生現れないと約束するとでも?」
「その逆です。何年か後には嫌でも親戚付き合いをして頂く必要がありますので、この際きちんと一度お詫びしておこうと思いまして」
「何、世迷い言言ってやがる!」
「ぐっ……」
突然声を荒げた清人が勢い良く聡の左掌を靴で踏みつけた為、聡は小さく呻き声を漏らした。しかしそれには構わず、薄笑いを浮かべながら清人が聡の手を踏みにじる。
「もう一度言ってみろ。何が何だって? ……取り消すなら今のうちだぞ?」
その脅しにも聡は怯まず、右手で清人の右足首を捕まえながら、高い位置にある異父兄の顔を見上げた。
「勿論、清香さんはまだ学生ですし、今すぐと言うわけではありませんが、四・五年のうちには」
「ふざけるな! 誰が貴様なんぞに清香を渡すか!」
聡の言わんとする事を察した清人は怒声で聡の話を遮ったが、聡は冷静に話を続けた。
「俺が気に入らないのは、単に母さんの息子だからですか? それ抜きで考えても、俺自身が清香さんの相手としては相応しく無いと思っているんですか?」
「……何だと?」
物騒な気配を醸し出しながら清人がそこで眉をしかめ、聡が慎重に清人の顔色を窺いながら言葉を継いだ。
「それに……、もしかしたら兄さんは、それほど母の事を恨んではいないんじゃないですか?」
「どうしてそう思う。頭の中が相当おめでたいな、お前」
頭の上からせせら笑われた聡だったが、何とか感情を抑えながら推論を述べた。
「清香さんには『本当に嫌いだったら話に出す事もしない』とは言いましたが、良く考えてみたら兄さんの行動には色々矛盾点があったもので」
「どこがどう矛盾していると?」
「ご両親のお通夜の時の話です。兄さんは母達を引きずり出して殴りましたよね?」
「それがどうした」
「父は拳で殴り倒されたそうですが、母は平手打ちされただけですよね」
「だから?」
「本当に嫌い抜いてたら、幾らフェミニストでも父と同程度に母を殴りませんか? もしくは触れるのも忌避して一発も殴らないと思いますが」
どこか探る様な視線で見上げられた清人は一瞬黙り込んでから、ボソッと言葉を返した。
「……女性には極力手を上げるなと言うのが、死んだ父の教えでな」
しかし聡はそこを突っ込まず、あっさりと話題を変える。
「そうですか。それでは話を変えます。兄さんはどうして母達に焼香させなかったんですか?」
「何?」
「完全に赤の他人だと思ってるなら、尚且つ未だに清香さんに母との関係を知られたくなくて黙っているなら、当時知らぬ振りをして黙って焼香させて帰って貰えば良かったじゃありませんか。それをわざわざ騒ぎになる危険を冒して、母達を外に連れ出したのは何故ですか?」
「……自分が捨てた、かつての亭主の遺影を見に来た女の顔を見るのが、不愉快極まりなかったからだ」
如何にも面白く無さそうに告げた清人に、聡は疲れた様に溜め息を吐く。
「違うでしょう? 恐らく兄さんは、一度に両親を亡くした清香さんの心境を慮っただけです。自分にはまだ母親が居ると分かったら、清香さんが余計に寂しがると思ったから、発作的に引きずり出したんじゃ無いですか?」
「妄想を垂れ流すのもいい加減にしろよ?」
「爺さんにも俺に対してもえげつない報復を仕掛けてきたあなたが、幾ら直接接触して来ないからといっても、心底憎んでる相手を放置するなんて有り得ないと、この間のあれこれで思いましてね」
「はっ! 良い社会勉強になっただろう?」
更に右足に体重をかけてくる清人に、僅かに顔を歪めながら聡が言い募る。
「ええ、お陰様で。それで、清香さんには母を亡くなった事にしてあなたの方から連絡も接触も断っていたのは、再婚した母の立場を推し量ったり、義理の母親の香澄さんに遠慮していたせいですか?」
聡がそう尋ねた次の瞬間、その手から右足を退けた清人が思い切り右足で聡の左肩を蹴りつけた。流石に衝撃を堪えられなかった聡が仰向けに廊下に転がると、その上に馬乗りになった清人が両手で聡のコートの喉元を掴み上げる。
「言いたい事はそれだけか? 誰があの女の立場に配慮するって?」
「怒るという行為自体、気にしている証拠だと思いますが?」
「はっ! あんな女、倒れて入院してたそうだが、いっその事そのままくたばってしまえば良かったんだ!!」
そこまで何とか平静さを保っていた聡だったが、ここで流石に怒気を露わにして清人の腕を掴んで睨み付けた。
「何て事を言うんですかあなたって人は!? 幾ら気に入らないからって、言って良い事と悪い事があるでしょう!」
「貴様に賢しげに説教される謂れは無い!」
そう吐き捨てた清人に、聡も負けじと清人の手首を引き剥がそうとしながら怒鳴り返す。
「本当に最低な人間ですね、あなたって人は! あなたが纏わりついてる清香さんに、面倒くさがって近付く男が居なかったのも納得ですよ。正直、母の事が無かったら、例え知り合っても深入りしようなんて思いませんでしたね!」
「自分の行いを棚に上げて、何ほざいてやがる!」
「二人とも止めなさいっ!!」
突然至近距離から響いた怒声に、掴み合っていた二人は声のした方に顔を向けて驚愕した。
「え!? 清香、お前どうしてここに!」
「清香さん!? まだ帰る時間じゃ!」
「知らなかったわ……、お兄ちゃんと聡さんが私が居ない隙を狙って、コソコソ密会する間柄だったなんて」
腕を組んで仁王立ちになり、冷え冷えとした声を降らせて来る清香に、二人は慌てて相手の服から手を離し、立ち上がりつつ弁解する。
「清香! そんな誤解を招く様な発言は!」
「清香さん! コソコソなんてしてないから!」
「そうよね。隣近所の迷惑も顧みず、マンションの通路で殴り合いの兄弟喧嘩をする位ですものね。コソコソなんかしてないわよね?」
周囲を見渡しつつ薄笑いを浮かべて皮肉を口にした清香に、清人が居心地悪そうに問いかけた。
「清香……、お前どこから聞いてた?」
「『完全に赤の他人だと思ってるなら』の辺りからかしら?」
「…………」
途端に黙り込んだ男二人を睥睨しつつ、清香がその場を仕切り始めた。
「さあ、取り敢えず中に入るわよ。お兄ちゃん、ま さ か あれだけ過激なスキンシップをしていた聡さんを、中に入れないなんて言わないわよね?」
「清香、それは」
「聡さんもさっさと入って。ま さ か 私の誘いを袖にして、この場からトンズラしようなんて考えてないわよね?」
「あの、清香さん」
一応抵抗しようとした男達の言葉に、清香は耳を傾けずに言い付ける。
「寒いのよ。さっさと入る! お兄ちゃん、アールグレイ! 聡さんは黙って座る!」
「……はい」
神妙に頷いた二人を家の中に押し込んだ清香は、廊下の怒声を聞き付けて何事かと顔を覗かせていた近所の者達に「どうもお騒がせしました~」と愛想を振りまいてから家の中に入った。しかし玄関に入った途端不機嫌そうな顔付きになり、玄関のポールスタンドにコートを掛けて真っすぐリビングへと向かう。
その間キッチンで清人が紅茶を淹れ始めた為、聡はソファーで所在無げにしていたが、リビングに入ってきた清香を見て、思わず腰を浮かしかけながら口を開いた。
「……清香さん、さっきのあれは、言葉のあやと言うか何と言うか」
「五月蝿い」
「…………」
目を細めて睨み付けてきた清香に弁解の言葉をぶち切られ、聡は神妙に押し黙った。そこでトレーで一人分のカップを運んできた清人が、僅かに顔を引き攣らせながら声をかける。
「清香、アールグレイを淹れ」
「座って」
「……ああ」
ありがとうもなにも言わない事に加えての清香の命令口調に、清人と聡の肝が冷える。
そして清香の向かい側に清人が座ると、目の前のローテーブルに置かれたティーカップをゆっくりと取り上げた清香は、一口中身を味わってから徐に言い出した。
「そうね……、何から話そうかしら? …………やっぱり私がどうしてこんなに早く帰って来たのか聞きたいでしょう? 聞きたくない? ……そんな事、言わないわよね?」
「できれば……」
「聞かせて欲しいです……」
疑問形ではあるが全く笑っていない目を見れば、強制である事は一目瞭然であり、男二人は素直に頷いてみせた。すると清香は険しい目つきのまま、クスクスと笑いだす。
「それがねぇ、聞いてびっくりの話なのよ? ……まあ、ひょっとしたら二人とも知ってる話かもしれないけど」
「…………」
最後はドスの効いた声で皮肉をぶつけて来た清香に、男二人は最悪の予想を頭の中に浮かべたが、それから清香が順序立てて語った内容がその予想通りの内容だった為、二人は内心で盛大に呻いた。
(何てタイミングの悪い……。しかも総一郎さん、あなたって人は年を取っても学習能力はつかなかったんですか……)
(最悪だ……。ブラコンの清香さんに兄さんの悪口は禁句以外の何物でもないのに。それでなし崩しにバレるなんて……)
本気で頭を抱えたくなった二人に、十分程かけて紅茶を飲み干しながら柏木邸でのあらましを一通り語り終えた清香が、不気味な微笑みを浮かべつつ声をかける。
「……それでね? 聡さんに昨日諭されたお陰で、理性をぶっ飛ばしてお祖父さん達をその場で半殺しにしたりせずに帰って来れたの。聡さんのおかげよ?」
「い、いや、その……」
「お兄ちゃんは私がお祖父さん達の悪態を吐く度に、そんな風に悪し様に言うのは止めろと言ってたでしょ? 平手打ちで済ませてあげたのは良くやったって、誉めてくれないの?」
「あ、あのな、清香……」
冷や汗を流しつつ何とか事態を穏便に済ませようと試みた二人だったが、ここで室内に清香の怒声が響き渡った。
「なんて事……、本気で言うと思ってんのか――――っ!?」
「うわっ!?」
「ちょっと待て!」
叫びながら清香は聡にティーカップを投げつけ、清人にソーサーを投げつけてから、両手でローテーブルを盛大に叩きつつ絶叫した。
「ふざけんじゃないわよ!? 皆で私一人除け者にして陰でコソコソコソコソ!」
「清香! これには色々と訳が!」
「清香さん! 決して好き好んで隠していた訳では!」
「さあ、お兄ちゃん、今すぐさっき廊下で言ってた事、洗いざらい話して貰うからね! もしこの期に及んで嘘を吐こうものなら、分かった時点で綺麗さっぱり兄妹の縁を切るわよ? 勿論分かってるわよねっ!?」
「清香……」
憔悴した顔で清人が呻いたが、再度拳でテーブルを叩いた清香は、情け容赦なく押し殺した声で凄んだ。
「さっさと吐け」
「……はい」
(清香さん、人格が崩壊してる。兄さんまでまるで別人……)
常には見られない憤怒の形相の清香と項垂れた清人を見て、色々諦めた聡は片手で顔を覆った。
それから二十分程かけて清人は粗方の説明を終えた。
途中で聡の反論や突っ込みが入り二人で論争になりかけた事が何度かあったものの、無言の清香の一睨みですぐその場は収まる。そして全てを聞き終えた清香が真顔で腕を組みながら、些かわざとらしくしみじみと言い出した。
「へえぇ、なるほどねぇ~。よぉぉ~っく分かったわぁ~。お兄ちゃんと聡さんは、どちらも由紀子さんが母親の異父兄弟ってわけかぁ~。どことなく似てるとは思ってたんだよねぇ~。懇切丁寧な説明をどうもありがとぅ~」
(清香、言い方がもの凄く嫌みだ……)
(は、針のムシロだっ……)
チクチクと棘が刺さる様な物言いに、男二人は身の置き所が無い居心地悪さを味わう。そんな中清香が聡にチラリと視線を向け、呆れた口調で言いだした。
「それで? 聡さんは由紀子さんの為に、面倒くさい義理の妹の私に近付いて、お兄ちゃんに渡りを付ける為、情報収集の一環で私と付き合うふりをする事にしたんだ~。孝行息子の鏡だよねぇ~」
「清香さん、それは誤解だから! 第一、俺達の話をちゃんと最初から聞いてくれてたら」
しかし清香は聡の訴えになど耳を貸さず、今度は皮肉っぽい視線を清人に向けた。
「それで? お兄ちゃんはそこら辺の事情を私に隠したまま、陰険かつ姑息な手を使って聡さんの仕事を散々邪魔した挙げ句、大病したばかりの由紀子さんがそのまま死んだら良かったとかの暴言を吐いたわけだ~。まあ、気持ちとしては分からないでも無いけど、人として実際に口に出すのはどうなんだろうなぁ~」
「あの、清香? 確かにそれは俺も言い過ぎたかと」
そしてボソボソと弁解しようとした清人の台詞を、清香の金切り声が遮る。
「本当にいい加減にして!!」
そう叫びながら清香はソファーから勢いよく立ち上がり、涙目になって二人に怒声を浴びせた。
「私の周りって、揃いも揃ってとんでもない嘘吐きばっかり! 二人とも最低よ、大っ嫌い!!」
言うだけ言ってリビングから駆け出して行った清香を、聡が一瞬遅れて追いかける。
「清香さん!」
しかし聡の目の前で恐らく清香の自室であろう部屋のドアが閉まり、ご丁寧に中から施錠される音が聞こえた。
「清香さん? お願いだからここを開けて話を」
「五月蝿い!! とっとと出てけっ!」
狼狽しつつもドアを叩きながら呼びかけた聡だったが、清香の叫びと共にドガシャッ……と固くてそれなりに重量のある物が派手に投げつけられた音と衝撃がドア越しに伝わり、聡は現時点での説得を諦め、取り敢えず清香が落ち着くまで待たせて貰おうとリビングへと戻った。しかしそこで予想外の光景を目にした聡は、思わずたじろいだ。
両肘を膝に乗せ、俯いて文字通り頭を抱えて微動だにしない清人に、聡が恐る恐る近付く。その途中でインターフォンの呼び出し音が鳴り響いたが清人が相変わらず無反応な為、聡は慎重に声をかけてみた。
「兄さん、呼び出し音がしてますが」
しかしそれでも反応が皆無の為、心配になった聡が屈みこんで顔を覗き込もうとした。
「兄さん? どうしたんですか。どこか具合でも」
「清香に、大嫌いと言われた……」
そのままの姿勢でぼそっと呟かれた内容に、聡が眉を寄せる。
「はあ? そんなの兄弟喧嘩か何かで、お約束の様に口にする言葉じゃ無いですか?」
「清香と喧嘩なんかした事は無い」
「あのですね……」
本気で頭痛と眩暈を覚えた聡だったが、しつこく鳴り続けている呼び出し音を放置もできず、舌打ちしながら聡がインターフォンに歩み寄った。
「全く、こんな時に誰……、え? 柏木さん!?」
モニターを覗き込んだ聡は、そこに映し出されている人物を見て仰天し、慌てて受話器を取り上げた。
「お待たせしました。今開けます」
「遅い! ……って、その声、まさか聡君?」
マイクを通して下のエントランスから戸惑いの声を伝えて来た真澄に、聡が促す。
「話は後です。取り敢えず上がって下さい」
「分かったわ」
そして浩一を引き連れて上がってきた真澄を玄関で出迎えた聡は、予想に違わず玄関で問い質される事となった。
「一体どういう事? あなたがここに居るなんて。第一、清香ちゃんは? ちゃんと帰宅しているわよね?」
「はい、彼女から柏木邸でのあらましは聞きました」
「それで君はどうしてここに?」
不審げな浩一の問い掛けに、聡が思わず顔を引き攣らせる。
「……実は、兄と色々突っ込んだ話をしている所に清香さんが帰宅しまして、俺達の関係がバレて少し前に洗いざらい吐かされました。その結果清香さんは自室に閉じ籠もって、返事もしてくれません」
半ば自棄になって聡が簡潔に語った内容に、真澄と浩一が深々と溜息を吐き出す。
「……何て間の悪い」
「二人揃って大馬鹿野郎ね」
そんな事を言い合いながらリビングに足を踏み入れた真澄は、ソファーで彫像と化している清人を指差しつつ聡に小声で尋ねた。
「それで? あの燃え尽きてるのは何なの?」
「それが……、清香さんに『最低』とか『大嫌い』とか罵倒されたのが相当ショックだったみたいで……」
清人からも真澄からも視線を外しつつ聡が状況を説明すると、柏木姉弟が清人に憐れむ視線を向ける。
「絶対、清香ちゃんに言われた事ないでしょうしね」
「ある程度予想はしていたが、これほどとは……。ちょっと清香ちゃんの様子を見て来る」
そう言って浩一は清香の部屋に向かい、真澄は一人で暗い空気を漂わせている清人に歩み寄った。
「お邪魔するわよ」
その声に清人はゆっくりと顔を上げ、向かい側のソファーに座った真澄に、僅かに殺気の籠った視線を向ける。
「真澄さん? 清香を泣かせましたね?」
しかしその程度の恫喝は予想の範囲内だった為、真澄は平然と問い返した。
「それについては全面的に謝るけど、今それについて四の五の言ってる場合じゃ無いんじゃない? 下手したら清香ちゃん、人間不信になりそうよ?」
「……どうすれば良いと言うんですか」
すぐに殺気を消して再び項垂れた清人に、真澄は舌打ちしたい気持ちを懸命に堪える。そこで慎重に聡が清人の横に腰を下ろすと、清香の様子を見に行っていた浩一がリビングに入ってきた。
「駄目だね、内側から鍵がかかってるし、呼び掛けても応えない」
「取り敢えず引っ張り出すしか無いわね」
溜息混じりに浩一が真澄の隣に腰を下ろすと、真澄がきっぱりと言い切った。それに清人が怪訝な視線を向ける。
「どうやってですか?」
「私に任せてくれない? 古事記や日本書紀の時代から、扉の向こうに隠れた大御神を誘い出すのは、女神の役目と決まっているでしょう?」
「……はあ?」
清人と聡は怪訝な顔を向けただけだったが、浩一はきょとんとしながら隣に座る姉に疑問を呈した。
「姉さん? それは天照大神が天の岩戸に隠れた話の事? 姉さんが清香ちゃんの部屋のドアの前で裸踊りとかしても、別に楽しくも何ともないと思うけど」
浩一がそう言った瞬間真澄が勢い良く立ち上がり、両手で浩一のネクタイを掴んだと思うと、首の結び目をギリギリと力任せに締め上げた。
「浩一、あんたこの状況下でそんなくだらない冗談をいえる程度には、図太い神経してたのね。お姉さん全っ然、知らなかったわ」
「悪い、姉さん! 失言でした! 取り消しますから、その手をっ!」
必死に弁明を繰り出し、窒息の危機から脱してゼイゼイと息を整えている浩一を、清人と聡は生温かい目で見やった。そんな三人を見下ろしてから真澄が憤然として歩き出す。
「全く……、どいつもこいつも使えない男どもね!」
盛大に吐き捨てつつリビングのドアを開けて廊下を進み、清香の部屋のドアの前に立った真澄は、まずは普通に呼びかけてみた。
「清香ちゃん? 真澄だけど、ちょっと話があるから開けて貰えない?」
しかし室内は静まり返っており、相変わらず無反応な為、真澄は先程よりはやや大きめの声で再度呼びかけた。
「さ~や~か~ちゃ~ん。五つ数えるうちに、ここを開けてくれないなら、清香ちゃんがクローゼットの奥に隠してある箱の中身の事を、清人君に洗いざらい教えちゃうわね~?」
リビングのドアの所まで出て来て真澄の様子を窺っていた男達は、(何の事だ?)と首を捻ったが、そんな事はお構いなしに真澄がカウントを始めた。
「じゃあ数えるわよ~。ひとぉ~っつ、ふたぁ~っつ、みいぃ~っつ、よおぉ~」
「真澄さんっ! 何で、どうして“あれ”の事知ってるのっ!?」
「開けてくれてありがとう。お邪魔するわね」
ガチャガチャッと慌ててロックを外す音が聞こえたと思ったら、狼狽しまくった様子の清香がドアを開けて顔を出した。その体を押し戻しつつ、真澄が自分の体を室内に滑り込ませ、素早くドアを閉めて再び施錠する。
「清香!」
「清香さん!」
「お黙り! 大人しくリビングから一歩も出ないで待ってなさい!」
慌ててドアに駆け寄ったものの再び閉め出され、清人と聡は必死の形相で声を張り上げたが、室内から真澄の怒声が投げつけられ、顔色を無くしてリビングへと戻る。その気配をドア越しに窺っていた真澄の背後から、清香の声がかけられた。
「あのっ! 真澄さんっ! どうして“あれ”の事っ!!」
そこで驚きのあまり口をパクパクさせている清香に向き直った真澄は、思わず失笑しながら宥めた。
「ああ、さっきのあれ? ちょっとカマかけてみただけなんだけど。年頃の女の子には家族に見られたくなくて、机の引き出しとか本棚の奥とかに隠してある物があるのはお約束じゃない? 私の勘働きもなかなかのものよね」
「……引っかけられたんですか」
それを聞いてがっくり項垂れた清香に、苦笑しながら真澄が促す。
「せっかくだからその隠している物、見せて貰えない?」
「だだだ駄目です、たとえ真澄さんでも絶対に駄目ぇぇっ!!」
再び狼狽しまくって拒否する清香に、真澄は真顔になって口を開いた。
「それは残念だけどしょうがないわね。その代わりにちょっとお話ししましょうか。清香ちゃんが帰宅してからあった事を聞いたけど……、大変だったわね」
それを聞いた清香は、情けない顔をしながらベッドにポスンと座りつつ項垂れた。
「大変って……、そんな一言で片付けないで下さい。もう頭の中ぐしゃぐしゃで、何も考えられないです。どうしてくれるんですか? 明日から金曜まで、今週は期末試験期間なんですよ?」
「……それは困ったわね」
その切実な訴えに、真澄も思わず眉を顰めつつ清香の横に腰を下ろす。
「駄目だわ、まともに書ける自信なんて全然無い。このままだと単位を落としちゃう……」
そんな事を呻いている清香を眺めてから、真澄は唐突に質問を繰り出した。
「清香ちゃん、就寝予定時刻は?」
「えっと、試験期間中は早寝早起きを鉄則にしてるので、十時には」
戸惑いつつも律義に答えた清香に、真澄はにっこり笑って言い出した。
「まだ四時過ぎだし、九時には寝る支度を始めないといけないとしても、まだ五時間近くあるわ。ダラダラ寝てればあっと言う間に過ぎる時間だけど、それを有効に使えばかなりの事ができるわよ?」
「え、えぇ?」
「少しでもすっきりして、試験に集中したいでしょう?」
「それはそうだけど……」
一体何を言い出すのかと困惑した清香だったが、真澄の意見には同意を示した。そこを真澄が畳み掛ける。
「それなら清香ちゃんが一連の話を聞いた上で、これから何をするべきなのかを考えて、その優先順位を決めるの。そして残り時間で、できるだけそれを片づけるのよ」
「する事の優先順位、ですか……」
促された清香は床を眺めつつ、真剣な顔で悩み始めた。そしてその横で真澄が黙ったまま反応を待つこと十五分程で、清香が結論を出す。
「……真澄さん、やっぱり私はお兄ちゃんが最優先です」
きっぱりと言い切った清香の判断に、真澄は思わず微笑んでしまった。
「でしょうね。次は?」
「老人優先です」
「道義的にもそれが妥当ね」
あまりにも清香らし過ぎる答えに、真澄は噴き出すのを必死に堪えた。そして真顔の清香を促してベッドから立ち上がる。
「じゃあ今日これからの方針が纏まった所で、早速出掛けるわよ? 足は私が提供するわ」
「お願いします」
余計な事は言わなくても清香が何をするつもりなのか十分理解できていた真澄は、そのまま清香を引き連れて部屋を出た。そして清香には玄関でコートを着ている様に言いつけ、自身はリビングに向かう。
そしてドアが開いた気配を察知してソファーから立ち上がっていた男三人に、真澄は怒鳴った。
「ちょっと清香ちゃんと出かけるけど、後を追いかけてくるんじゃないわよ!?」
「は? 一体どこに」
「ちょっと待って下さい!」
「姉さん?」
流石に狼狽と困惑の顔を向けて来た面々を、真澄が一喝する。
「清人君、浩一! 私が良いと言うまで、絶対に聡君の手を離すんじゃないわよ? そいつをこの家から一歩でも出したら、承知しませんからね!!」
「え? 真澄さん、何なんですかそれはっ! ……ちょっと! 何するんですか、兄さん! 浩一さんまで!」
真澄が指示した途端二人に拘束されたらしい聡の叫びを背中に受けながら、真澄は玄関へと急ぎ、既に身支度を終えていた清香に小さく頷いた。
「下に家の車を待たせてあるの。先方の住所は分かっている?」
「はい、大丈夫です」
「じゃあ急ぎましょう」
そう言葉を交わしてから、真澄は掛けていたコート引っ掴み、清香と共に玄関から飛び出して行ったのだった。
まだまだ続きます。(汗)