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第27話 アップダウン・バレンタイン

 二月に入って寒さも一段と厳しくなってきた頃、一限目の講義が終了して次の教室へと向かいながら、朋美は並んで歩く清香にさり気なく話しかけた。

「ねえ、清香。今年のバレンタインはどうするの? 勿論聡さんにあげるんだよね、手作りチョコ」

「いつも通りお兄ちゃんには作るけど……、聡さんには渡そうか渡さないか迷ってるの」

 本気で悩んでいるらしい口振りに、朋美は驚いて足を止めた。


「はぁ!? ちょっと待って! 付き合い出して初めてのバレンタインでしょ? ここは気合いを入れて、手作りチョコを渡すところじゃないの!?」

「だって、私、相当料理の腕前が無いと思われる顔みたいで」

「……ごめん、私にも分かる様に話してくれる?」

 がっくりとうなだれながら言われた台詞の意味が分からず、朋美は清香に説明を求めた。すると顔をあげた清香が、真顔で事情を語り始める。


「だって、今まで五人に手作りチョコを渡した事があるんだけど、そのうち二人に受け取り拒否されたの」

「何それ」

 詳細を聞かなくてもそこはかとなくその理由が察せられ、その時の清香の心境を思って、朋美は僅かに顔を引き攣らせた。そしてそのまま清香の説明が続く。


「そして他の三人は貰ってくれたけど、当日中に一人、翌日二人に『やっぱり貰えない』って真っ青な顔で返されて。開封もしないそのままって、私の作った物を食べる気にならないって事だよね……」

 言うだけ言って更に落ち込んだ様子を見せる清香に、朋美は流石に清人に対する怒りが湧き上がった。


(清人さんっ! あんた何て事してくれたんですか!? しっかり清香のトラウマになっちゃってるじゃないですか!!)

 恐らく過去に手段を選ばず、相手にチョコを突き返させたであろう清人を、胸中でひとしきり罵ってから朋美はある決意をして口を開いた。


「……清香、今年はやっぱり作るべきよ」

「そうかな? お兄ちゃんは私の作った物は何でも喜んでくれるけど、聡さんは迷惑に思わないかな?」

 自信なげに問い掛けてくる清香に、朋美は溜め息を吐きそうになるのを堪えながら言い聞かせ始めた。


「あのね、私が今までそんな話を聞いた事が無かったって事は、小中時代の話でしょ?」

「うん、まあ……、そうだけど」

 素直に頷いた清香に、朋美はそのまま畳み掛ける。

「そんなお子様時代の、所謂ガキの言動に未だに引きずられてどうするの。料理が下手そうな外見云々の問題じゃ無くて、大方周りの連中にチョコを貰った事を冷やかされて、恥ずかしくなって発作的に返したとかそんなところよ」

「そうなのかな?」

 まだ疑わしい顔をしている清香に、朋美は大きく頷いてみせた。


「実際清香の料理を食べて腕前を知ってる私が保証するから、何も心配要らないわ。聡さん絶対喜ぶから、自信持って作ってあげなさいって!」

「そうかな……、朋美がそう言うなら、今年は二人分作ろうかな?」

「悪いこと言わないからそうしなさい」

「うん、ありがとう朋美」

 漸く明るいいつも通りの笑顔に戻った清香と共に、朋美は次の教室に向かって再び歩き始めたが、次の休憩時間、適当な理由を述べて清香から離れた朋美は、携帯である人物に連絡を取った。


「……もしもし、真澄さんですか? 朋美です。今大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫よ。頼んだ件、どうなったかしら?」

 以前から清香の周りの人間関係についての情報源が絶対にいる筈と確信していた真澄は、清香から朋美の存在を聞き出した段階で彼女がそれだと目星を付けていた。しかし大人しく清人の指示に従っているからには、彼女なりの事情があると察してこれまで静観していたのだが、今回は敢えて清香を介さずに連絡を取ってみて、動揺する彼女に事情を話しささやかな協力を要請してみたのだった。

 すると案の定、朋美は憤慨しきった声を返してきた。


「チョコを作って渡す様に誘導しました。今回だけは全面的に真澄さんの意見に賛成です。以前から誰にもチョコを渡さないのは、清人さん以外に興味がある人が居ないからだと思ってましたが、まさか自分が料理下手顔かもと思い悩んでるとは思ってませんでしたよ。何妹のトラウマになる様な事をしくさってるんですか、あの人はっ!?」

 現状としては清香に近付く男を排除する役目を担わされている朋美だが、基本的に親友思いの彼女が清人に向かって直接言えない分怒りまくって訴えてくる内容を、真澄は黙って聞いてから疲れた様に溜め息を吐いた。


「……本当に、普段冷静な人間が見境無くなると手に負えないっていう実例ね。協力ありがとう、朋美さん」

「どういたしまして。今回のこれは清香にバラした訳では無いし、清人さんとの契約の範囲外の事ですから」

 きっぱり言い切った朋美に、真澄はつい小さな笑いを漏らす。

「今回はお互いの意見が一致して助かったわ。ついでにアフターケアもお願いできる?」

「勿論、この件に関してだけは最後まで面倒見ます。安心して下さい」

 清香へのこれまでの罪滅ぼしの意味でも、朋美の意思は固かった。


 そしてバレンタインを控えた日曜日。朝食を食べながら清人は清香に確認を入れた。

「清香、今日は正彦君と出掛ける予定だったか?」

「ううん、悪いけど正彦さんには昨日急遽断りを入れたの。どうしても今日じゃ無いと空かないって言われたから、そっちを優先しようと思って」

 あっさりと言われた内容に清人の箸の動きが止まり、若干声のトーンが低くなる。


「……じゃあ誰と出掛けるんだ? 小笠原君か?」

 何とか顔を普通の状態に保ちながら、(清香に無理を言って予定を入れさせたのか?)と密かに憤っていると、そこで清香が思いもかけない事を言い出した。

「出掛けないし、午後から来るのは真澄さんよ。昨日言ってなかったかな?」

「は? いや、聞いていないが……、彼女が何をしにここに来るんだ?」

 全く理由が思い当たらなかった清人は当惑して尋ねたが、清香の答えを聞いて更に驚愕の声を上げた。


「バレンタインのチョコを作りによ」

「はあぁ!?」

 驚きの声を出しただけでは足りず、無意識のうちに箸を取り落としてしまった清人に、清香は非難がましい視線を浴びせた。

「何? 別にそんなに驚く事は無いでしょう?」

「……彼女、食べられる物を作れるのか?」

 思わず漏らした内容に、流石に清香が怒りの声を上げた。


「もう! お兄ちゃんまで聡さんと同じ事言わないでよ。幾ら何でも真澄さんに失礼じゃない!」

「彼が何だって?」

「明日出掛けないかと言われて、真澄さんと一緒にチョコを作る約束をしたからと断ったら、少し黙った後『食べられるの? それ』って言ったの。当然叱りつけたわよ、全くもう! キャリアウーマンだからって料理ができないなんて思い込みは、失礼極まりないわ!」

 その時のやり取りと思い出したらしく、怒りを増幅させた清香を眺め、清人は不覚にも心の中で聡の意見に同意してしまった。


(初めてあいつに、親近感らしき物を感じたな)

 そんな風に呆然としていると、清香はまだ怒ったまま清人に宣言した。


「そういう訳だから、お昼過ぎからキッチンは使うからね!」

「ああ、分かったから……」

 そして清人は何となく落ち着かない気分のまま午前中を過ごし、軽く昼食を取って後片付けが済んだ所で、エントランスからの呼び出し音が鳴り響いた。それは予想に違わず真澄からの連絡で、清香がモニター越しにやり取りしてから出迎える為に玄関へと向かう。

 そしてさほど時間がかからずに、大きめの紙袋を抱え、片手にはバッグを提げた真澄が清香と話しながらリビングに現れた。

 

「本当に、今日は無理に押し掛けちゃってごめんなさいね。お邪魔します、清人君」

「こんにちは」

 ソファーに座って新聞を読んでいた清人に、真澄が愛想良く声をかけたが、清人は辛うじて非礼にならない程度に挨拶を返しただけだった。しかしそんな態度を気にもせず、ダイニングテーブルの上に真澄が持参したチョコの材料らしき物を、女二人は袋から次々取り出しながら話を続ける。


「うちは一向に構いませんから良いですよ、真澄さん。でも話を聞いた事無かったんですけど、毎年チョコを作ってたんですか?」

「今年は偶々ね。ちょっとあげたくなった人が居たから、作ってみるのも良いかなって」

 その真澄の言葉に清人は新聞を捲る手の動きを止め、清香は期待に目を輝かせた。


「へぇ? どんな人ですか? 職場の人とか?」

「あら、それなら手作りなんかしないわよ。既製品を買うわ。あ、でもよくよく考えてみれば、私義理チョコの類も渡した事無かったわね。買いに行く時間とお金の無駄だと思ってたし」

 小さく笑いを零しながら真澄が答えると、清香が尚も答えをねだった。


「ええ? それなら益々どんな人か気になるな~」

「それは内緒。だけどいざ作ろうとしたら、家のシェフが『厨房を破壊しないで下さい!』って断固として使用拒否するんだもの。ふざけてるわよね」

 手の動きを止めないまま憤慨してみせる真澄に、清香は僅かに顔を強張らせて慎重に尋ねてみた。


「あの……、真澄さん。どうしてその方は真澄さんが厨房に入るのをそんなに嫌がるんですか?」

「真顔で『危険過ぎる』って言うのよね」

「まあ、確かに危険と言えば危険かもしれませんけど……。真澄さん、以前火傷でもした事あるんですか?」

「いいえ、全然。ちょっと手を切った事がある位よ。それに以前に家族に問題視されたのは、ちょっと炎が燃え上がって火事になりかけて、何かの弾みでオーブンが爆発して、ちょっと手が滑って包丁が飛んだ時偶々シェフが水を飲みに来て、鼻先にそれが刺さった事位だし。年を取って心配性になったみたい」

 真顔で淡々とそう述べた真澄に、清香と清人は無言になり、心の中で突っ込みを入れた。


(それじゃあ問題視されなかった事とかも、色々あったのかしら?)

(それなら以前のあの特製ジュースとやらのレシピは、どうやって考えたんだ?)

 そんな動揺している兄妹の心境など推し量る筈も無く、真澄は明るく清香に向かって声をかけた。


「さあ、清香ちゃんの指示通り材料は揃えて来たわよ。指導宜しく、清香ちゃん」

「う、うん。任せて」

 一応笑顔を浮かべていた清香だったが、心なしかその顔が微妙に強張っているのを見て取った清人が、ソファーから立ち上がりつつ恐る恐る口を挟んだ。


「……清香? 一応俺も見ているか?」

 しかしここで顔付きを険しくした清香が振り返り、清人にきつく言い聞かせる。


「一緒にお兄ちゃんにあげるチョコも作るんだから、見ていたら駄目でしょう!? 毎年貰った時のお楽しみにしてるんだから」

「いや、しかし」

「締切が近いから、今日は頑張るって言ってたじゃない。ほら仕事仕事!」

 尚も言いかけた清人に清香は走り寄り、両手で仕事部屋の方へと押しやった。それで清人は説得を諦め、大人しくリビングを出て行きながら一言付け加える。


「それじゃあ、気をつけて。何かあったらすぐ呼ぶんだぞ?」

「分かってる」

 力強く頷いた清香に一抹の不安を覚えながらも清人は大人しく出て行き、自身の仕事部屋へと入った。そして真っすぐ机に向かってやりかけの原稿に再び手を付け始めたのだが、十分も経たないうちに両手で頭を抱えて音を上げる。


「……勘弁してくれ。気になって仕事になるわけないだろうが」

 しかしそんな愚痴を零しても締め切りが待ってくれる筈も無く、五時近くになってから清人は漸く何とか仕事に一区切りつけ、立ちあがって重い溜息と共に仕事部屋から出て行った。

 そしてキッチンに入ると、カウンターの向こうのダイニングテーブルで、真澄と清香が何やら動かしている手元を見ながら、語り合っているのが見える。


「……それで、ここにこれを通して、捻って? そのままこっちの方向に引っ張って纏めるの」

「こう、かな? ……うん、上手くできた!」

「綺麗にできたわね。早速使えるわよ?」

「ありがとう真澄さん。……あれ? お兄ちゃん。休憩?」

 人の気配を感じたらしい清香が振り向いて声をかけてきた為、清人は曖昧な頷きを返した。


「ああ、何か飲もうかと思って……」

 そうして清人が黙ったまま清香が手にしている物に目をやると、それを察した清香が嬉しそうにそれを差し出してみせる。

「チョコを冷蔵庫に入れてからお茶にして、その後真澄さんにリボンフラワーの作り方を教えて貰ってたの。可愛いのができたでしょ?」

「ああ、そうだな……」

 サテンのリボンとビーズを束ねて作ったらしい、小さなコサージュの様に見えるそれを、思わず清人は凝視した。


「わざわざ持って来て頂いたんですか? すみませんでした、真澄さん」

「余り物をついでに持って来ただけだから、気にしないで」

 そう言いながら、真澄は既にラッピングされている手のひらに乗るサイズの、しかし結構深さのある二つの箱に手早くリボンをかけ、更に結び目の所に先ほど清香と作っていた物を飾りつける。

「さてと、これで完成」

「うわ~、素敵。売り物みたい、真澄さん」

 その出来映えに思わず誉め言葉を口にした清香に、真澄もにっこり笑ってから持参した袋をごそごそと漁った。そして目的の物を引っ張り出す。


「ありがとう。じゃあ最後の仕上げに、清香ちゃんにこれをあげるわ」

「何ですか? これ」

 一見何の変哲もない保冷バッグの様な、銀色で僅かにモコモコしている袋状のそれを、清香は不思議そうに見つめた。すると真澄は仕上げたばかりの箱を、その袋の中に入れながら説明を始める。


「持ち歩く間にせっかくのデコレーションが崩れたりしたら勿体無いでしょう? これは今度うちで取り扱う新製品なの。ここの横のラインを見ていて?」

「ここですか?」

 箱を入れて直立している袋の縁から縁へ横に延びている線を清香が見やると、真澄は左手で袋の左縁を押さえ、右手で右端に付いていた何かのラベルを勢い良く引っ張ると、それは繊維状のものを引き出しながら外れた。そして十秒程してから清香に促す。


「ほら、どうなったのか分かる?」

「え? あ、凄い! 何もしてないのに線の所で密着してる! 不思議」

「凄いでしょ。専用の圧着機とか熱で溶着させないで、出先で手軽に密閉できるの。清香ちゃんを驚かせたくて持ってきちゃった。チョコを入れて保管運搬するのに使ってみて」

「うわ~、面白そう! 早速使ってみます」

 ウキウキと清香がそれを受け取ると、真澄が手早く荷物を纏めた。


「長々とお邪魔しちゃ悪いし、そろそろ失礼するわね。迎えが来る頃だし」

 そこで唐突に携帯の着信音が鳴り響き、真澄が自分の物をバッグから引っ張り出して時間を確認しつつ、苦笑いで応答した。


「五時ジャスト、さすがね。今降りるわ」

 そして再び携帯をしまい込んでから、清香とキッチンでお茶を煎れ始めた清人に向かって声をかけた。

「下に車が来てるから失礼するわ。お邪魔しました」

 そして下まで送ると言った清香を、真澄は玄関での見送りで押し止めて去って行き、清香はすぐにリビングに戻って来た。


「もう少ししたら、夕飯を作り始めるから待っててね」

「それは構わないが……、流しも綺麗に片付いているし、終わったのか?」

「うん」

「そうか」

 そこで何やら言いたげな清人の気配を察したのか、清香がボソッと言い出した。


「……ねえ、お兄ちゃん、柏木のおじさんのお家ってお金持ちなんだよね? 専属の料理人だっているみたいだし」

「そうだな。それが?」

「真澄さんが厨房に立ち入り禁止の理由……、何となく分かった気がする」

 視線を逸らしながら言いにくそうに述べた清香から、清人はキッチン全体に視線を移して眺めやった。そして平然と言い聞かせる。


「まだマシな方だと思うぞ? 短時間で綺麗に片付く程度なんだから」

「え?」

 当惑した清香に、清人は淡々とある事実を告げた。


「香澄さんも深窓育ちだったから、結婚当初家事は壊滅的だったからな。父さんは仕事で忙しかったし、必要に迫られて俺が一通り教えたんだ。……俺はあれで“忍耐”という言葉の、本当の意味を知った」

「……………………」

 清人が真顔でそう告げると、キッチンに不気味な沈黙が漂った。

 清香としては(確かにあまり手際良く無かったけど、あれでもマシになった方なんだ)という驚愕や、(十歳の義理の息子に家事を指導される継母ってどうなの?)という疑問などが頭の中で渦巻いていたが、母と真澄の名誉の為にも取り敢えずこの話題はここで終わりにしようと気持ちを切り替える。


「えっと……、それじゃあ、夕飯の支度の前に、チョコの仕上げだけやってしまおうかな」

 そんな事をわざとらしく口にしながら、清香は冷蔵庫に向かった。清人もそれ以上話を蒸し返す事はせず、無言のまま茶を淹れてソファーへと向かう。

 そして清香が冷蔵庫から取り出したトリュフチョコを、ダイニングテーブルで一粒ずつ丁寧に箱詰めし、慎重に包装紙で包みリボンと先ほどのリボンフラワーを付けるのをお茶を飲みながら何気なく眺めていた清人は、清香が真澄から貰った銀色の袋にその箱を入れた所で、漸く真澄の今回の訪問の意図を悟った。


(しまった……。あんな特殊な物で密封されたら、小細工なんかできないじゃないか!)

 真澄が清香にも正確な目的を悟らせず、聡へのチョコへの手出しを完璧に封じてみせた事に気付いて、清人は小さく歯軋りした。


(あいつの肩を持つ気ですか……。それ以前に、それだけの為にわざわざチョコを作る話を出したんですか……)

 清人が、真澄に対する怒りに駆られているなど夢にも思わない清香は、楽しそうに清人を振り返った。


「見てお兄ちゃん! 本当に一瞬でくっついたみたい。面白~い!」

「……そうだな。良い物を貰ったな」

「うん! これって緩衝材にもなってるし。せっかく作ったリボンフラワーを崩さないで見て貰えるわね」

 そんな風に上機嫌で語る清香を、清人は苦々しい思いで見詰めていた。


 そして迎えた二月十四日。予め電話とメールのやり取りで聡が抜け出しやすい時間帯を確認した清香は、夕刻に小笠原物産本社ビルの前に朋美と共にやって来た。


「……ねえ、朋美。わざわざ会社まで押し掛ける必要ってあるの? 何だかストーカーっぽくない?」

「現に付き合ってるんだから、ストーカーなんかじゃないでしょ。今更何言ってんのよ!」

「だって……」

 そんな押し問答をしていると、社屋から「清香さん!」と声をかけながら、聡が小走りにやって来た。そして清香の所に来た聡は、横の朋美の姿を認めて僅かに顔を引き攣らせるが、いたって普通の口調で挨拶する。


「清香さんお待たせ。やあ、緒方さんも久し振りだね」

「はい、大学祭以来ですね。……ほら、清香。グズグズしない! 相手は仕事中なんだから」

「う、うん」

 ドンッと背中を押されて聡の方に一歩足を踏み出した清香は、幾分心配な顔で持っていた小さめの紙袋を彼に向かって差し出した。


「あの、聡さん。電話でお話した様にお仕事中に呼び出して申し訳無かったんですが、チョコを持って来たので良かったら貰って頂けませんか?」

 それに聡は僅かに怪訝な顔をして見せた。

「えっと……、本当にくれるの? 先生に何か言われなかった?」

「何かって……、何をですか?」

 益々清香が不安そうな顔になってきたのに気付いた為、聡は慌てて笑顔で手を伸ばし、その紙袋を受け取った。


「いや、何でもないんだ。ありがとう頂くよ。それにわざわざ会社まで来て貰って悪かったね。今度埋め合わせするからね?」

 上機嫌で聡が受け取ってくれた為、清香も安堵して漸く表情を緩めた。

「そんな事気にしないで下さい。聡さんから誘われても色々あって断ってる事が多いし……、今度はなるべく聡さんの方の都合に合わせますね?」

「そう言って貰えただけで嬉しいな。それじゃあ今度の週末にでも」

 満面の笑顔で早速清香に誘いの言葉をかけようとした聡だったが、ここで静観していた朋美が容赦なく割り込んだ。  


「じゃあそういう事ですので、お邪魔様でした! 失礼します! ほら、帰るわよ、清香」

 むんずと清香の腕を掴み、最寄駅に向かって歩き出した朋美に、清香は慌てて聡に別れの言葉を告げる。


「え? あ、そ、それじゃあ、聡さん、失礼します」

「ああ、また連絡するから」

 半ば強引に朋美に引き摺られて帰って行った清香を呆然と見送ってから、聡は苦笑いして社屋ビル内へと戻った。そしてエレベーターに乗り込んで、一人きりの空間で手提げ袋を覗き込みながら嬉しそうに独り言を漏らす。


「うん、元気が出てきたな。……しかし、この保冷バッグの様な物はなんだ? 職場に持って来るから中身が見えない様に、気を遣ってくれたのかな?」

 そんな事を呟きながら、聡は顔を引き締めつつ部屋へと戻ったが、何故か戻った途端部屋中の人間の物言いたげな視線を浴びて僅かに怯んだ。更に自分の机の所に、同じ課の主だった面々が集まっているのを見て困惑する。


「あの、どうかしたんですか? 皆集まって」

 不思議に思いながらも声をかけたが、上司達は揃って黙り込んでおり、恐る恐る隣の席から高橋が説明してきた。


「角谷、ついさっき、お前宛てに社に届いた宅配便を、総務の子が届けに来たんだが……」

「荷物? 最近会社宛てで何か頼んだ記憶は無いんだが」

 怪訝に思いながら人垣を掻き分けて机を見ると、確かに小さいダンボール箱が乗せられているのが目に入った。しかし心当たりの無かった聡は首を傾げる。

 そこで高橋がもの凄く言い難そうに、聡に注意を促した。


「その伝票の……、送り主欄の名前、見てみろ」

「名前……、って! はあ!?」

 そこに真澄の名前と柏木産業本社ビル所在地の住所がしっかりと記されていた為、聡が驚きの声を上げた。そして呆然とする間もなく、背後からおどろおどろしい声が響く。


「角谷……、どうしてここに“あの”柏木真澄の名前が書かれているのか、その理由を教えて貰えないか?」

 その声が課長の杉野の声以外ではありえない為、聡は蒼白になりつつ慌てて振り返った。 


「いえっ、課長! 俺にも何が何だかさっぱり」

「しかも品名が“チョコ”だと? ふざけるなよ角谷っ! まさか一連のあれも、お前が全て漏らしたんじゃあるまいな!?」

 聡に掴みかかりながら絶叫した杉野に、聡は必死になって弁解し、周囲の者が慌てて引き剥がしにかかる。


「課長! それは誤解です! これは何かの間違いか嫌がらせでっ!!」

「ちょっと落ち着いて下さい、課長!」

「冷静に話し合いましょう!!」

「角谷! 一体どういう事なんだ、これはっ!」

 その日から聡は暫くの間、職場で冷たい視線に晒される羽目に陥ったのだった。


「……はい、柏木」

「何て事をしてくれたんですか! あなたって人はっ!!」

 出先から帰社したのとほぼ同時に鳴り響いた携帯に応答した真澄は、いきなり耳元で叫ばれた為反射的に携帯を離しながら顔を顰め、次いで怒りの声を上げた相手が分かって嬉しそうに顔を緩めた。


「ああ、ちゃんと届いたのね」

「届いたのね、じゃありません! 運悪く偶々席を外した時に机に持って来られて、上司や同僚に見咎められて、えらい目に合わされましたよ! あなたは俺に何か恨みでもあるんですかっ!?」

 憤慨しきった訴えに微塵も恐縮する事無く、飄々と答える真澄。


「特に恨みは無いけど……、今回清香ちゃんのチョコに何も仕込まれたりせず、安心して食べられるのは私のおかげなのよ? 感謝される事はあれ、文句を言われる筋合いは無いわね。それ位の嫌がらせ、甘んじて受けなさい」

「どうしてですか!」

「それが私の筋の通し方だからよ。言ったでしょ? 例の件を引き受ける時に、あなたに借りは無いしどちらかに一方的に肩入れはしないって」

 そんな主張を繰り出した真澄に、聡は一瞬黙りこんでから慎重に問いかけた。


「……ちょっと待って下さい。つまり、兄さんからの嫌がらせを受けない代わりに、あなたからのそれを受けろと?」

「当たり前じゃない」

「どうしてそうなるんですか!? 全然意味が分かりません!」

「分からなくて良いわよ。それじゃあね」

 電話の向こうでまだ何やら喚きかけた様だったが、真澄はそれを無視して通話を終わらせた。そして苦笑しながら携帯をしまおうとする。


「よっぽど職場で絞られたらしいわね。まあ、若い頃の苦労は買ってでもしろって言うし、お姉様からの愛の鞭だとでも思って」

 そこで再び携帯が鳴り出し、真澄が(まだ文句を言い足りないわけ?)と思いながらディスプレイを確認すると、別な人物からの着信だった。それを認めて思わず小さな笑みを零す。

「あら、重なるわね」

 そしてすぐに応答ボタンを押した。


「もしもし?」

「佐竹ですが……、今大丈夫ですか? 真澄さん」

「ええ、平気よ。出先から戻って部屋に移動中なの」

 そう言いながら真澄は廊下を歩き、付き当たりの窓の所にまでやってきた。すると清人が電話越しに、困惑した声を伝えてくる。


「さっき自宅に届いた物があるんですが……、何ですか? これは」

「あら、まだ開けてないの?」

「開封して、包装も解いたから電話したんです」

「それならご覧の通り、ブラウニーだけど。それが何か?」

 淡々と告げる真澄に、清人がどこか疲れた様な声を出した。


「……すみません、俺はこれを送りつけた意図を知りたいんですが」

「だって清香ちゃんがトリュフを作るって言うから、違うチョコ菓子の方が良いかと」

 笑いを堪えながら伝えた真澄に、清人が恨みがましく言ってくる。

「真澄さん、何かの嫌がらせですか?」

「嫌ね、邪推しないでくれる? 最近随分疲れてそうだから、甘い物でも取った方が良いんじゃないかと思っただけよ。念の為清香ちゃんにも味見して貰ったし、心配いらないわ」

「それはどうも、ありがとうございます」

 とうとう我慢できず小さく笑いながら断言した真澄に、清人も苦笑いの風情で答えた。ここで真澄が爆弾発言をする。


「それで、もう一つは聡君にあげたから」

「……は? あいつに、ですか? どうしてそんな事を」

 途端に困惑と怒りが入り混じった声を出した清人に、真澄は飄々と言ってのけた。

「職場にね。送り主欄は私の名前で、品名はチョコと記入して今日送りつけたの。ついさっき熱烈な“お礼”の電話を貰ったわ」

 真澄のその台詞の意味を少しの間黙って吟味した清人は、小さく笑ってから呆れた様な声を出した。


「…………随分、意地の悪い事をしますね」

 それを聞いて、再び楽しそうに言い出す真澄。

「若い子にはあまり嫌われたく無いけど、この場合仕方が無いわ。そういう訳で、彼は結構周りから絞られたみたいだから、清香ちゃんがチョコを渡して拗ねてるのは分かるけど、機嫌を直して大人しくそれと清香ちゃんのチョコを食べてなさい」

「どこまで命令する気ですか」

「せっかく清香ちゃんがあなたに作ったのに、『あいつと同じ物なんて』って苛つかないで、美味しく味わって食べて欲しいからよ。分かった?」

 押しつけがましく言った台詞にも清人は気を悪くする風も無く、大人しく了承の言葉を返した。


「分かりました」

「それなら良いわ。それじゃ失礼するわね」

 そこで真澄は会話を終わらせ、耳から携帯を離してそのディスプレイを見下ろした。


「全く、世話が焼ける事……」

 呆れた様に溜息を吐いてから真澄は携帯をしまい込み、自分のオフィスへと戻って行った。

 そして清人は清人で携帯を耳から離し、目の前のテーブルに置かれた小さな箱の中身を見詰める。


「なるほど。これがあの人流の筋の通し方、と言うわけか……」

 セロファン紙に一つずつ包まれたブラウニーを、清人が真顔で一つ摘まみ上げ、次の瞬間苦笑いの表情になった。

「全く……、完全に裏をかかれたな。まあ、偶にはこんなのも良いか」

 そんな事を呟きながら何となくそれを掌で転がしていると、清香が帰宅してリビングに姿を現した。


「ただいま。あれ? それって真澄さんが作ったやつだよね?」

「ああ、最近疲れ気味みたいだからこれを食べて英気を養え、だそうだ」

 不思議そうに問われて、清人は小さく肩を竦めながら答える。それを聞いた清香は怪訝な顔をした。


「なんだ、それなら宅配便なんかで送らないで、作った時にそう言って渡せば良いのに、真澄さんったらどうしてそんな事するのかな?」

「あの人にはあの人の考えがあるんだろう」

「まあ、そうだけどね。……でもそうなると、もう一つは誰にあげたんだろう。気になるな~」

 空中に視線を彷徨わせながらそんな事を呟く清香に、清人は失笑しかけながらも何とか笑いを堪えた。


「さあ、誰だろうな。清香、悪いが珈琲を淹れてくれるか?」

「うん、ちょっと待ってて。私のチョコも今渡すね」

「ああ、嬉しいな」

 荷物を置き、笑顔でキッチンに向かった清香の背から視線を手の中に戻した清人は、満足そうにブラウニーを包むセロファン紙を剥がし始めた。




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