『近いですわ!』と怒る公爵令嬢、三歩離れるとしょんぼりする
「近いですわ! 不敬ですわよ、スタンダルト様!」
王宮の長い回廊に、鈴を転がしたような──と言えば聞こえはいいが、実際には鼓膜にキンキン響く怒声が響き渡った。
声を上げたのは、この国の至宝と名高いララフィール・フォン・メルビス公爵令嬢。
そして、その不敬を働いているとされるのが、俺、スタンダルト・ヴァレンタイン王宮騎士である。
「はぁ……。お嬢様、落ち着いてください。俺はあなたの護衛騎士です。守るべき対象から三メートルも離れて歩く騎士がどこにいますか」
「言い訳は見苦しいですわ! 先程から私の肩と貴方の腕の間隔、わずか三十センチしかありませんでしたわよ! 破廉恥! 密着! 婚期が遅れたらどうしてくれるんですの!」
(三十センチで密着なら、この世のダンスパーティーはすべて乱交パーティーになってしまうじゃないか)
彼女は真っ赤な顔をして、扇子をビシィ! と俺に突きつけてくる。金髪縦ロールが怒りでプルプルと震えていた。
「わかりましたよ。そんなに嫌なら離れます」
俺はやれやれと首を振ると、彼女の要求通り、ザッ、ザッ、ザッ、と大きな歩幅で正確に三歩分、距離を取った。
「…………」
すると、どうだろう。さっきまで「不敬!」「破廉恥!」と噴火していたララフィール嬢の顔から、みるみるうちに血色が引いていった。
扇子を握る手は力なく下ろされ、キラキラと輝いていた瞳は、一瞬で捨てられた子犬のような湿り気を帯びる。
「…………スタンダルト様」
「はい、なんでしょう」
「……そんなに、離れなくても、よろしいのではなくて?」
「えぇ……」
(さっきまで「近いですわ!」と叫んでいたのはどこのどいつだ!)
彼女は俯き、自分の靴の先を見つめながら、消え入りそうな声で呟く。
「……三歩は、遠すぎますわ。まるで、私に無関心だと言われているようですもの……。嫌いですわ、そんな冷たい騎士……(しゅん)……」
目に見える。彼女の頭の上に、どよーんとした紫色の暗雲が漂っているのが。
これがこの公爵令嬢、ララフィールの仕様であった。
◇ ◇ ◇
「ララフィール様、いいですか。一回整理しましょう」
俺は彼女の隣──十五センチの距離──に戻り、ため息混じりに語りかけた。戻った瞬間、彼女の顔にパッと花が咲いたような赤みが戻ったのは無視する。
「貴女は私が近づくと怒る。離れるとしょんぼりする。これ、護衛としてどうすれば正解なんですか?」
「そんなの、決まってますわ! 『怒られない程度に近く、寂しくならない程度に遠くない距離』を常にキープなさいませ!」
「無理難題すぎる! 測量士でも連れて歩けってんですか」
「貴方はメルビス公爵家・領土防衛騎士団の中でも次期団長候補と言われるエリートでしょう? それくらい、愛と根性で察しなさいな!」
「騎士の教本に、【令嬢の乙女心を察する法】なんて項目はありませんでしたね。……というか、そもそも何なんですか、その『近いですわ!』っていうのは。本気で嫌がってるなら、俺は今すぐ配置換えを願い出ますが」
そう真顔で言うと、ララフィール嬢は「ヒッ!」と短い悲鳴を上げて、私の袖をギュッと掴んだ。
「だ、ダメですわ! 配置換えなんて許しません! スタンダルト様がいないと、私は……私は、夜も眠れず、朝は希望を失い、昼食のフルコースも三皿目くらいで喉を通らなくなってしまいますわ!」
「結構食えてるな、おい」
「いいですか、スタンダルト様。私が『近いですわ!』と言うのは、つまり、その……貴方の体温が伝わってきて、心臓の音がうるさくて、自分が自分じゃなくなるような気がして、恥ずかしいから言っているだけですのよ!」
「…………」
「……あ」
ララフィール嬢は自分で言ってから、顔を茹で上がったタコのように真っ赤に染めた。
(なるほど。つまりは単なる照れ隠しのツンデレというやつか)
だが、そのツンの威力がデカすぎて、こちらとしては精神をゴリゴリ削られるのだ。
「……要するに、照れてるだけだと?」
「……う、うるさいですわ! 今のは忘れなさい! 忘れないと極刑ですわよ!」
「はいはい、極刑極刑。じゃあ、また三歩離れますね」
「待って!! 行かないで!! 寂しい!! 死んでしまいますわ!!」
「ハムスターか貴女は!」
◇ ◇ ◇
そんなコントのような日々を送っていたある日。メルビス公爵邸の庭園で、事件は起きた。
他国からの賓客を招いた園遊会。護衛として彼女の背後に控えていた私だったが、やはりララフィール嬢はいつも通りだった。
「近いですわ、スタンダルト様! 賓客の前ですのよ、少しは弁えなさい!」
「はいはい、失礼しました」
俺は慣れた手つきで、スッと三歩離れる。すると案の定、ララフィール嬢の背中から絶望という文字が立ち昇った。
彼女は他国の王子と挨拶を交わしながらも、心ここにあらず。視線はチラチラと斜め後ろの俺へ。
(あぁ……スタンダルト様があんなに遠くに……。もう私のことなんてどうでもいいんですわ……。私、今日でお屋敷の地下牢に引きこもりますわ……)
心の声が漏れ出しているように見えた。そんな時、庭園の植え込みから黒い影が飛び出した。
「ララフィール・フォン・メルビス! 命をもらう!」
暴漢だ。手には魔力を帯びた短剣。
距離は──俺から見て、ララフィール嬢まで三歩。暴漢まで二歩。
「ララフィール様!」
俺が踏み込んだ瞬間──ララフィール嬢は恐怖で身を強まらせた……のではなく。
「──好機ですわ!!」
「……えっ!?」
彼女はあろうことか、暴漢に向かって自ら突っ込んでいったのである。
いや──正確には暴漢を避ける方向ではなく俺の方向へ。
結果、何が起きたか。彼女は暴漢の短剣を紙一重──ドレスの裾を少し掠めた程度──で回避し、勢い余って俺の胸の中にフルスロットルで飛び込んできたのだ。
「きゃっ! 怖かったですわ、スタンダルト様ぁ!」
「……いや、今、自分から来ましたよね? 物理法則無視したレベルの加速で」
「何をおっしゃるの! 私、怖くて足がもつれてしまっただけですわ! さあ、早くこの不届き者を捕らえてくださいませ! その間、私は貴方の胸の中で震えておりますから!」
「ちゃっかりしてんな、おい!」
私は片手で彼女を抱き留めたまま、もう片方の手で暴漢の腕を捻り上げ、取り押さえた。周囲の騎士たちが駆けつけ、暴漢を連行していく。
◇ ◇ ◇
事態が収束した後。庭園の隅で、俺はララフィール嬢と向かい合っていた。
彼女はまだ俺のマントをギュッと握りしめている。
「……お嬢様、もう安全ですよ。離れてください」
「嫌ですわ。三歩離れると死ぬ病気にかかりましたもの」
「そんな便利な病気があるか。さっきまで『近いですわ!』って怒ってたでしょうが」
ララフィール嬢は上目遣いで私を見上げて、少しだけ、本当に少しだけ、しおらしく言った。
「……さっきの暴漢を見て、思いましたの。もし、スタンダルト様が三歩離れた瞬間に私がいなくなってしまったら、文句を言う相手もいなくなってしまうのだわ、って」
「……。それは、俺だって困ります。貴女に文句を言われない毎日は、きっと退屈すぎるでしょうから」
俺が少しだけ声を和らげると、ララフィール嬢は嬉しそうに頬を緩めた。だが、そこはやはりメルビス公爵令嬢である。
「ですから! スタンダルト様、今日から距離を改定いたしますわ!」
「改定?」
「はい。今までは三十センチで『不敬』でしたが、これからは『十センチ』までは許可して差し上げます! ただし、五センチになったら不敬罪で訴えますからね!」
「……間隔、狭すぎませんかね? 誤差の範囲でしょう、それ」
「その五センチの攻防が乙女心というものですわ! さあ、参りましょう。次は私の部屋でティータイムですわ。もちろん、護衛として『十センチ隣』に座ることを許可しますわよ!」
「それは護衛じゃなくてただの相席……。はぁ、わかりましたよ」
俺は彼女の歩調に合わせ、きっちり十センチの間隔を空けて歩き出す。すると、ララフィール嬢は満足げに微笑み、ボソッと呟いた。
「……本当は、ゼロセンチでもいいんですのよ?」
「聞こえてますよ」
「近いですわ! 地獄耳ですわ! 不敬ですわーーーっ!!」
「……で、三歩離れましょうか?」
「……ごめんなさい、今のナシですわ。そのまま、そこにいてくださいまし」
赤くなって怒ったり、青くなってしょんぼりしたり──。
忙しいお嬢様を隣に、俺は、この距離感を守るのが、最強の魔物を倒すより難しいな、と心地よい諦めと共に笑った。
おしまい
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