02*家族
「こんにちは」
放課後、耕介は病院へ行った。病院と言っても、心理カウンセリングを専門とする精神科である。
病院の中には三つの扉があったが、耕介は迷わず真ん中の扉を開いた。
「や、こんにちは耕介くん」
中には白衣を着た大野がいた。大野遥子、彼の担当の精神科医である。彼女は彼に決して自分の事を先生と呼ばせない。"これはね、診察じゃなくて私と貴方のお話なんだから"。これが大野の持論であった。
「今日は何かあった?」
「あぁ、うちのクラスに転校生が来たよ」
耕介は丸椅子に腰掛けながら言った。
「どんな子なの?」
「女の子でね、転校初日から皆に囲まれてたよ。俺にも話しかけてくれたんだけど、鳴海の方だったから冷たくしちゃってさ…」
周りもそうであったが彼自身も、自分を区別するためにクールな方を鳴海、明るい方を耕介と呼んでいた。
「うん」
いつも大野は頷きながら彼の話を真剣に聞いてくれる。
「そのあと俺が出てきたから、さっきはごめんって鳴海の代わりに謝ったんだけど、あの子すごく困った顔してた」
彼は手に持ったティーカップに目を落とす。紅茶に写る自分の顔。情けない顔だ。
「遥子さん、なんで俺は二人いるんだろう」
「…耕介くんは、自分が鳴海くんか耕介くん、どちらか一人でいいと思うの?」
「…皆混乱してる。皆に迷惑をかけてしまうなら、こんな状態はだめだと思う」
「どっちが鳴海耕介になるべきだと思う?」
「…わかんない。元々の俺はどっちなんだろう、あいつなのかな。俺なのかな。…覚えてないんだよ」
いつからだっけ、俺が二人になったのは。
「私は、このままでも良いと思うわ。だって、どちらも貴方じゃない」
「…だめだよ遥子さん…それじゃ母さんが帰ってこない…葉月が…」
彼が帰ったあと、助手の一人である椎名が大野に声をかけた。
「先生、今の子のカルテ見せてもらってもいいですか。俺、あの子初めてなので」
「ああ、貴方は最近入ったばかりだものね。はい」
大野は椎名に鳴海耕介のカルテを渡した。椎名はそのカルテに目を通しながら呟く。
「冷静沈着で無口な"鳴海"と気さくで明るい"耕介"…。今のはどっちなんですか?」
「さっきのは耕介くんでしょう」
ふうん、と椎名が不服そうな顔をするので大野はなによ、と聞いた。
「今のが"気さくで明るい"子には見えなかったですけどねえ」
「気さくで明るい子だって気持ちが沈む時はあるでしょう」
そうっすかねぇ、と椎名はカルテのページをめくる。大野は、新入りのくせに軽い感じのする椎名にあまり良い印象を持っていなかった。
「…あ、発症時期は不明なんすね」
「そう、発症原因もね。ここに通い始めたのは高1からなんだけど」
「"父親は長期出張中、母親は別居中、妹は生まれつきの病弱"…。うわぁ、カオスな家庭だなぁ」
「こら」
大野は別のカルテで椎名の頭を軽く叩く。
「すんません。でも俺が思うに絶対発症原因はここにありますよ」
先程椎名のした口調で、大野はふうん、と呟いた。
あの時の場面がフラッシュバックする。
『いやよ。私、そんな耕介とは一緒に暮らせない』
…母さんの声だ。
『待てよ、お前出て行くのか。俺が長期出張なのに、子ども二人置いて出て行くのかよ』
…父さん。父さんの声だ。
『もうすぐ耕介は高校生なんだから、二人でも十分やれるわよ。私だめなの。こんな子とは一緒にいたくないわ!』
ずきん。胸が痛む。
葉月の泣き声がする。母さん出て行くなよ、葉月が泣いているじゃないか。
待ってくれよ―…
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「ただいま」
頭が痛い。気分が重かった。
リビングのドアを開けようと中を覗くと、葉月が手紙を読んでいた。何も気付いていないふりをしながらドアを開ける。
葉月が焦って読んでいた手紙を隠したのを、鳴海は見逃さなかった。
「わ、お兄ちゃんお帰りなさい!晩御飯食べるよね?」
「ああ」
たぶん、母さんからだろうな。
鳴海は鞄をソファに投げ捨てながら考えた。
彼のことを異常なまでに毛嫌いしている母親は、対照的に葉月を溺愛していた。葉月は隠しているようだが、母親から数カ月定期にくる葉月宛ての手紙に、彼はとっくに気付いていた。
電話の無機質なベルの音が部屋に響く。
「あ、ごめんお兄ちゃん出て」
あんまり俺のときは出たくないんだけどな、と思いながら鳴海は受話器を上げた。
「もしもし」
『…』
受話器の先からは何も聞こえない。
「あの」
『…耕介か?』
一瞬名前を呼ばれたことにむっとしたが、聞き覚えのある声だった。もしかして
「…父さん?」
「えっお父さん!?」
葉月の嬉しそうな驚いた声が台所から聞こえてきた。
『やっぱり耕介か。久しぶりだなあ。葉月も元気か?』
「あぁ、元気。電話なんて、一体どうしたんだ?」
「お兄ちゃん電話代わってよ!!」
葉月がはしゃぎながらやってきたので、受話器を渡した。
「もしもしお父さん?うん、葉月だよ。元気元気」
葉月はそのまま父と話し込んでいるようなので、鳴海は彼女が用意してくれていた晩御飯のカレーを皿によそっていた。