01*転校生
あの時の僕らは、まだ未熟で、考えが浅はかで、それでも、確かにその時を生きていた。
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彼は心配でならなかった。
「おい葉月、本当に一人で大丈夫なのか」
「さっきから大丈夫だって言ってるでしょ。私もう中学三年だよ?ほら、早く出ないと学校に遅れちゃう」
葉月が静かに咳をする。葉月にとって風邪を引くことぐらい日常茶飯事であったが、それでも可愛い妹が一人家に残るとなれば耕介にとっては心配でいっぱいであった。
「でも」
「さ、行ってらっしゃい!」
「…わかったよ」
耕介は仕方なく足元に置いていた鞄を拾い、部屋を出ようとした。
「そうだ」
「何お兄ちゃん、まだ心配してるの?いい加減にしてよね」
「いや、今日病院の日だからさ、ちょっと帰り遅くなるわ」
そっか今日が病院の日か、と葉月が漏らす。
「わかった。遥子さんによろしくね」
軽く手を振って、耕介は葉月の部屋を出た。
大丈夫、俺は耕介なんだから、きっと皆笑ってくれる。
教室のドアをガラリと音を立てて開ける。さっきまでざわついていたクラスメイトが耕介を見た途端にしんと静まった。耕介は胸がチクリと痛むのを気にしないようにしながら言った。
「みんな、おはよう」
その瞬間クラスメイトは普段通りの顔に戻り、それぞれでさっきまでしていた会話の続きをし始めたり、耕介に挨拶をしたりしてきた。
「こーすけ、おはようー!」
「ねえ耕介くん、宿題やってきたあ?」
ほら大丈夫、耕介には皆が笑ってくれる…。
「ぐっもーにん、こーちゃん!」
後ろから思い切り耕介の背中を叩いてきたのは、親友の阿瀬南だった。
「いってぇ、お前だからそれやめろっつってんだろ、南!」
南はいつも笑顔で、目を細めて笑う。耕介は南の笑顔が好きだった。
「そういや聞きました?鳴海サン。本日我が2-5に転校生が来るらしいですよお」
「ほお、その情報は確かかね、阿瀬クン」
「わたくしの情報網をなめてもらっちゃ困りますねぇ」
「仲良くなれたらいいな」
耕介はそう言いながら、その転校生が自分を奇異の目で見ないような人であることをひたすら祈っていた。そんな耕介の思いも、南は感じていた。
「きっと大丈夫だよ、耕介なら」
「おい南ー、ちょっとこっち来てくれよー」
クラスメイトの呼ぶ声に応えて南はいなくなってしまった。喋る相手もいないし何もすることのない耕介は、自分の机でSHRまでひと眠りすることにした。
そういや葉月…ちゃんとおとなしくしてるかな…。
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チャイムの音がする。SHR開始のチャイムだ。
「なぁ耕介、今日の宿題でさ…」
右隣の水野が話しかけてきた。しかし、そこにいたのはさっきまでの耕介ではなかった。
「…下の名前で呼ぶなっつってんだろ」
目つきがさっきと違って鋭い。水野は、しまった鳴海の方か、と思った。
「ゴメン、鳴海」
「おはよーさーん、SHR始めるぞー」
クラス担任である長居が教室に入ってきた。鳴海はもう少し眠りたかったのに、と思いながら重い頭を上げる。なんだかさっきと違って機嫌が悪くなっていた。
「なーんと、今日は転校生を紹介するぞ。入れ!」
長居に促されて教室に入ってきたのは、栗色の髪の毛が肩あたりまで伸び、目をぱっちり開けた可愛らしい女子であった。
「えっと、桐生薫といいます。親の仕事の都合でこんな変な時期に転校してきました。よろしくお願いします」
そう言って薫はぺこりと頭を下げた。
「じゃあ桐生の席は…鳴海の左隣な!」
なんだこの漫画みたいな展開は、と思うとなんだか馬鹿らしくなって、鳴海はもう一度眠ることにした。
「あ、鳴海っていうのはそこの寝てるアホのことだから!鳴海耕介!」
がははは、とがさつに笑う長居の声。鳴海は、この暑苦しい教師が鬱陶しかった。
がたん、と椅子の動く音がした。おそらく薫が隣の席についたんだろう。
「桐生さん、よろしくねー」
水野のへらへらした声が聞こえた。
薫は瞬く間に人気者になっていった。一般受けするであろうルックスと性格が人気なようで、転校初日にもかかわらず薫の周りにはいつも誰かがいた。それと対照的に、朝と違って機嫌の悪い今の鳴海には、人が自然と距離を置いていた。
四限終わりのチャイムが鳴り、昼休みとなった。鳴海は携帯電話とオーディオプレーヤー、そしてコンビにで買ったパンが入った袋を持って立ち上がった。一人で静かに昼食をとりたい気分だった。
「おい鳴海、一緒に飯食おうぜ」
南は鳴海とは呼ぶが、何にも変わらず接してくれる。そんな南を鳴海は有り難いとは思う。"鳴海のとき"でも南と一緒に昼食をとるときがあったが、今日はそんな気分になれなかった。
「ごめん、今日はそんな気分じゃない」
残念そうにする南の前を通って、鳴海は教室を出ようとした。
「おい南、耕介は良いとして鳴海の時は放っておけよ」
クラスメイトが小さく話す声が聞こえた。
鳴海は屋上へ続く階段のところへ来ていた。
この学校の屋上へ入ることは基本的に禁止されていて、なのでこの階段に人が来ることは少ない。鳴海はこの場所で一人でいることが好きだった。
階段に腰掛けて、まず携帯電話を開いてさっきの授業中に届いていたメールをチェックした。葉月からで、大分良くなっているから心配しないで真面目に勉強してね、といった内容だった。鳴海はふっと笑みをこぼした。彼はこのメールが来てなかったら、葉月に体の調子はどうだとメールをするつもりだったからだ。
適当に葉月へ返事を返し、携帯電話を閉じてパンを食べようとしたときに、彼は前に誰かが立っていることに気付いた。
「…桐生」
「あ、覚えててくれたんだ!」
そう言って転校生はにこりと笑った。裏のなさそうな笑顔ではあったが、今の鳴海にとっては鬱陶しいものでしかなかった。
「ねえ、一人で食べてるの?…隣に座ってもいいかな?」
「断る」
「それじゃ、失礼して」
確かにはっきりと断ったはずなのだが、薫は何も聞いてないようなふうに鳴海の隣へやってきた。
「なら俺がどこか別のところに行くわ」
薫の笑顔を見たくなかったので、鳴海は袋を持って立ち上がった。
「あっ、待ってよ。なる…耕介くん!」
「下の名前で呼ぶな!!」
鳴海の怒鳴り声で、薫の体がびくっと動く。彼はつい怒鳴ってしまった自分に腹立たしさを覚えた。
「…ごめん」
彼はそう言って、その場を去った。
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いつの間にか重い気持ちは晴れていた。教室のドアを開けると、南がそこにいた。
「…お、耕介!」
耕介が入ってきた瞬間体を強張らしたクラスメイトたちも、南の一言で安心したようだった。
「なんだお前、まだ昼飯食べてねえの?」
「ま、ちょっとね」
そう言って耕介は自分の席に座ると、袋を開いてパンをかじり始めた。
一つ目のパンを食べ終わった頃に、薫が教室に帰ってきた。どこ行ってたの、と女子数人が彼女の元へ駆け寄る。彼女は耕介の存在に気付き、少し目をそらした。
「さっきはごめん、桐生。"今の"俺のことは、耕介って呼んで欲しいんだ」
え、と薫は返答に詰まる。さっきは下の名前で呼ぶなって言っていたのに。そんな彼女を見た岡崎恵莉は、薫にそっと耳打ちをした。
「とりあえず、うんって言って」
「え、あ、うん。わかった、耕介くん」
耕介はほほ笑んだ。
教室を出てから、恵莉は薫に事情を説明した。
「あのね、耕介は二重人格障害なの」
「にじゅうじんかく…」
薫は驚いたが、先ほどの彼の変貌ぶりはそれで納得できる。
「さっきまでのが、下の名前で呼ぶのを嫌う鳴海。すごいクールな方。今薫と話したのが、下の名前で呼んで欲しいって言う耕介で、耕介の方は明るくてクラスでも人気かな。ま、鳴海の方が異常に下の名前で呼ばれるのを嫌うんだけどね」
「いつ2人は入れ替わるの?」
「さぁ…当の本人もわかってないみたいだからなぁ。あ、ちなみに2人の区別がはっきりできるのは、うちの学校では阿瀬南ぐらいだから。阿瀬の話し方を見てから耕介に話しかけた方が良いと思うよ」
恵莉ちゃんは区別できないの、と尋ねると、恵莉は顔をしかめた。
「なんとなくはわかるんだけど、はっきりとは無理かなぁ。ま、とにかくあんまり深く関わらないほうが良いと思うよ」
薫は不謹慎とは思うが、なんだかこれから楽しくなりそうだと感じた。