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不運なオメガは異世界で愛される〜無口なもふもふ獣人王と始める、美味しいご飯と農業スローライフ〜  作者: 水凪しおん


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第6話「緑の息吹と甘いおやつ」

 整然と並んだ美しい畝に、いよいよ命の種を蒔く時が来た。

 八神は昨日までの探索で森から集めてきた、食べられる根菜の切れ端や、香草の根元、そして村の倉庫の隅で長年放置され、ひからびかけていた正体不明の種を大切に抱えて畑に立った。

 青年をはじめとする村人たちは、少し離れた場所から固唾を呑んで八神の動作を見守っている。

 八神は指先で柔らかい土に浅い溝を掘り、そこに一つ一つ、祈りを込めるように種や根を等間隔で置いていった。

 乾燥して硬くなった種が、湿り気を帯びた土のベッドに触れた瞬間、ほんのわずかに震えたような気がした。

 上から優しく土を被せ、手のひらで軽く押さえて定着させる。

 全ての種を蒔き終えると、次は水やりの作業だった。

 村の近くを流れる小さな川から、木をくり抜いて作られた重い桶に水を汲み、畑まで何度も往復する。

 冷たく澄んだ水が乾いた土に吸い込まれ、表面の色が濃い黒へと変わっていく。

 太陽の光を浴びた水滴が土の上でキラキラと跳ね、周囲には雨上がりのような清々しい匂いが漂い始めた。


『……どうか、無事に育ってくれ』


 八神は額の汗を手の甲で拭いながら、広大な畑に向かって深く頭を下げた。

 自分の持つ知識がこの異世界でどこまで通用するのか、不安が全くないわけではない。

 しかし、彼が土に触れた時に感じたあの不思議な温もりが、絶対に大丈夫だという根拠のない確信を与えてくれていた。

 その確信が現実のものとなったのは、なんと翌日の朝のことだった。

 いつものように畑の様子を見に来た八神は、目の前に広がる光景に息を呑み、その場に立ち尽くした。

 昨日蒔いたばかりの種が、たった一晩で分厚い土の層を突き破り、鮮やかな緑色の双葉を一斉に広げていたのだ。

 根菜の切れ端からは太く力強い茎が伸び、香草はすでに周囲に独特の爽やかな香りを放ち始めている。

 現代の農業の常識をはるかに超えた、異常とも言える驚異的な成長速度だった。

 畑全体が、朝の光を受けて若々しい緑の絨毯のように輝き、圧倒的な生命力の息吹を放っている。

 八神の背後から近づいてきた村人たちも、その信じられない光景を目にして完全に言葉を失っていた。

 彼らは震える足で畑の縁に近づくと、誰からともなくその場にひざまずき、深く頭を垂れた。

 彼らにとって、大地からこれほど豊かな緑が短期間で吹き出す現象は、神の奇跡以外の何物でもなかったのだ。

 村人たちの視線が、畏敬と狂信に近い熱を帯びて八神に注がれる。

 彼らは八神が、この死にかけていた土地に多産と豊穣の祝福をもたらす尊い存在であると完全に信じ込んでいた。


「いや、違うんです。これは俺の力じゃなくて、土が良かったからで……」


 八神は慌てて手を振り、誤解を解こうと必死に身振り手振りを交えたが、村人たちの祈りの姿勢は変わらなかった。

 青年だけはひざまずくことはなかったが、その黄金色の瞳には、八神に対する深い感謝と、言葉にできないほどの強い執着の色が静かに燃え上がっているように見えた。

 畑の作物はその後も一日ごとに信じられない速度で成長を続け、村にはかつてないほどの活気と希望が満ち溢れるようになった。


***


 農作業が軌道に乗り始めたある日の午後。

 八神は作業の休憩時間に、森の入り口で採集してきた小さな赤い果実を小屋の土鍋に放り込んでいた。

 その果実はそのまま食べると舌が痺れるほど強烈な酸味を持っているが、加熱すれば風味が増すことを八神は知っていた。

 鍋の底には少量の水を張り、そこに森の特定の樹木から採取した、ドロドロとした甘い樹液をたっぷりと加える。

 囲炉裏の火にかけ、木の匙で焦げないようにゆっくりとかき混ぜていく。

 火が通るにつれて、果実の皮が弾け、中から鮮やかな赤い果汁が溶け出してきた。

 酸味の強い香りが熱気とともに立ち昇り、やがて樹液の甘い匂いと混ざり合って、うっとりとするような芳醇な甘い香りに変化していく。

 鍋の中でグツグツと煮詰まっていく赤い液体は、まるで宝石を溶かしたようにとろみと輝きを増していった。

 小屋の入り口から、その強烈に甘い匂いに引き寄せられた村の子供たちが、鼻をヒクつかせながら顔を覗かせている。

 その後ろには、青年も腕を組みながら静かに立っていた。

 彼の耳も、匂いの出所を探るようにピクピクと忙しく動いている。

 八神は十分に煮詰まったジャムのようなおやつを火から下ろし、小さな木の器に少しずつ分けていった。

 熱が少し取れたところで、入り口に集まっている子供たちと青年に手招きをする。


「おやつができましたよ。酸っぱいかもしれないけど、甘いはずです」


 言葉は通じなくても、八神の優しい笑顔と器から立ち昇る魅力的な匂いに、子供たちは警戒を解いて一斉に駆け寄ってきた。

 彼らは渡された器を両手で受け取ると、小さな指で赤いジャムをすくい取り、恐る恐る口に運んだ。

 その瞬間、子供たちの目が驚きに見開かれた。

 強烈な酸味が口の中を引き締めた直後、それを包み込むような濃厚な樹液の甘みが爆発的に広がる。

 今まで食べたことのない、複雑で贅沢な味わいだった。

 子供たちの顔にパッと明るい花が咲いたような笑顔が広がり、彼らは無我夢中で指を舐め、器の底まで綺麗に平らげてしまった。

 青年もまた、手渡された器の中身を怪訝そうに見つめた後、一口だけ口に含んだ。

 彼の無表情な顔が、わずかに緩む。

 黄金色の瞳が驚きに見開かれ、彼はゆっくりと、その甘さと酸味の絶妙な調和を確かめるように何度も咀嚼を繰り返した。

 やがて彼の口元に、はっきりとした満足げな微笑みが浮かんだ。

 それは、八神がこの異世界に来て初めて見る、青年の心からの笑顔だった。

 甘い匂いに包まれた小さな小屋の中で、子供たちの無邪気な笑い声と、青年の穏やかな眼差しが八神を温かく包み込んでいる。

 不運ばかりだった自分の人生が、この豊かな緑と優しい笑顔に囲まれて、少しずつ確かな意味を持ち始めていることを、八神は静かに噛み締めていた。

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