第5話「荒れ地を耕す」
翌朝、空がまだ薄暗い白紫に染まっているうちに、八神は新しい農具を肩に担いで村の裏手の荒れ地へと向かった。
ひんやりとした朝露が足首を濡らし、静まり返った森からは夜行性の鳥の遠い鳴き声だけが聞こえてくる。
彼が向かったのは、昨日土の具合を確かめた、日当たりが良く水はけも良さそうな緩やかな斜面だった。
背の高い雑草が腰の高さまで生い茂り、ところどころに深い根を張った低木が邪魔をするように立ちふさがっている。
八神は深呼吸をして肺の奥まで澄んだ空気を満たすと、青年に作ってもらった石のカマをしっかりと握り直した。
刃先を雑草の根元に滑り込ませ、手首のスナップを効かせて手前に勢いよく引く。
ザクッという小気味よい音とともに、太い草の茎があっさりと切断された。
青年の作った石器の切れ味は驚異的で、八神の力でも面白いように草を刈り取ることができた。
しかし、範囲は広大であり、1人で作業を進めるには気の遠くなるような時間がかかることは明らかだった。
太陽が完全に顔を出し、気温が徐々に上がり始める頃には、八神の額には大粒の汗が滲み、呼吸は浅く荒くなっていた。
慣れない肉体労働により、カマを握る手のひらには早くも赤いマメができ始めている。
それでも八神は手を止めず、刈り取った草を斜面の端に集め、次に重いクワに持ち替えて土を掘り起こす作業に移った。
クワを頭上に高く振りかぶり、全身の体重を乗せて硬い地面に刃を叩き込む。
鈍い衝撃が腕から肩へと抜け、土の塊がボコッと音を立ててひっくり返った。
表面の土は柔らかかったが、少し掘り進めると、長年踏み固められた硬い層が刃の進行を阻む。
何度も何度もクワを振り下ろし、土を砕き、雑草の太い根を刃先で断ち切っていく。
手のひらのマメが潰れ、柄を握るたびにヒリヒリとした痛みが走ったが、八神の瞳には開拓の喜びに満ちた強い光が宿っていた。
その時、背後から重い足音が複数近づいてくる気配がした。
振り返ると、そこには村の長であるあの青年を先頭に、屈強な体つきをした5人の獣人の男たちが立っていた。
彼らは皆、八神が昨日土に描いた道具と同じような、粗削りなクワやスキを手に持っている。
青年が短い唸り声を上げると、男たちは無言のまま斜面に散らばり、一斉に作業を開始した。
彼らの動きは、八神のそれとは次元が違った。
太い腕が振り下ろされるたびに、大地が小さく悲鳴を上げるような重い音が響き渡る。
硬く締まった土の層など存在しないかのように、巨大な土の塊が宙を舞い、深い根を張った低木すらもスキの一撃で根こそぎ掘り起こされていく。
圧倒的な身体能力と筋力が、荒れ地を暴力的なまでの速度で更地へと変えていった。
八神はその凄まじい光景にただ呆然と立ち尽くし、手の中のクワを下ろすことしかできなかった。
男たちの汗が太陽に光り、熱気を持った荒い息遣いが周囲の空気を震わせている。
自分も負けてはいられないと、八神は再びクワを握り直し、彼らの間に入って懸命に土を細かく砕く作業を始めた。
その時だった。
八神が深く掘り起こされた土に触れ、丁寧に塊をほぐそうとした瞬間、彼の指先から微かな熱がじんわりと土壌へと流れ込んでいくのを感じた。
それは単なる体温ではない。
彼の身体の奥底、魂の根源から湧き上がるような、甘く温かく、そして命の息吹に満ちた不思議な気配だった。
八神自身は気づいていなかったが、彼がオメガとして持つ特異な性質が、この異世界の大地と強く共鳴し始めていたのだ。
八神が触れた周囲の土から、ほんのりとした金色の微粒子のような光が立ち昇るのが見えた。
乾いて固まりかけていた土壌が、まるで生命を吹き込まれたかのように、自ら空気を吸い込んで柔らかく膨らんでいく。
周囲に漂っていた埃っぽい匂いが薄れ、代わりに春の陽だまりのような、甘く優しい大地の香りが斜面全体を包み込み始めた。
一心不乱にクワを振るっていた獣人の男たちの手が、次々と止まった。
彼らは皆、鼻をヒクつかせ、信じられないものを見るような目で足元の土を見つめている。
そして、その驚きに満ちた視線は、中心で土に触れている八神へと一斉に集まった。
アルファである彼らの鋭敏な感覚は、八神から無意識に放たれるその圧倒的な豊穣の気配を、本能の深い部分で強烈に感じ取っていたのだ。
青年は手にしていたスキを静かに地面に置き、ゆっくりとした足取りで八神に近づいてきた。
彼は八神の足元にある、不自然なほどふかふかに変化した黒い土を手のひらですくい上げた。
土は青年の指の間から、まるで細かい砂のようにサラサラとこぼれ落ちていく。
青年の黄金色の瞳が、畏敬の念を帯びた強い光を放って八神を真っ直ぐに射抜いた。
彼は八神に向かって深く頭を下げ、右手を自分の胸に当てるという、この村における最大の敬意を示す動作をゆっくりと行った。
他の男たちも、青年に倣って次々と八神に向かって頭を下げていく。
「あ、いや、俺はただ土をほぐしているだけで……」
八神は突然の敬意に戸惑い、両手を振って後ずさりをした。
しかし、男たちの顔に浮かぶ真摯な表情は変わらず、彼らは再び農具を手に取ると、先ほどよりもさらに熱を帯びた動きで作業を再開した。
土を掘り起こし、細かく砕き、等間隔に盛り上げて真っ直ぐな畝を作っていく。
八神の知識と、獣人たちの圧倒的な力、そして八神自身から溢れ出す不思議な恩恵が完全に噛み合い、作業は驚異的な速度で進んでいった。
太陽が西の空を赤く染め始める頃には、荒れ果てていた斜面は全く別の風景へと生まれ変わっていた。
見渡す限り、綺麗に整えられた黒い土の畝が幾重にも平行に並んでいる。
土は夕陽の光を吸い込んで艶やかに輝き、豊かな命を育むための準備が完全に整っていることを無言で物語っていた。
八神は痛む手のひらをかばいながら、完成した畑の原型を誇らしげに見渡した。
隣に立つ青年の横顔も、夕陽に照らされて穏やかな達成感に満ちているように見えた。
不運の果てにたどり着いたこの場所で、八神は初めて、自分の手で未来を切り拓くための強固な土台を築き上げたのだ。




