第3話「小さな焚き火と美味しい匂い」
小屋を一歩出ると、森の冷たい空気が容赦なく肌を刺した。
八神は身震いしながらも、周囲の植生に鋭い視線を巡らせる。
彼の背後には、保護者のように大きな体をした青年が、一定の距離を保ちながら音もなくついてきていた。
村の周囲は、深く鬱蒼とした森に囲まれている。
しかし、小屋の裏手から少し歩いた先には、木々がまばらに生える開けた斜面があった。
そこには、背の低い雑草や低木が乱雑に生い茂っている。
八神は斜面に足を踏み入れ、地面に膝をついた。
湿った土の匂いを深く吸い込む。
日本の土壌とは少し成分が違うようだが、植物が育つための養分は十分に含んでいるように感じられた。
彼は草むらを手でかき分け、一本の細長い草を引き抜いた。
根元には、小さな白い鱗茎がついている。
葉を指先で少しちぎり、鼻に近づけてみる。
ツンとした、しかしどこか食欲をそそる硫化アリル特有の匂いが鼻腔をくすぐった。
『ビンゴだ。ノビルか、野生のニラに近い植物だ』
肉の臭みを消し、風味を加えるための香草として十分に使用できる。
八神は喜びで胸を弾ませながら、その植物を次々と引き抜き、持ってきた粗末なカゴの中に放り込んでいった。
青年は八神が雑草をむしる姿を見て、不思議そうに首を傾げている。
この村の人々にとって、それはただの雑草であり、食べ物という認識すらないのだろう。
次に八神が目をつけたのは、日陰に群生している、大きな丸い葉を持つ植物だった。
根元周辺の土が不自然に盛り上がっている。
八神は周囲の手頃な木の枝を拾い上げ、地面を慎重に掘り起こし始めた。
土の中から現れたのは、ゴツゴツとした不格好な土塊のようなものだった。
表面の泥を指でこすり落とすと、薄茶色の皮が見える。
爪で少し傷をつけると、中から真っ白ででんぷん質に富んだ果肉が顔を出した。
小さなジャガイモか、サトイモのような根菜類だ。
毒性がないか、切り口の変色や粘り気、匂いを慎重に確認する。
甘い土の香りがするだけで、危険な兆候は見られなかった。
「よし、これもいける」
八神は夢中になって土を掘り、カゴの半分が埋まるほどの根菜を収穫した。
さらに近くの倒木には、肉厚で傘の大きなキノコが群生しているのを見つけた。
ヒダの構造や茎の裂け方から、食べられる種類のものだと判断する。
小一時間ほどの探索で、カゴの中には豊かな森の恵みが山のように積まれていた。
小屋に戻った八神は、すぐに調理に取り掛かった。
青年に身振り手振りで頼み込み、底の深い素焼きの土鍋と、石を削って作られた刃物、そして新鮮な水を汲んできてもらった。
まずは収穫した食材を水で丁寧に洗い、泥や汚れを落とす。
土鍋に水を張り、あの石のように硬い干し肉を刃物で叩くようにして、繊維を断ち切るように細かく刻んでいく。
刃物の切れ味が悪いため、手首に鈍い痛みが走るが、八神は作業を止めなかった。
細かく刻んだ肉を水から煮出す。
囲炉裏に薪をくべ、火力を上げる。
パチパチとはぜる火の粉と、赤々と燃え上がる炎の熱気が、冷え切った部屋の空気を温めていく。
水が沸騰し始めると、肉から灰汁のような濁った泡が浮いてきた。
八神は木の匙を使って、その泡を丁寧に取り除いていく。
この手間のひとつひとつが、スープの味を決定づけるのだ。
灰汁を取り終え、肉の繊維が少しほぐれてきたところで、泥を落として一口大に切った根菜とキノコを投入する。
しばらく煮込むと、根菜からでんぷん質が溶け出し、スープに少しずつとろみがついてきた。
キノコからは豊かな旨味成分が抽出され、肉の生臭さを和らげていく。
そして最後に、細かく刻んだあのニラに似た香草をたっぷりと鍋の中に放り込んだ。
その瞬間だった。
鍋の中から、それまでとは全く異なる、劇的な変化を遂げた匂いが立ち昇った。
香草のツンとした爽やかな香りが、獣肉特有の臭みを見事に中和し、食欲を強烈に刺激する芳醇な香りに変換させたのだ。
キノコの山の香りと、根菜の甘い匂いが複雑に絡み合い、小屋の中に濃厚で美味しそうな匂いが充満していく。
部屋の隅で静かに様子を見ていた青年の耳が、ピクリと大きく跳ねた。
彼の黄金色の瞳が、信じられないものを見るかのように鍋を凝視している。
鼻を何度もヒクつかせ、その芳しい匂いの正体を探ろうとしているようだった。
外からも、わずかな変化があった。
小屋の隙間から漏れ出した匂いに誘われたのか、入り口の近くに、村の子供たちが数人、おずおずと顔を覗かせていたのだ。
彼らの小さな鼻も、懸命に空気を嗅いでいる。
八神は鍋の中身を木の匙でかき混ぜ、根菜が十分に柔らかくなったのを確認すると、囲炉裏の火から土鍋を下ろした。
先ほど自分が使った木の器を丁寧に洗い、そこに熱々のスープをたっぷりと注ぎ込む。
具材がバランスよく入るように気を配り、最後に少しだけ生の香草を散らして彩りを添えた。
「はい、お待たせしました。食べてみてください」
八神は湯気を立てる器を、青年に向かって差し出した。
青年は警戒するような、しかし期待を隠しきれないような複雑な表情で器を受け取った。
器の底から伝わる熱に少し驚いたようだが、すぐに器に顔を近づけ、まずは匂いを深く吸い込んだ。
それだけで、彼の喉がゴクリと大きく鳴るのが見えた。
青年は器に口をつけ、慎重にスープを一口すする。
その瞬間、彼の動きが完全に停止した。
見開かれた黄金色の瞳が、器の中身と八神の顔を交互に見比べる。
信じられないといった様子で、彼は今度は具材の肉と根菜を一緒に口に運び、ゆっくりと咀嚼した。
硬かったはずの肉は噛み切れるほどに柔らかくなり、根菜はホクホクとした甘みを口の中に広げる。
キノコと香草の風味が一体となり、深い旨味となって味覚を圧倒した。
青年の表情から、先ほどまでの無機質な硬さが抜け落ちる。
彼の口元が、わずかに、しかし確かな喜びの形に歪んだ。
彼はもう躊躇うことなく、夢中でスープと具材を口の中に流し込み始めた。
八神はその食べっぷりを見て、胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。
入り口から覗き込んでいる子供たちにも手招きをし、残りのスープを小さな器に分けて手渡していく。
子供たちは熱さに驚きながらも、その美味しさに目を丸くし、無言のまま必死に器を舐めるようにして平らげた。
誰も言葉を発しない。
しかし、小屋の中には間違いなく、満ち足りた幸福な空気が満ちていた。
空になった器を大事そうに両手で包み込みながら、青年が八神を真っ直ぐに見つめてきた。
その瞳には、先ほどまでの警戒心とは違う、強い興味と、かすかな敬意のような光が宿っていた。
八神は顔をほころばせ、柔らかく微笑み返した。
言葉は通じなくても、美味しいご飯があれば、心は通じ合う。
不運だった彼の人生で、初めて誰かのために何かを成し遂げ、明確な感謝を受け取った瞬間だった。
小さな焚き火から生まれたこの美味しい匂いが、彼らの運命を大きく動かしていくことになるとは、この時の八神はまだ知る由もなかった。




