第2話「言葉のない食卓」
次に目を覚ました時、八神を包んでいたのは森の冷たい空気ではなく、乾燥した薪が燃える匂いと、古い獣の毛皮が放つ独特の埃っぽい匂いだった。
ゆっくりと視界の焦点が定まっていく。
見上げると、太く無骨な丸太を幾重にも組み合わせて作られた、荒削りな天井があった。
壁は土と枯れ草を混ぜ合わせて塗り固められており、部屋の隅には石を積み上げた簡素な囲炉裏が設けられている。
そこでは小さな炎がパチパチとはぜながら、部屋の中に頼りない赤い光とわずかな熱を供給していた。
自分が寝かされているのは、枯れ草を厚く敷き詰め、その上に何枚もの獣の皮を重ねただけの簡素な寝床だった。
背中にはごつごつとした床の硬さが伝わってくるが、森の冷たい土の上に倒れていた時に比べれば、はるかに快適な環境だった。
『……助かった、のか』
ゆっくりと体を起こそうとして、腕や足のあちこちに鋭い痛みが走るのに顔をしかめる。
見れば、森でつけられた無数の擦り傷や切り傷の上に、緑色をした泥のようなものが厚く塗りつけられていた。
顔を近づけると、鼻にツンとくる青臭くて苦いような植物の匂いがする。
どうやら、薬草をすりつぶして作られた軟膏のようだ。
その時、部屋の奥の暗がりから、静かな足音が近づいてきた。
現れたのは、森の中で八神を抱き上げたあの青年だった。
長身で、厚い胸板と丸太のように太い腕を持つ屈強な体格。
頭の頂部からは銀灰色の獣の耳がピンと立ち上がり、腰のあたりからは豊かに毛羽立った太い尻尾が垂れ下がっている。
彼の存在自体が、この部屋の空気を圧迫するほどの強い威圧感を放っていた。
青年は八神が目を覚ましたことに気づくと、表情を一切崩さずに近づいてきた。
そして、囲炉裏のそばに置かれていた木の器を手に取り、八神の目の前に無言で差し出した。
「あ、あの……ありがとう、ございます。助けて、もらったんですよね」
八神は少し怯えながらも、相手の目を見て丁寧にお礼の言葉を口にした。
しかし、青年は小首を傾げるだけで、言葉の意味を理解している様子は全くなかった。
その代わりに、彼は喉の奥で低く唸るような、しかし威嚇ではない独特の音を響かせた。
「グルゥ……ルオォ、ン」
それは人間の言語というよりも、獣の鳴き声に近い、重低音の響きだった。
言葉が通じない。
その事実が、八神の心に冷たい水を浴びせかけたような不安をもたらした。
ここは日本ではなく、地球上のどこでもない、全く別の世界なのだという現実が、重くのしかかってくる。
しかし、青年の眼差しには敵意も悪意もなかった。
ただ静かに、手にある器を早く受け取れと促しているようだった。
八神は恐る恐る手を伸ばし、ごつごつとした木肌が残る器を受け取った。
器はずっしりと重く、中からは湯気が立ち上っていた。
器の中を覗き込んだ八神は、思わず息を呑んだ。
そこに入っていたのは、濁った泥水のような暗褐色の液体と、その中に浮かぶ真っ黒で石のように硬そうな肉の塊だった。
液体からは、血の生臭さと、焦げたような苦い匂いが混ざり合った、強烈な異臭が漂ってくる。
胃の奥が本能的に拒絶反応を示し、吐き気がこみ上げる。
しかし、空腹はすでに限界を超えていた。
青年がじっとこちらを見つめている手前、食べないわけにはいかない。
八神は意を決し、器の縁に口をつけて、その泥水のようなスープを一口すすった。
瞬間、舌の上に広がったのは、猛烈な渋みと、舌の感覚を麻痺させるような強烈な苦味だった。
旨味や塩気といったものは一切存在しない。
ただひたすらに不味く、胃袋が痙攣を起こしそうになるほどの破壊的な味だった。
咳き込みそうになるのを必死に堪え、なんとか液体を飲み込む。
続いて、真っ黒な肉の塊を手に取り、歯を立ててみた。
硬い。
まるで古くなったタイヤのゴムか、木の皮を噛んでいるようだった。
顎の骨が痛くなるほど力を込めてようやく少しだけ噛みちぎることができたが、口の中に広がったのは、獣の血の生臭さと、長期間放置されて酸化した油の酷い味だけだった。
八神は涙目になりながら、何度も何度も咀嚼を繰り返し、ようやくその欠片を胃の奥へと流し込んだ。
青年は八神が食事を口にしたのを確認すると、わずかに満足そうな気配を漂わせ、部屋の隅へと戻って毛皮の束の上に腰を下ろした。
彼にとっては、これが当たり前の食事なのだ。
八神は器を両手で抱え込んだまま、部屋の小さな窓から外の様子を伺った。
窓の外には、丸太や土で作られた同じような粗末な小屋がいくつか並んでいるのが見えた。
小屋と小屋の間を、獣の耳や尻尾を持った村人たちが歩いている。
彼らの服装はどれもボロボロの毛皮で、その体つきは一様に痩せ細っていた。
広場の隅では、あばら骨が浮き出るほど痩せた子供たちが、地面に落ちている木の実の殻のようなものを必死に漁っている姿が見えた。
村全体を覆う、重く沈んだ空気。
それは間違いなく、深刻な飢餓と食糧不足がもたらす絶望の気配だった。
彼らは毎日、こんな石のように硬い肉と、泥水のようなスープだけで命をつないでいるのだ。
農学部で学び、土と植物に触れ、食べ物の大切さを誰よりも理解している八神にとって、その光景は胸を強く締め付けるものだった。
自分自身も不運な境遇に巻き込まれ、見知らぬ世界に放り出されたばかりの身である。
しかし、目の前で飢えに苦しむ人々を見過ごすことは、八神の性格上どうしてもできなかった。
『……なんとかしないと』
手の中にある、ひどく不味いスープを見つめる。
食材そのものが悪いわけではないかもしれない。
調理法や、組み合わせる野草、ほんの少しの工夫があれば、もっとマシなものが作れるはずだ。
八神は器を床に置き、全身の痛みを堪えてゆっくりと立ち上がった。
突然立ち上がった八神を見て、青年が不思議そうに黄金色の瞳を向けてくる。
八神は青年を見つめ返し、はっきりとした声で言った。
言葉が通じないことは分かっている。
それでも、自分の意志を伝えるために。
「俺、外に行ってきます。もっと美味しいものを、探してきますから」
八神は身振り手振りで外を指差し、食べる真似をしてから、大きく首を横に振った。
そして、自分の胸を叩き、自信ありげな表情を作って見せた。
青年はしばらく八神の動作をじっと見つめていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。
八神を止めるでもなく、ただ静かに彼の後を追うように歩き出す。
不運な境遇の果てにたどり着いた、この貧しくも静かな村で。
八神の、農学部生としての知識と意地を懸けた戦いが、いま幕を開けようとしていた。




