番外編「陽だまりの食卓」
数年の歳月が、穏やかな川の流れのように村を通り過ぎていた。
あの見渡す限りの荒れ地だった村の裏手は、今や地平線の彼方まで続く広大な農地へと姿を変え、季節ごとに様々な作物が波打つ豊かな海となっていた。
初夏の強い日差しが照りつける昼下がり。
村の中央広場に設けられた巨大な石窯の前に、八神は額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら立っていた。
石窯の中からは、薪が激しく燃えるパチパチという音とともに、熱気に乗って強烈に香ばしい匂いが周囲に立ち込めている。
八神の足元には、数年前にはまだ幼かった村の子供たちが、今では立派な少年少女へと成長し、目を輝かせながら石窯を見つめていた。
彼らの背はすっかり伸び、獣の耳や尻尾の毛並みも大人と同じように艶やかで力強いものへと変化している。
そして八神のすぐ隣には、相変わらず無口で巨大な体躯を持つ村の長、ルヴァが腕を組んでどっしりと立っていた。
彼の黄金色の瞳もまた、子供たちと同じように、石窯の中から漂う未知の匂いに強く惹きつけられているようだった。
数年の間に八神の言葉を少しずつ覚え、今では日常会話に不自由しないほどになっていた。
「ヤガミ、もう焼けた。まだ開けないのか」
一番背の高い銀毛の少年が、待ちきれない様子で足踏みをしながら八神の衣服の裾を引っ張った。
八神は彼の頭を優しく撫で、石窯の小さな空気穴から中の様子を慎重に窺った。
熱で歪む視界の奥に、こんがりと黄金色に焼き上がったふくらみが見える。
「うん、ちょうどいい焼き加減だ。みんな、少し下がってて」
八神がそう指示を出すと、子供たちは素直に数歩後ろへと下がった。
八神は厚手の手袋をはめ、石窯の重い鉄の扉をゆっくりと手前に引いた。
その瞬間、閉じ込められていた強烈な熱気とともに、甘く、そして深いコクのある小麦に似た香ばしい匂いが爆発的に広場へと溢れ出した。
それは、八神が数年の歳月をかけて異世界の植物から品種改良を重ね、ようやく安定した栽培に成功した新しい穀物を使った、初めてのパンだった。
八神は長い柄のついた木の板を石窯の中に滑り込ませ、熱々のパンを次々と外へと引き出していった。
表面はカリッと硬く焼き上がり、あちこちに美しい亀裂が入っている。
その亀裂の隙間からは、真っ白でふかふかとした柔らかい内側が覗き、湯気とともに豊かな酵母の香りを漂わせていた。
広場に備え付けられた巨大な木のテーブルにパンを並べると、子供たちは歓声を上げてテーブルを取り囲んだ。
ルヴァも静かにテーブルに近づき、鼻をヒクつかせてその新しい食べ物の匂いを懸命に分析しているようだった。
八神は小刀を取り出し、まだ湯気を立てているパンの塊を切り分けていった。
ザクッ、という小気味よい音とともに外側の硬い皮が割れ、中から熱い蒸気が立ち昇る。
切り分けたパンの断面には、八神が森で採集して独自に製法を編み出した、黄金色に輝く濃厚な獣脂のバターをたっぷりと塗り込んでいく。
熱いパンの表面に触れたバターが、ジュワッと音を立てて溶け出し、生地の奥深くへと吸い込まれていった。
乳脂肪分の強烈に甘く芳醇な香りが加わり、見ているだけで口の中に唾液が溢れ出してくるような圧倒的な視覚と嗅覚の暴力だった。
「さあ、みんなで食べてみて」
八神が合図をすると、子供たちは一斉に手を伸ばし、熱さに指を震わせながらもパンを掴み取った。
彼らは大きく口を開け、夢中でパンにかぶりついた。
カリッとした香ばしい皮の歯ごたえの直後、中から溢れ出す熱くもっちりとした生地の甘みが口全体を支配する。
そこに溶けたバターの濃厚な塩気とコクが絡み合い、噛めば噛むほどに深い旨味が脳髄を強く刺激した。
「美味しい。ヤガミ、これ、すっごく美味しい」
少年少女たちは顔をくしゃくしゃにして笑い、あっという間に自分の分のパンを平らげてしまった。
彼らの弾けるような笑顔を見ているだけで、八神の胸の中は深い達成感と喜びに満たされていく。
八神は一番大きなパンの塊を切り分け、たっぷりとバターを塗ってから、静かに待っていたルヴァに向かって差し出した。
ルヴァは無言のままそのパンを受け取ると、鋭い牙を立てて大きく噛みちぎった。
彼の太い顎がゆっくりと動き、口の中に広がる複雑な味の層を確かめるように何度も咀嚼を繰り返す。
やがて、彼の険しかった眉間から力が抜け、黄金色の瞳が驚きと満足感に見開かれた。
ルヴァは飲み込んだ後、残りのパンを一気に口の中に放り込み、喉の奥でグルルと嬉しそうな低い唸り声を上げた。
「ルヴァの口にも合ったみたいで良かった」
八神が安堵の息を吐きながら微笑むと、ルヴァは長い腕を伸ばし、八神の肩を抱き寄せて自分の隣へと座らせた。
ルヴァの手のひらからは、先ほどのパンの熱にも負けないほどの力強い体温が伝わってくる。
彼自身の分のパンはもう無いはずなのに、ルヴァの視線は八神の唇の端についていた小さなパンくずへと釘付けになっていた。
ルヴァは顔を近づけ、自らの長い舌でそのパンくずを器用に舐め取った。
突然の湿った感触に、八神の顔が一瞬にして真っ赤に染まる。
『ちょ、ルヴァ。子供たちの前でやめてくださいって』
八神は声を出せずに目で抗議したが、ルヴァは全く悪びれる様子もなく、ただ満足げに喉を鳴らすだけだった。
子供たちもそんな2人の様子にすっかり慣れっこなのか、クスクスと笑いながら次のパンが焼き上がるのを心待ちにしている。
木漏れ日が降り注ぐ広場で、美味しい匂いと温かい笑い声がどこまでも響き渡っていく。
異世界で手に入れたこの陽だまりのような平穏な食卓こそが、八神にとって何よりも守り抜きたい永遠の宝物だった。




