第12話「春の訪れと誓い」
長く厳しい冬の支配が終わりを告げ、森に生気を帯びた暖かい南風が吹き込み始めた。
村を分厚く覆っていた雪が少しずつ形を崩し、軒先からは溶けた水滴がリズミカルな音を立てて土を穿っている。
黒く湿った地面のあちこちからは、鮮やかな緑色をした若い草の芽が力強く顔を出し、春の訪れを知らせる瑞々しい土の匂いが空気を満たしていた。
村の中央にある広場は、早朝から熱を帯びた活気に包まれていた。
広場の周囲には、森でいち早く花を咲かせた薄紅色の植物が数え切れないほど飾られ、獣の骨を磨いて作られた楽器の軽快な音が村人たちの手によって鳴らされている。
今日は、村の長であるルヴァと、豊穣の恩恵をもたらした八神の魂を正式に結びつける、部族にとって最も神聖な儀式の日だった。
***
ルヴァの小屋の中で、八神は村の女たちに囲まれて身支度を整えられていた。
彼が身にまとっているのは、いつもの粗末な毛皮ではない。
女たちが冬の間に植物の繊維を丁寧に叩いて紡ぎ、草木で鮮やかな若草色に染め上げた、驚くほど柔らかく滑らかな手触りの衣服だった。
首元には、魔除けの意味を持つ白い石を繋ぎ合わせた首飾りが下げられ、八神の白い肌によく映えていた。
女たちが八神の髪を丁寧に梳かし終え、満足げに頷いて部屋を出ていく。
1人残された八神は、緊張で細かく震える両手を強く握り締め、深く息を吐き出した。
心臓が耳の奥でうるさいほどに鳴り響き、喉がカラカラに乾いている。
小屋の扉が開き、差し込む眩しい春の光を背にして、1人の巨大な影が足を踏み入れた。
儀式のための正装を纏ったルヴァだった。
彼の衣服は漆黒の獣の毛皮で仕立てられており、首元や腕には一族の長であることを示す鋭い牙の装飾がいくつも光を放っている。
銀灰色の髪は綺麗に撫でつけられ、彼の持つ圧倒的なアルファとしての威圧感と、どこか神々しいまでの美しさが合わさって、八神は思わず息を呑んだ。
ルヴァの黄金色の瞳が、若草色の衣服をまとった八神の姿を捉えた瞬間、炎のように熱く揺らめいた。
彼は無言のまま八神の前に歩み寄り、その大きく硬い手のひらで、八神の震える手を優しく、しかし絶対に逃がさないほどの強さで包み込んだ。
2人は手を繋いだまま小屋を出て、村人たちが待つ広場へと向かった。
広場に足を踏み入れた瞬間、割れんばかりの歓声と、楽器の力強い音が春の空気を激しく震わせた。
村人たちは誰もが満面の笑みを浮かべ、2人が歩く道に美しい花びらを惜しげもなく撒き散らしていく。
広場の中央には、平らに削られた巨大な石の祭壇が置かれていた。
祭壇の前で立ち止まると、村の長老である老人が、木をくり抜いて作られた1つの器を両手で高く掲げた。
器の中には、森の最も深い場所でしか採れない特別な果実を絞った、澄んだ黄金色の果汁が波打っている。
老人が儀式のための厳かな言葉を紡ぎ、器をルヴァへと手渡した。
ルヴァは器を受け取ると、真っ直ぐに八神の目を見つめたまま、その果汁を半分だけゆっくりと飲み干した。
喉仏が大きく上下し、彼の強い視線が八神から一瞬たりとも外れることはない。
ルヴァは残りの果汁が入った器を、両手で大切に八神へと差し出した。
『これを飲めば、俺は本当にこの世界の、この人のものになる』
八神は震える両手で器を受け取った。
器からは、果実の濃厚な甘い匂いと、ルヴァの手のひらから移った強い熱が伝わってくる。
八神は目を閉じ、器の縁に口を当てて、黄金色の液体を一気に喉の奥へと流し込んだ。
冷たく甘い果汁が食道を通って胃に落ちた瞬間、ルヴァの持つ重く力強い匂いと、八神自身の放つ柔らかい豊穣の匂いが目に見えない糸となって、2人の身体を幾重にも縛り上げるような不思議な感覚に包まれた。
空になった器を祭壇に置くと、ルヴァが長い腕を伸ばし、八神の身体を自分の胸の中へと強く抱き寄せた。
周囲の村人たちから、地響きのような祝福の歓声が沸き起こる。
ルヴァの分厚い胸板に頬を押し当てながら、八神は自分を取り囲む笑顔の波を眩しそうに見渡した。
不運ばかりを嘆き、常に下を向いて歩いていたかつての自分は、もうどこにもいない。
この暖かな腕の中こそが、自分が生まれる前から定められていた真実の帰る場所だったのだと、八神の魂が静かに、そして力強く肯定していた。




