第10話「運命のつがい」
夜明け前の冷たい風が、広場の入り口にある背の高い茂みを大きく揺らした。
葉が擦れ合う乾いた音が、静まり返った村に不気味なほど大きく響き渡る。
八神は息を詰め、暗闇の奥へと痛いほどに目を凝らした。
濃密な湿った土の匂いに混じって、鉄がひどく錆びたような強烈な血の悪臭が鼻腔を鋭く突き刺す。
視界の端で、木々の隙間から重い足取りで歩み出てくる複数の影が見えた。
凄惨な戦いを終え、どうにか生還を果たしたルヴァたち村の戦士たちだった。
彼らの全身は赤黒い血と泥にまみれ、引き裂かれた獣の毛皮の隙間からは痛々しくえぐられた肉の断面が覗いている。
その先頭を歩くルヴァの姿を見た瞬間、八神の心臓が肋骨を内側から激しく打ち据えた。
ルヴァの巨大な身体は右側に大きく傾き、大剣を杖のように地面に突き立ててかろうじて自重を支えている状態だった。
彼の分厚い胸板から腹部にかけて、鋭利な爪で深く引き裂かれたような3筋の巨大な傷口が走り、そこからとめどなく暗赤色の血が流れ落ちていた。
ルヴァの黄金色の瞳は熱に浮かされたように焦点が定まっておらず、荒々しい呼吸のたびに喉の奥からかすれた笛のような音が漏れ出している。
それでも彼は、広場の中央で立ち尽くす八神の姿を視界に捉えると、安心したようにわずかに目尻を下げた。
次の瞬間、大木が根元からへし折れるような重い音を立てて、ルヴァの巨大な身体が前のめりに地面へと崩れ落ちた。
「ルヴァ」
八神は喉が裂けるほどの叫び声を上げ、地面を蹴ってルヴァのもとへと全速力で駆け寄った。
冷たい土の上に倒れ伏したルヴァの身体に触れた瞬間、火に炙られているかのような異常な高熱が八神の手のひらを焼いた。
ルヴァの口からは苦しげな熱い呼気が絶え間なく吐き出され、強靭な筋肉が痛みに耐えかねて細かく痙攣を繰り返している。
「誰か、早く彼を小屋の中へ運んでください」
八神は周囲で立ち尽くす村人たちに向かって、必死の形相で身振り手振りを交えて指示を出した。
怪我の少ない数人の戦士たちが駆け寄り、ルヴァの重い身体を慎重に持ち上げて、長である彼の小屋へと運び込んだ。
八神もその後を追いかけ、事前に準備しておいた熱湯とすり潰した薬草の鉢を両手に抱えて小屋へと飛び込んだ。
***
土と枯れ草で壁を塗られた小屋の中は、囲炉裏の火の熱と薬草の青臭い匂いが充満していた。
獣の毛皮を重ねた寝床に横たえられたルヴァは、意識が混濁しているのか、時折低くうめき声を上げながら首を左右に振っている。
八神は震える手を必死に押さえ込み、熱湯を張った木の桶に清潔な布を浸した。
熱さで指先が赤く染まるのにも構わず、布を固く絞り、ルヴァの胸元を覆う血まみれの衣服を小刀で慎重に切り開く。
あらわになった傷口は想像以上に深く、周囲の肉が熱を持ってどす黒く腫れ上がっていた。
八神は布を傷の周囲に押し当て、こびりついた血と泥の塊を何度も何度もお湯で洗い流していく。
布がすぐに赤黒く染まり、桶の湯が濁った赤い液体へと変わっていく。
八神は新しい湯を何度も汲み直し、傷口の汚れが完全になくなるまで執拗に洗浄を繰り返した。
ルヴァの硬い筋肉が布の刺激に反応して大きく跳ねるたびに、八神の胸は刃物でえぐられるような痛みに襲われた。
『お願いだから、死なないでくれ』
八神は声に出せない祈りを心の中で何度も反芻しながら、石の鉢に入った緑色の薬草のペーストを指先ですくい取った。
そのひどく苦い匂いを放つ軟膏を、えぐられた肉の断面に直接、分厚く塗り込んでいく。
ルヴァが激痛に耐えかねて獣のような低い咆哮を上げたが、八神は涙で滲む視界を瞬きで払い落とし、両手で傷口を塞ぐように清潔な布を何重にも強く巻きつけて固定した。
止血と消毒の処置を終えた八神は、床にへたり込み、荒くなった自分の呼吸を整えようと深く息を吐き出した。
その時だった。
高熱にうなされるルヴァの身体から、今まで感じたことのないほど重く、そして濃密な匂いが室内に溢れ出し始めたのだ。
それは深い森の奥底に生える苔と、嵐の夜に雷に打たれて燃え上がる大樹を混ぜ合わせたような、圧倒的なアルファの匂いだった。
怪我による極限状態と高熱が、ルヴァの理性による抑制を完全に破壊し、彼の中に眠る本能をむき出しにさせていた。
その強烈な匂いを間近で吸い込んだ瞬間、八神の身体の奥底に眠っていたオメガとしての本能が、弾かれたように激しい反応を示した。
八神の体温が急激に上昇し、視界の端が白く明滅を始める。
彼自身の身体から、熟れきった果実と太陽の光をたっぷりと吸い込んだ豊かな大地の匂いが、抑えきれない濁流となって溢れ出した。
甘く、どこまでも柔らかい豊穣の匂いが、ルヴァの放つ攻撃的で重い匂いと空中で激しく絡み合う。
2つの対極にある匂いは反発することなく、互いの欠けた部分を完璧に補い合うように溶け合い、小屋の中をむせ返るような甘美な空気で満たしていった。
その絶対的な調和の気配に引き寄せられるように、ルヴァがゆっくりと重い瞼を押し上げた。
焦点の合っていなかった黄金色の瞳が、八神の姿を真っ直ぐに射抜く。
そこにあるのは理性を失った獣の目ではなく、己の魂の半分をようやく見つけ出したという、静かで確信に満ちた強い光だった。
ルヴァは熱を持った大きな右手をゆっくりと持ち上げ、八神の震える頬を包み込んだ。
その手のひらから伝わる強烈な熱と執着の感情が、八神の皮膚を突き破って直接魂の奥底へと流れ込んでくる。
八神もまた、ルヴァの手の甲に自分の両手を重ね、彼の指先にすり寄るように深く目を閉じた。
言葉による約束も、大げさな誓いも必要なかった。
ただ互いの体温と匂いが混ざり合うこの瞬間、2人は互いが永遠に切り離すことのできない、たった1つの運命のつがいであることを魂の最も深い場所で完全に理解していた。




