第1話「不運の果ての深い森」
登場人物紹介
◆八神
二十歳の大学生。
オメガ。
農学部に所属し、植物や農業に関する深い知識を持つ。
生まれつき不運な出来事に巻き込まれやすい体質だが、持ち前の芯の強さと前向きな性格で乗り越えてきた。
料理が得意で、限られた食材から美味しい食事を作り出す天才。
異世界に迷い込み、ルヴァに拾われる。
彼のオメガとしての特質は、この世界では大地を豊かにする祝福の力として現れる。
◆ルヴァ
深い森の奥に住む獣人族の長。
アルファ。
二十代半ばの青年の姿をしているが、戦闘時や感情が高ぶった際は巨大な狼の姿になる。
無口で表情に乏しいため恐ろしく見えがちだが、内面は非常に穏やかで、群れの仲間を何よりも大切にする深い優しさを持つ。
行き倒れていた八神を保護し、彼の作る温かい料理と柔らかい笑顔に次第に心を奪われていく。
深い闇の底から、ゆっくりと感覚が戻ってくる。
最初に認識したのは、頬に張り付く冷たくて湿った土の感触だった。
次いで、鼻腔の奥をツンと突くような、青臭い植物の体液と腐葉土の濃密な匂いが入り込んでくる。
風が吹き抜けるたびに、無数の葉が擦れ合うカサカサとした乾いた音が周囲から降り注ぎ、見知らぬ鳥の高く鋭い鳴き声が遠くで反響していた。
重くのしかかる鉛のような疲労感を堪えながら、八神はゆっくりと重い瞼を押し上げた。
ぼやけた視界に飛び込んできたのは、見慣れた大学のコンクリートの校舎でも、通い慣れたアパートの白い天井でもなかった。
天を突くようにそびえ立つ巨大な樹木群と、その枝葉の隙間から差し込む緑色がかった薄暗い光の帯だった。
木々の幹はどれも大人が数人がかりで手を回しても届かないほど太く、表面には見たこともない奇妙な模様を描く苔がびっしりと群生している。
『……ここは、どこだ』
乾ききった喉の奥で、声にならない問いかけを飲み込む。
全身の関節が軋むような痛みを訴えていた。
冷え切った指先を動かし、ゆっくりと上半身を起こす。
着ている衣服は所々が泥で汚れ、ところどころ破れて肌が露出していた。
記憶の糸をたぐり寄せる。
農学部の講義を終え、研究用の土壌サンプルを抱えて家路を急いでいたはずだ。
生まれつき不運な星の下に生まれたとしか思えない八神の日常は、常に小さなトラブルに満ちていた。
空から降ってきた看板を間一髪で避け、水たまりで派手に転び、最後に記憶に残っているのは、路地裏に突如として現れた、底が見えないほど真っ暗な穴に足を踏み外した瞬間の、内臓が浮き上がるような浮遊感だけだった。
そこから先の記憶は完全に途切れている。
周囲を見渡しても、人工物は一切見当たらない。
空を覆い隠すほどの深い森は、どこまでも果てしなく続いているように見えた。
足元には、鋭い棘を持った紫色の奇妙な植物が群生し、見たこともない形状の巨大なシダの葉が風に揺れている。
現代の日本の植生とは明らかに異なる、圧倒的で原始的な自然の気配がそこには満ちていた。
胃の奥から、ギリギリと締め付けられるような鋭い空腹感がこみ上げてくる。
最後に食事をとってから、どれだけの時間が経過したのかすら分からない。
体温は奪われ続け、手足の先はすでに白く変色して感覚を失い始めていた。
このままここに座り込んでいれば、確実に命を落とす。
八神は震える足に力を込め、近くの太い木の幹に手をついて、やっとのことで立ち上がった。
その時だった。
ズズン、ズズン。
背後の茂みの奥から、大地を微かに揺らすような、重く鈍い足音が響いてきた。
枯れ枝がへし折られ、厚く積もった落ち葉が重い質量によって踏み潰される音が、等間隔で近づいてくる。
ただの野生動物の足音ではない。
その足音の主が持つ圧倒的な体積と重量が、音の響きだけで嫌というほど伝わってきた。
八神は息を呑み、硬直した首をゆっくりと後ろへ回した。
巨大なシダの群れが、内側から押し退けられるように左右に割れる。
薄暗い森の奥から姿を現したのは、八神の想像を絶する巨大な獣だった。
四つ足で大地を踏みしめるその姿は、狼に似ていた。
しかし、その体躯は小型のトラックほどもあり、全身を覆う長く豊かな毛並みは、月の光を織り込んだような美しい銀灰色に輝いていた。
鋭く尖った耳がピクリと動き、周囲の音を拾い集める。
そして何より八神の視線を釘付けにしたのは、その獣の瞳だった。
暗闇の中で燃え上がる炎のような、深く透明な黄金色の瞳。
その瞳が、獲物を定めるように真っ直ぐに八神を射抜いていた。
恐怖で声も出ない。
喉がひくつき、心臓が肋骨を内側から食い破りそうなほど激しく打ち鳴らされる。
捕食者と被食者という、絶対的な立場の違いを魂の底から突きつけられたような感覚だった。
逃げなければという思考とは裏腹に、足は完全に地面に縫い付けられたように動かない。
巨大な狼が一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
獣特有の、野生の血と湿った土の匂いが混ざり合った強い体臭が鼻を突く。
狼は八神の目の前までやってくると、その巨大な頭をゆっくりと下げた。
熱く湿った呼気が、八神の冷え切った頬を撫でる。
鋭く並んだ巨大な牙が、わずかに開いた口の隙間から覗いていた。
食べられる。
八神は絶望に目を強く閉じ、これから訪れるであろう激しい痛みに備えて全身を強張らせた。
しかし、予想していた鋭い牙の感触は、いつまで経っても訪れなかった。
代わりに感じたのは、視界を覆う銀灰色の毛並みが奇妙に揺らいだ気配だった。
目を開ける隙も与えられないまま、ふいに八神の背中と膝の裏に、太くて力強い腕が差し込まれた。
体がふわりと宙に浮く。
驚いて薄く目を開けると、そこには巨大な狼の姿はなく、代わりに狼と同じ銀灰色の髪と獣の耳を持った、屈強な青年の姿があった。
彼の上半身は粗末な毛皮の衣服に覆われており、そこからは引き締まった筋肉の隆起がはっきりと見て取れた。
青年の黄金色の瞳が、腕の中に収まった八神を静かに見下ろしている。
その瞳には、先ほどの獣の姿からは想像もつかないほどの、静かで穏やかな光が宿っていた。
乱暴な動作のようでいて、その腕の力加減は驚くほど慎重で、八神の体を一切落とすまいとする確かな意志が感じられた。
青年から伝わってくる体温は火のように熱く、冷え切った八神の体をじんわりと温めていく。
その圧倒的な体温と、なぜか安心感を覚える強い匂いに包まれた瞬間、八神の中で張り詰めていた緊張の糸がふつりと音を立てて切れた。
抗いがたい睡魔と疲労の波が、一気に脳髄を飲み込んでいく。
八神は青年の胸元の柔らかい毛皮に額をこすりつけるようにして、再び深い意識の底へと沈んでいった。




