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花【短編小説版】

作者: えるま
掲載日:2026/03/17

 目を開くと、貴方の顔が見えた。

 窓から注ぐ光の中で、貴方は涙を流している。

 窓辺に置かれた僕の体は植物で、その涙を拭う事も出来なかった。


 周りを見渡すと、そこは真っ白な部屋。

 薄ピンクのカーテンとパイプのベッド、その上に綺麗に畳まれた布団。

 周りから聞こえてくる人の声に反して、目の前の整理整頓されたベッドの主は、もう戻ってこない。


 貴方は大切そうに僕を抱えて、その白い部屋を後にする。

 引っ越し先は小さな家。

 僕はその家の、あまり日当たりが良いとは言えない部屋の窓辺に置かれた。

 本棚とパソコンが置かれた机がある、少し散らかっている部屋。

 でも、貴方はそれを気にすることなく、換気のために窓を開く。

 カラカラという乾いた音と共に、僕の体に暖かい風が通った。


 時間が止まったような白い部屋では気づかなかった。

 もう、春になっていたんだ。

 少しだけ心が明るくなる。

 けれど、そっと目を向けた貴方の揺れる髪の間から見えた瞳には、静かに涙が零れていた。

 下を向く貴方の代わりに、僕は上を向く。

 窓の向こうには青い空、ゆっくり流れる雲、風はどこからか花の香りを連れてきている。


 ――ねぇ、こんな部屋にこもってないで、外に出かけた方が良いよ。とても気持ちが良さそうだよ。


 伝わる訳もないのに、僕は貴方に語りかけた。

 何もできない歯がゆさに、せめてこの柔らかい太陽の暖かさが、貴方の心に寄り添いますように。

 僕は祈る事しかできなかった。




 ここに越してきて、時間が少し経った。

 最近は、空気が湿って雨の日が増えていた。

 僕のいる部屋は、来た時のままの形を残している。

 あの白い部屋と同じように、この場所も時が止まっていることに今更気づいた。


 今日も貴方は、この部屋で椅子に座り、外を眺めていた。

 貴方の涙は枯れたのか、流れる量は減っていた。

 けれど、その分生気が無くなったかのように、瞳の光は陰っている。

 貴方の視線の先に僕も目を向けた。


 空は生憎の雨模様。

 窓に当たった雨粒が、右往左往と流れていく。


 雨音の合間、微かにスン、と音がした。

 音の方向に視線を移せば、貴方は両目から静かに涙を溢れさせていた。


 ハッとしたように、貴方は涙を手の甲で拭い始める。

 貴方の涙が流れ落ちて、僕の体に一粒落ちた。

 少しだけ熱を持ったそれは、すぐに冷めてしまう。

 雨の音より小さくすすり泣く貴方を、僕は励ますことさえできない。

 僕は自分自身を恥じることしかできなかった。



 ひとしきり泣いた貴方は、腫れぼったい目で僕を見る。

 乾いた土に気づいた貴方は、僕の鉢ごと持ち上げた。

 廊下を擦るように歩く音と軽く鼻を啜る音と共に、僕らは洗面所に向かう。


 水差しから水を注ぎ、受け皿に溜まった水を捨てていく。

 鉢底から少し飛び出した根から、水が伝って垂れていく。


 ぴちょん、ぴちょん……


 静かに響くその音に、僕は既視感を覚えた。

 水の音と、洗面シンクの白色と、動けない身体。


 もう無いはずの心臓が絞られる様に苦しくなっていくようで。

 この身体では感じないはずの耳鳴りが響いて景色が白んでいく。


 浮かんだ景色の先には白い部屋。

 風でなびくカーテン、その向こう側にいる緑の植物。


 ――あぁ、そうだったのか。


 僕は納得した。


 ――貴方の涙は、僕のせいだったんだね。


 戻った視界の先にいた、目の前の貴方を見上げた。


 ***


 僕は、布団を強く握った。


 ここに来て、しばらく経って、すっかり日常に変わってしまった白い部屋。

 隔離されたこの場所と、外界との繋がりが切れそうで酷く恐ろしい。


 見舞いの度に外の話をする貴方。

 肌が健康的に焼けていく貴方。


 僕の知らない話が増えていく。

 僕の肌はどんどん青白くなっていく。


 日に日に、その差が広まって、返事が相槌だけになっていく。


 貴方の笑顔は曖昧になって、疲労の色が増えていく。

 その様子を見ることが辛くなった。

 気を使われる度、僕の表情も硬くなっていく。


 飾られていた花束は、全て給湯室のごみ箱へ行った。

 唯一の繋がりである貴方がいなくなったら、僕は誰からも忘れられて消えてしまう。


 ――それならいっそ、一息で終わらせてくれれば……!!


 瞬間的に沸いた黒いモヤが、心の中で広まっていく。

 見るもの全てが怒りの対象になりそうで、僕は深く息を吸った。

 口からうめき声が漏れて、身を倒した。

 視界の布団に丸い染みがいくつも増えていく。

 布団を握る力が自然と強くなる。

 荒い息が落ち着いた先に、残った感情は悲しみだった。


 分かっている。

 この怒りの矛先は貴方じゃない。

 ただ不甲斐ない自分が嫌なだけだ。


 空白の時間は思考を悪化させる。

 現に今も、窓の向こうの晴天の青空にすら、嫌な気分になっている。

 そう思ってしまう自分自身に、僕は嫌気がさしていた。


 涙で歪んだ視界の先に、窓辺に置かれた観葉植物が見える。

 殺風景になったこの部屋に、貴方が持ってきてくれた唯一の生物。

 植物の世話が苦手な貴方が唯一面倒を見れる相手。


 与えられているのは同じなのに、明らかに僕の方が面倒だろう。

 体力も、気力も、僕は貴方から奪っている。

 溜まった涙が頬に流れ落ちた。

 はっきりと見えるようになったそれを、僕は羨んでいた。


 ――ずっと貴方の傍にいたい。

 ――けれど、負担にはなりたくない。


 わがままだと分かっていた。


 普通に傍にいれたって、負担にならない事はありえない。

 けれど、僕はその『普通』よりずっと、ずっと貴方に負担を掛けている。

 それなら、あの観葉植物のように、日陰の中でも強い、

 貴方にとって負担にならないものに、僕はなりたかった。


 ***


 水やりを終えた貴方は、僕をいつもの部屋の窓際に置いた。


 ――こんな部屋、早く片付けてしまえばいいのに。


 そこから見える部屋を眺めて、僕は思った。

 記憶を思い出した今、こんな僕のために泣いてくれる貴方を嬉しく思う。

 だけど、いなくなった僕を貴方の負担にしたくもなかった。


 傍にいられれば人間でなくても良いと思った。

 どんな格好でも貴方と一緒なら幸せだと思っていた。


 静かになった部屋で、再び椅子に腰かける貴方を見つめた。

 肩を落とした貴方の顔は、涙に塗れて力ない眼差しを浮かべていた。


 その肩を擦ってあげたい。

 励ます言葉を伝えたい。

 隣にいると手を絡めたい。

 貴方の熱を感じたい。


 傍にいるだけじゃダメだった。


 僕は貴方を見つめた。

 鼻を啜った貴方の髪が、一房揺れる。


 僕は貴方に与えられる存在になりたかった。

 僕は自分の本当の願いさえ、自覚ができていなかった。

 この身体では、それを叶えることはできない。


 ――本当に?


 僕は自分に問いかける。

 もう間違えたくはなかった。

 僕は貴方に何を与えられるだろう。

 もう一度考え始める。


 視界の先の、白くて細い貴方の手を見た。


 ***


 勇気を出して、貴方の手を握った。

 握ってから自分の手が汗っぽい気がして頬が熱くなっていく。

 緊張して、心臓の音がうるさくて、恐る恐る顔を上げた。


 はにかむ貴方の笑顔が見えた。


 縁日の屋台の薄暗い光の中でも、はっきりと。

 心臓が高鳴って、僕は貴方の事がもっと好きになった。


 その笑顔の為なら、何だって出来る気がした。

 何だってする筈だった。

 幸せにしたかった。


 でもそれは、この身体で叶わない。

 それなら、せめて貴方を笑顔にしたいと思った。


 心を定めた僕は、その日から植物の体に力を貯めはじめた。

 喜んでくれるだろうか。

 不安にならない日はない。

 けれど、これだけが僕の今出来る唯一の事だ。

 伝わらない言葉を貴方に掛けた。


 ――もうすぐ梅雨が明けて、夏が来るよ。




 祭囃子の音が、窓の向こうから微かに聞こえた。

 日当たりが悪い部屋とはいえ、夏の窓際は少し暑い。


 ――前は夕方になってから、一緒に出掛けたね。


 自然と心が躍って、誰もいない部屋で僕は呟く。

 今日の僕は、貴方が来るのを待っていた。

 擦った足音と、ドアの開く音に、僕は視線をそちらに向ける。


 ――来てくれた。


 椅子に腰かける手前で、貴方の動きが止まった。

 僕の体には、一輪の小さな花が咲いていた。

 力を貯めて、たった一輪だったけど。


 貴方は目を丸くして、僕を鉢ごと持ち上げた。

 至近距離でじっと見つめられる。

 ここまで顔を近づけられるのは久しぶりで、顔があったら赤くなっている。


「……綺麗だね」


 貴方は掠れた声で言った。

 こぼれそうな涙を目に溜めた、あの時よりも痩せた顔で優しく微笑んだ。


 その言葉で、表情で僕は胸が込み上げた。

 貴方が僕に与えてくれた百分の一も返せていない。

 自己満足の独りよがり。


 まだ貴方が笑えたことに安心した。

 嬉しかった。

 けれど、もう触れ合えない事が胸に刺さる。

 哀しかった。


 僕の胸がぐしゃぐしゃになる。


「せっかく花が咲いたなら、向こうに移ろうか」


 持ち上げられた僕の視点が、ゆっくり動き始めた。

 日当たりの悪い僕の部屋の扉を通り過ぎて、廊下からリビングへ向かう。


 ――移るのは、君もだよ。


 日陰から日向へ。

 僕がようやく咲かせたこの花が、貴方の何かのきっかけになりますように。

 貴方の足音を聞きながら、貴方の顔を覗き込んだ。

 陽の光を体で感じて、僕はどんどん微睡んでいく。


 僕の小さな鉢は、食卓に置かれた。

 懐かしくて、優しくて、温かい思い出に抱かれて。


 僕はゆっくりと目を閉じた。


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― 新着の感想 ―
文学的というやつですな!(*‘∀‘)
とても美しくきれいで、心に直接響く作品でした。 初めての経験だったのでうまく表現ができないのですが⋯⋯。 文字が頭の中に入ってきた時に、メロディーも同時に聞こえてきて。気付いたら涙を流していました。 …
感想一覧
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