花【短編小説版】
目を開くと、貴方の顔が見えた。
窓から注ぐ光の中で、貴方は涙を流している。
窓辺に置かれた僕の体は植物で、その涙を拭う事も出来なかった。
周りを見渡すと、そこは真っ白な部屋。
薄ピンクのカーテンとパイプのベッド、その上に綺麗に畳まれた布団。
周りから聞こえてくる人の声に反して、目の前の整理整頓されたベッドの主は、もう戻ってこない。
貴方は大切そうに僕を抱えて、その白い部屋を後にする。
引っ越し先は小さな家。
僕はその家の、あまり日当たりが良いとは言えない部屋の窓辺に置かれた。
本棚とパソコンが置かれた机がある、少し散らかっている部屋。
でも、貴方はそれを気にすることなく、換気のために窓を開く。
カラカラという乾いた音と共に、僕の体に暖かい風が通った。
時間が止まったような白い部屋では気づかなかった。
もう、春になっていたんだ。
少しだけ心が明るくなる。
けれど、そっと目を向けた貴方の揺れる髪の間から見えた瞳には、静かに涙が零れていた。
下を向く貴方の代わりに、僕は上を向く。
窓の向こうには青い空、ゆっくり流れる雲、風はどこからか花の香りを連れてきている。
――ねぇ、こんな部屋にこもってないで、外に出かけた方が良いよ。とても気持ちが良さそうだよ。
伝わる訳もないのに、僕は貴方に語りかけた。
何もできない歯がゆさに、せめてこの柔らかい太陽の暖かさが、貴方の心に寄り添いますように。
僕は祈る事しかできなかった。
ここに越してきて、時間が少し経った。
最近は、空気が湿って雨の日が増えていた。
僕のいる部屋は、来た時のままの形を残している。
あの白い部屋と同じように、この場所も時が止まっていることに今更気づいた。
今日も貴方は、この部屋で椅子に座り、外を眺めていた。
貴方の涙は枯れたのか、流れる量は減っていた。
けれど、その分生気が無くなったかのように、瞳の光は陰っている。
貴方の視線の先に僕も目を向けた。
空は生憎の雨模様。
窓に当たった雨粒が、右往左往と流れていく。
雨音の合間、微かにスン、と音がした。
音の方向に視線を移せば、貴方は両目から静かに涙を溢れさせていた。
ハッとしたように、貴方は涙を手の甲で拭い始める。
貴方の涙が流れ落ちて、僕の体に一粒落ちた。
少しだけ熱を持ったそれは、すぐに冷めてしまう。
雨の音より小さくすすり泣く貴方を、僕は励ますことさえできない。
僕は自分自身を恥じることしかできなかった。
ひとしきり泣いた貴方は、腫れぼったい目で僕を見る。
乾いた土に気づいた貴方は、僕の鉢ごと持ち上げた。
廊下を擦るように歩く音と軽く鼻を啜る音と共に、僕らは洗面所に向かう。
水差しから水を注ぎ、受け皿に溜まった水を捨てていく。
鉢底から少し飛び出した根から、水が伝って垂れていく。
ぴちょん、ぴちょん……
静かに響くその音に、僕は既視感を覚えた。
水の音と、洗面シンクの白色と、動けない身体。
もう無いはずの心臓が絞られる様に苦しくなっていくようで。
この身体では感じないはずの耳鳴りが響いて景色が白んでいく。
浮かんだ景色の先には白い部屋。
風でなびくカーテン、その向こう側にいる緑の植物。
――あぁ、そうだったのか。
僕は納得した。
――貴方の涙は、僕のせいだったんだね。
戻った視界の先にいた、目の前の貴方を見上げた。
***
僕は、布団を強く握った。
ここに来て、しばらく経って、すっかり日常に変わってしまった白い部屋。
隔離されたこの場所と、外界との繋がりが切れそうで酷く恐ろしい。
見舞いの度に外の話をする貴方。
肌が健康的に焼けていく貴方。
僕の知らない話が増えていく。
僕の肌はどんどん青白くなっていく。
日に日に、その差が広まって、返事が相槌だけになっていく。
貴方の笑顔は曖昧になって、疲労の色が増えていく。
その様子を見ることが辛くなった。
気を使われる度、僕の表情も硬くなっていく。
飾られていた花束は、全て給湯室のごみ箱へ行った。
唯一の繋がりである貴方がいなくなったら、僕は誰からも忘れられて消えてしまう。
――それならいっそ、一息で終わらせてくれれば……!!
瞬間的に沸いた黒いモヤが、心の中で広まっていく。
見るもの全てが怒りの対象になりそうで、僕は深く息を吸った。
口からうめき声が漏れて、身を倒した。
視界の布団に丸い染みがいくつも増えていく。
布団を握る力が自然と強くなる。
荒い息が落ち着いた先に、残った感情は悲しみだった。
分かっている。
この怒りの矛先は貴方じゃない。
ただ不甲斐ない自分が嫌なだけだ。
空白の時間は思考を悪化させる。
現に今も、窓の向こうの晴天の青空にすら、嫌な気分になっている。
そう思ってしまう自分自身に、僕は嫌気がさしていた。
涙で歪んだ視界の先に、窓辺に置かれた観葉植物が見える。
殺風景になったこの部屋に、貴方が持ってきてくれた唯一の生物。
植物の世話が苦手な貴方が唯一面倒を見れる相手。
与えられているのは同じなのに、明らかに僕の方が面倒だろう。
体力も、気力も、僕は貴方から奪っている。
溜まった涙が頬に流れ落ちた。
はっきりと見えるようになったそれを、僕は羨んでいた。
――ずっと貴方の傍にいたい。
――けれど、負担にはなりたくない。
わがままだと分かっていた。
普通に傍にいれたって、負担にならない事はありえない。
けれど、僕はその『普通』よりずっと、ずっと貴方に負担を掛けている。
それなら、あの観葉植物のように、日陰の中でも強い、
貴方にとって負担にならないものに、僕はなりたかった。
***
水やりを終えた貴方は、僕をいつもの部屋の窓際に置いた。
――こんな部屋、早く片付けてしまえばいいのに。
そこから見える部屋を眺めて、僕は思った。
記憶を思い出した今、こんな僕のために泣いてくれる貴方を嬉しく思う。
だけど、いなくなった僕を貴方の負担にしたくもなかった。
傍にいられれば人間でなくても良いと思った。
どんな格好でも貴方と一緒なら幸せだと思っていた。
静かになった部屋で、再び椅子に腰かける貴方を見つめた。
肩を落とした貴方の顔は、涙に塗れて力ない眼差しを浮かべていた。
その肩を擦ってあげたい。
励ます言葉を伝えたい。
隣にいると手を絡めたい。
貴方の熱を感じたい。
傍にいるだけじゃダメだった。
僕は貴方を見つめた。
鼻を啜った貴方の髪が、一房揺れる。
僕は貴方に与えられる存在になりたかった。
僕は自分の本当の願いさえ、自覚ができていなかった。
この身体では、それを叶えることはできない。
――本当に?
僕は自分に問いかける。
もう間違えたくはなかった。
僕は貴方に何を与えられるだろう。
もう一度考え始める。
視界の先の、白くて細い貴方の手を見た。
***
勇気を出して、貴方の手を握った。
握ってから自分の手が汗っぽい気がして頬が熱くなっていく。
緊張して、心臓の音がうるさくて、恐る恐る顔を上げた。
はにかむ貴方の笑顔が見えた。
縁日の屋台の薄暗い光の中でも、はっきりと。
心臓が高鳴って、僕は貴方の事がもっと好きになった。
その笑顔の為なら、何だって出来る気がした。
何だってする筈だった。
幸せにしたかった。
でもそれは、この身体で叶わない。
それなら、せめて貴方を笑顔にしたいと思った。
心を定めた僕は、その日から植物の体に力を貯めはじめた。
喜んでくれるだろうか。
不安にならない日はない。
けれど、これだけが僕の今出来る唯一の事だ。
伝わらない言葉を貴方に掛けた。
――もうすぐ梅雨が明けて、夏が来るよ。
祭囃子の音が、窓の向こうから微かに聞こえた。
日当たりが悪い部屋とはいえ、夏の窓際は少し暑い。
――前は夕方になってから、一緒に出掛けたね。
自然と心が躍って、誰もいない部屋で僕は呟く。
今日の僕は、貴方が来るのを待っていた。
擦った足音と、ドアの開く音に、僕は視線をそちらに向ける。
――来てくれた。
椅子に腰かける手前で、貴方の動きが止まった。
僕の体には、一輪の小さな花が咲いていた。
力を貯めて、たった一輪だったけど。
貴方は目を丸くして、僕を鉢ごと持ち上げた。
至近距離でじっと見つめられる。
ここまで顔を近づけられるのは久しぶりで、顔があったら赤くなっている。
「……綺麗だね」
貴方は掠れた声で言った。
こぼれそうな涙を目に溜めた、あの時よりも痩せた顔で優しく微笑んだ。
その言葉で、表情で僕は胸が込み上げた。
貴方が僕に与えてくれた百分の一も返せていない。
自己満足の独りよがり。
まだ貴方が笑えたことに安心した。
嬉しかった。
けれど、もう触れ合えない事が胸に刺さる。
哀しかった。
僕の胸がぐしゃぐしゃになる。
「せっかく花が咲いたなら、向こうに移ろうか」
持ち上げられた僕の視点が、ゆっくり動き始めた。
日当たりの悪い僕の部屋の扉を通り過ぎて、廊下からリビングへ向かう。
――移るのは、君もだよ。
日陰から日向へ。
僕がようやく咲かせたこの花が、貴方の何かのきっかけになりますように。
貴方の足音を聞きながら、貴方の顔を覗き込んだ。
陽の光を体で感じて、僕はどんどん微睡んでいく。
僕の小さな鉢は、食卓に置かれた。
懐かしくて、優しくて、温かい思い出に抱かれて。
僕はゆっくりと目を閉じた。




