第5章 未出動火災
火は、起きたか起きなかったかではなく、
来たか来なかったかを覚えている。
サイレンが鳴り、
人が集まり、
火が消される夜。
それが「正しい夜」だと、
町は信じている。
だが、音が鳴らなかった夜。
誰も向かわなかった火事。
記録に残らなかった出動。
それらは、本当に
なかったことになるのだろうか。
本書は、
火を消す側にいた人間が、
来なかった夜の続きを見てしまう物語である。
もしあなたがこの先を読むなら、
どうか覚えていてほしい。
火は、
間に合わなかったことを
決して忘れない。
詰所の倉庫には、
誰も開けなくなった棚がある。
古い防火服。
使われなくなったホース。
そして、段ボール箱に詰められた紙の束。
私は、その箱を開けていた。
きっかけは、
二十年前の名簿に挟まっていた一行のメモだった。
【当日、出動者十三名】
出動していないはずの夜に、
なぜ「出動者」がいるのか。
答えは、
さらに古い記録の中にあった。
その火事は、
町外れで起きている。
今はもう、
地図にも載らない場所だ。
日付。
時刻。
原因。
原因の欄は、空白だった。
代わりに、
赤鉛筆で丸がつけられている。
備考欄には、
短い一文だけが書かれていた。
【サイレン作動せず】
私は、息を止めた。
サイレンが鳴らなければ、
消防団は集まらない。
出動もしない。
つまり、その夜――
誰も行かなかった。
だが、
火事は起きている。
家は全焼。
焼死者、三名。
名前を見て、
私は椅子に座り込んだ。
団員の名前だった。
当時の消防団員。
そして、その家族。
なぜ、行かなかった。
なぜ、鳴らなかった。
記録は、それ以上のことを語らない。
翌日、
私は佐藤に聞いた。
「二十年前の火事、覚えてるか」
佐藤は、
一瞬だけ黙った。
「……ああ」
それだけで、
すべて分かった。
「サイレン、鳴らなかったんだ」
「そうだ」
佐藤は、
視線を落とした。
「故障だって、言われた」
「本当に?」
「……」
答えは、なかった。
その夜の話は、
団の中で、誰も口にしない。
ただ、
一人だけ、来なかった。
その一人が、
団員だった。
だから、
十三人で済ませた。
私は、
喉が渇いて仕方がなかった。
火は、
その夜を覚えている。
来るはずだった数を。
鳴るはずだった音を。
そして、
来なかったことを。
だから、
数を揃えに来ている。
遅れてでも。
順番に。
詰所を出ると、
夜風が冷たかった。
遠くで、
サイレンの試験音が鳴っている。
短く、
不自然な音。
私は、
確信していた。
次に燃える場所は、
もう選ばれている。
火は、
置いていかれた夜を、迎えに来ている。
火が怒っているのだと思うと、
この物語は分かりやすい。
復讐だと思えば、
納得もしやすい。
だが、
火は怒っていない。
恨んでもいない。
ただ、
置き去りにされた夜を、そのままにしていない。
未出動火災とは、
判断の結果であり、
選択の記録であり、
多くの場合、
正しかったとされる決断だ。
それでも、
行かなかったという事実は残る。
鳴らなかった音。
来なかった数。
揃わなかった点呼。
それらは、人の側では整理できても、
火の側では終わらない。
本作の怪異は、
人を裁かない。
正しさを問わない。
ただ、
来るはずだった数を、揃えに来る。
もしこの物語を読み終えたあと、
夜にサイレンが鳴って、
「間に合った」と
無意識に思ってしまったなら――
それが、この物語の答えだ。
火は消える。
だが、
来なかった夜は、消えない。




