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ヘッドホン・エスケープ  作者: リル
第十一話:境界に咲く灯
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Scene4|揺らぐ日常、残響の記憶

再び立った教室。けれどその景色は、もう完全な現実ではなかった。


黒板のチョークの跡はにじみ、教室の隅に置かれた椅子の影は歪んでいる。

窓の外に映るはずの風景が曖昧になり、アヤや泉大津ちゃんの姿も、まるで夢の名残のように霞んで見えた。


「ロロくん……わたし、なんだか……忘れちゃいそう……」


アヤの声は、夢の中の囁きのように遠い。その言葉に、ロロは胸を締めつけられる。


──これが、代償。

物語を灯せば、現実が削れる。日常と物語の狭間で、ロロは静かに、その“終わり”を知った。


机の上にあったはずの教科書は、白紙のページになっていた。

活字の痕跡すらないその紙は、“まだ書かれていない未来”ではなく、“誰にも読まれなかった過去”のようだった。


ロロはそっと、それを閉じた。

パタン、という音が教室に響いたが、それすらも、どこか遠い出来事のようにぼやけていた。


振り向けば、泉大津ちゃんの机には、彼女が愛用していた黒いペンが一本だけ残されていた。

それに触れようとした瞬間、空気がピリリと震える。


視線を感じた。

誰もいないはずの教室で、誰かに見られているような、ぞわりとした感覚。


「……これは、もう、自分の現実じゃない」


呟いたロロの声も、まるで他人の記憶のように遠くで反響していた。


主のいない教室。

そこにはもう、日常の輪郭すら残っていなかった。

ただ、誰かがそこにいた証のような、静かな温かさだけが名残のように漂っていた。


ふと、風が吹く。

どこからともなく現れた風が、ロロのノートのページを一枚だけ、そっとめくる。


パラリ。


その音に、ロロははっと息をのむ。


開かれたページには、見たことのない一文が書かれていた。


『“今”を描くことで、“ここ”が生まれる』


ロロはその言葉を見つめながら、もう一度、自分の足元を確かめる。


──たしかに、ここに“いた”という感覚。

でもそれはもう、“戻れる場所”ではない。


次の瞬間、窓の外の景色がゆっくりと広がる。

まるで幕が開くように、曇ったガラスの向こうから光が差し込んできた。


その光は柔らかく、風鈴の音、ノートに走るペン先の音、物語を紡ぐ音を連れてきた。


──音が、戻ってきている。


それはロロの創作の証。

かつて彼がこの世界を築いた、その痕跡だった。


チョークの跡が線を結び、椅子の影が真っ直ぐになり、窓の外の木々が風に揺れる。

教室は、もう一度“形”を取り戻そうとしていた。


「自分は……ここにいた」


ロロは呟いた。


アヤの声が、もう一度だけ聞こえた。


「ロロくん……ありがとう。わたしたち、物語になっても、君の中で生きていられるから」


その声は温かく、しかし、かすかな哀しみを帯びていた。


ロロは席に戻り、ノートを開いた。

真っ白なページの上に、ペンをそっと置く。


──物語を、綴るために。


そして、その瞬間、彼ははっきりと理解した。


もう、ここには戻れないのだと。


この教室も、あの昼休みも、誰かと笑いあった日々も。

すべては、彼の“選択”によって、物語になった。


描かれ、閉じられ、誰かに読まれることを待つ、取り戻せない日常として。


ページの向こうに、微かな余韻が残る。


それはまるで、夢の終わりに残るあたたかさ。

けれど決して、手の中にはもう戻ってこない温度だった。


ロロは目を伏せる。

寂しさが、胸に静かに灯る。


──それでも、ページは待っている。

その物語が、誰かに読まれるその日まで。

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