Scene4|揺らぐ日常、残響の記憶
再び立った教室。けれどその景色は、もう完全な現実ではなかった。
黒板のチョークの跡はにじみ、教室の隅に置かれた椅子の影は歪んでいる。
窓の外に映るはずの風景が曖昧になり、アヤや泉大津ちゃんの姿も、まるで夢の名残のように霞んで見えた。
「ロロくん……わたし、なんだか……忘れちゃいそう……」
アヤの声は、夢の中の囁きのように遠い。その言葉に、ロロは胸を締めつけられる。
──これが、代償。
物語を灯せば、現実が削れる。日常と物語の狭間で、ロロは静かに、その“終わり”を知った。
机の上にあったはずの教科書は、白紙のページになっていた。
活字の痕跡すらないその紙は、“まだ書かれていない未来”ではなく、“誰にも読まれなかった過去”のようだった。
ロロはそっと、それを閉じた。
パタン、という音が教室に響いたが、それすらも、どこか遠い出来事のようにぼやけていた。
振り向けば、泉大津ちゃんの机には、彼女が愛用していた黒いペンが一本だけ残されていた。
それに触れようとした瞬間、空気がピリリと震える。
視線を感じた。
誰もいないはずの教室で、誰かに見られているような、ぞわりとした感覚。
「……これは、もう、自分の現実じゃない」
呟いたロロの声も、まるで他人の記憶のように遠くで反響していた。
主のいない教室。
そこにはもう、日常の輪郭すら残っていなかった。
ただ、誰かがそこにいた証のような、静かな温かさだけが名残のように漂っていた。
ふと、風が吹く。
どこからともなく現れた風が、ロロのノートのページを一枚だけ、そっとめくる。
パラリ。
その音に、ロロははっと息をのむ。
開かれたページには、見たことのない一文が書かれていた。
『“今”を描くことで、“ここ”が生まれる』
ロロはその言葉を見つめながら、もう一度、自分の足元を確かめる。
──たしかに、ここに“いた”という感覚。
でもそれはもう、“戻れる場所”ではない。
次の瞬間、窓の外の景色がゆっくりと広がる。
まるで幕が開くように、曇ったガラスの向こうから光が差し込んできた。
その光は柔らかく、風鈴の音、ノートに走るペン先の音、物語を紡ぐ音を連れてきた。
──音が、戻ってきている。
それはロロの創作の証。
かつて彼がこの世界を築いた、その痕跡だった。
チョークの跡が線を結び、椅子の影が真っ直ぐになり、窓の外の木々が風に揺れる。
教室は、もう一度“形”を取り戻そうとしていた。
「自分は……ここにいた」
ロロは呟いた。
アヤの声が、もう一度だけ聞こえた。
「ロロくん……ありがとう。わたしたち、物語になっても、君の中で生きていられるから」
その声は温かく、しかし、かすかな哀しみを帯びていた。
ロロは席に戻り、ノートを開いた。
真っ白なページの上に、ペンをそっと置く。
──物語を、綴るために。
そして、その瞬間、彼ははっきりと理解した。
もう、ここには戻れないのだと。
この教室も、あの昼休みも、誰かと笑いあった日々も。
すべては、彼の“選択”によって、物語になった。
描かれ、閉じられ、誰かに読まれることを待つ、取り戻せない日常として。
ページの向こうに、微かな余韻が残る。
それはまるで、夢の終わりに残るあたたかさ。
けれど決して、手の中にはもう戻ってこない温度だった。
ロロは目を伏せる。
寂しさが、胸に静かに灯る。
──それでも、ページは待っている。
その物語が、誰かに読まれるその日まで。




