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ヘッドホン・エスケープ  作者: リル
第十話:忘れられた輪郭
36/45

Scene 3|記されぬ後の、鼓動

夜の庭。灯火が静かに揺れ、霧のような空気が淡く震えていた。

ロロは、先ほどの決意を胸にノートを胸へ抱えたまま、足を進める。

ページは空白――それは、「書かれていない未来」の象徴だった。


彼の中で、何かがざわめいた。

過去の記憶。感情。名も知らぬ声。

しかしそれらはもう――戻らない。

それでも──胸の奥で、小さな鼓動がまた始まっていた。


「失ったものは、もう戻らないかもしれない」

ロロは低くつぶやく。

月光も星影もない。 ただ、空虚な夜。

かつてそこで鳴っていたはずの音も、光も、すべて消えていた。


だが――


「それでもいい。今度は、僕が綴る。君たちが帰るための物語を」


その言葉にかすかな暖かさが混ざった。


ロロはページをひらき、ペンを取り直す。

インクは黒く、重く、しかし確かな温度を帯びていた。


そして――


「あるひとつの声が、夜を抜けて 僕のもとへ還る」


という一文を書いた。


書き終えた瞬間、世界が震えた。

灯火がひとつ、またひとつ、鮮やかに色を取り戻し始めた。

かすかな旋律が流れ、風が庭を吹き抜ける。


それは古びた教室の机のざらつき。

閉ざされた廊下の冷たさ。

忘れられた教科書の匂い。


――しかしそれらは、“記憶”ではなく、“物語”として蘇っていた。


ロロはページをめくり、新たに文字を書き足す。

失われた感情、消えた名前、忘れかけた夢。

それらを一つずつ、丁寧に、静かに。


ペン先が止まるたび、灯火は一つずつ輝きを増した。

霧のようだった世界に、色と音と温度が蘇る。


そして――


遠くで、小さな声が聞こえた。


「――ありがとう」


それは誰かの、祈りのような声。

でも、確かに彼に届いた。


ロロは目を閉じ、胸の奥を感じた。

そこには、かつて失ったはずの“何か”が、微かに、だけれど確かに存在していた。


それは……希望。


失ったものは――もう戻らないかもしれない。

それでも、俺は。


「また……始める」


ロロの描くその一行が、庭の夜を、静かな鼓動で満たした。

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