Scene 2|継がれる言葉
庭の夜風は、記憶の破片をそっと撫でるように吹いた。
澄んだ闇の中、少女はロロの視線の先で、ふっと微笑んだ──ような気がした。
その顔は依然としてぼんやりとしていた。だけど、灯火の淡い光がその輪郭を、まるで祝福するように優しく照らしていた。
「あなたが失くしたのは――物語だけじゃない。想い、祈り、そして“声”」
彼女の声は、庭を包む夜気と混ざり合って、耳の奥で震えた。
遠い記憶の底から呼び覚まされる、子守唄のような温度。
ロロは重く抱えたノートを見つめる。
──なぜ、自分はあれほど大切なものを、忘れていたのか。
問いの答えは長く、彼の中ではずっと見つからなかった。
けれど、今。庭の灯火と向き合うその瞬間、ほんのかすかな光が見えてきた。
それは――守るためだった。
創った物語を。語られた記憶を。
大切に抱きしめた思い。それらを――ある日、壊れそうだと感じたとき。
ロロは、自らの記憶を鍵にして、それらすべてを “箱” に封じ込んだのだ。
誰にも壊されぬように。誰にも奪われぬように。
だけど同時に――それは、
物語を、声を、永遠に “止める” ということだった。
灯火の揺れる音が、記憶の断片をやさしく包み込む。
光を放つそのページは、いまだ真っ白。
だが――それこそが、待ち続けた証。
語られるべき物語、灯されるべき声たち。
ロロは、そっと手を伸ばした。
「……名前を、書けばいいのか?」
問いかける声は震えていた。
少女は首をゆるやかに振る。
口元は見えないけれど──その声には確かな静けさと、揺るぎない意志が宿っていた。
「名前を決めるのは、彼ら自身。あなたはただ、“語られる準備”を整えてあげればいい」
そして、そのとき――
庭の灯火がひとつ、音もなく地へと落ちた。
草は焼けず、炎は上がらなかった。
代わりに、その場所から小さな芽が顔を出す。
夜露を含んだ細かな緑が、土の上にそっと息吹いた。
「物語は、灯から芽吹く。 そして、育つのは――誰かの心。 その鼓動が続く限り、語られなかった声は、また息を吹き返す」
ロロはその小さな芽を見つめた。
背後で、ノートがほのかに震えたような気がした。
ロロはページを開き、ペンを握る――だが、すぐには書き出さなかった。
その代わりに、空気に耳を澄ます。
胸に宿る鼓動に耳を澄ます。
「……俺は。――ちゃんと、“聞く”よ」
その言葉に、夜風が応えたように、灯火が穏やかに揺れた。
少女は、宙へと溶けるように静かに消えた。
けれど、彼女の残した余白の残響は、ロロの中にしっかりと残っていた。
灯は――消えていなかった。
どんなに深い闇に呑まれても、必ずまた灯される。
ロロはその灯を抱いて立ち上がった。
──これから、始まる。
記されなかった声に、
閉ざされていた物語に、
そして――読まれるべき未来に。




