Scene 1|灯火の名を呼ぶ者
扉を押すと、金属の冷たい鳴きが微かに響いた。次の瞬間──世界が音を失い、そしてゆっくりと目を覚ました。
両脇に並ぶ扉たちの無言の影。その壁は白く、しかしどこか硝子のように薄く、壊れやすそうだった。ロロの手のひらに抱えられたノートの重みが、静かに彼の背中を押す。どれを選ぶかは、すでに決まっていたのだ。
彼は、最も古び、取っ手が錆びついた扉に指をかけた。かすれた手応えが指先を震わせる。錆の匂いと、遠い記憶のような既視感。鼓膜の奥で何かが共鳴した。
──その扉を開けるのは、忘れられた声への挨拶だ。
軋むような音とともに、闇がはじけ、空気が揺らぎ、次いで静かな夜明け前の庭が広がった。湿った草の匂い。淡い露。昼ではない、夜明けでもない――境界に浮かぶ庭園。淡い青と銀が混ざる静寂の空間に、灯火が浮かぶ。
その灯火は、まるで囁き合うように、互いに呼吸するように、柔らかく瞬いていた。
一つ一つ、その揺らめきが色を帯び始める。
赤。瑠璃。翡翠。 淡い硝子のような色。
そのひとつひとつが、かつて忘れられた──でも確かにあった物語たち。
ロロは、庭の中央に立つ白ローブの少女に気づいた。
彼女の顔は見えなかった。ただ、柔らかな黒髪が月のように淡く光り、肩にかかる布には微かな風が渡る。足音は聞こえない。けれど、彼女が歩む度に、庭の灯火たちが応えるように揺れ、色を変えた。
「──あなたは?」
ロロの声が限りなく小さく、しかしこの場所では喧騒よりも確かな音になった。
少女はゆっくり振り返った。瞳は見えない。けれど、その声は、思い出の底から浮かび上がったような、痛みと優しさを帯びたものだった。
「私は、“忘れられた者”。 だけど、ここでずっと、灯を抱えていた」
その言葉が、夜明けの庭に淡く散る露のように、静かに、しかし確かに落ちた。
灯火のひとつが、淡い瑠璃の光を強める。
それは、小さな声。記憶の欠片。
「君が“書かなかった物語”は──まだ、眠っている」
そのとき、ロロの胸に冷たいものが刺さった。
「……俺は、忘れていた。すべて、自分で閉じたんだ」
少女はそっと、彼の手に自分の細い指を重ねた。紙のページを開くように、そっと。
「でも、いまは違う――あなたは扉を開いた。名を呼び、物語を救うために」
ノートの表紙が、やわらかな光を帯び始めた。
それは、これまで封じられていた記憶と声の集合。
そしてそれを再び紡ぐための “灯” の合図。
ロロは、胸の奥に眠っていたなにかの鼓動に気づいた。
それは、忘れたはずの――渇いた筆跡の記憶。
「この場所は――境界」
少女の声が風のように響いた。
「記憶と忘却。創造と沈黙。
その狭間で、物語は選ばれる」
ロロはゆっくり頷いた。
胸に抱いたノートが、彼の鼓動とともに震える。
――届かなかった声たちへ。
――書かれなかった物語たちへ。
彼の中で、小さく、しかし確かな火が灯り始めた。
まだ――終わりではない。
この“境界の庭”から、すべてを取り戻すための歩みが、静かに、そして確実に。




