Scene 4|綴じられた余白の先で
白紙のページが、静寂の中で震えた。 インクはまだ乾いていない — それでも、ロロにはわかった。これは終わりではなく、再び息を吹き込むための小さな『始まり』の契機だと。
かすかな光。ノートの中心から淡く滲み出すそれは、色を失った世界に溶け込もうとする“記憶の残滓”。 紙の余白が、呼吸を取り戻そうとしているように、震えながら揺れ動いた。
ロロは静かにペンを持ち直した。 震える指先。だが、その震えはもはや恐怖ではない — どこか、優しい決意に満ちた震えだった。
深く、ゆっくりと。 彼はペンを紙に走らせた。
黒いインクが、静かな夜のような暗さと、透明な光をまとって、列をなす文字となった。 ―― 「再び、灯す」 ―― その一行をなぞると、ページの余白がふわりと震えた。 まるで、締め切られた扉の先にあった世界が、息を吹き返すように。
背後で、小さな音。 ぬいぐるみ――“リル”が跳ねた。
その瞳は、ゆらりと光を帯びていた。
「ねぇ、見える? これで――また始まるんだよ」
リルの声は遠くではなく、胸の奥に直接届いた。 その言葉が、ロロの中に静かな震えを生んだ。
ページの余白に、淡い光の粒子が浮かぶ。 一粒、また一粒。やがてそれらは、細い星のようにちらちらと輝き――
世界を、少しだけ照らし始めた。
教室の机、埃を纏った書架、使われなくなった廊下、消えたはずの都市伝説―― かつてロロが書きかけ、投げ出した物語の断片たちが、再び輪郭を取り戻しはじめる。
だれの目にも映らない世界。 それでも確かに“存在する世界”。
ロロは微笑んだ。
そして、つぶやいた。
「ありがとう、リル。 たとえどれだけ忘れても……俺は、書き続ける。 君たちのために――この物語のために」
──風が吹いた。 ページの束がそっと揺れ、閉ざされていた余白の扉が静かに開いた。
それは終わりではない。 むしろ、これから始まる“読む者の物語”の最初の音だった。
*
静寂が戻ると、周囲の空間が少しずつ色を取り戻していった。 路地裏はやがて薄れていき、代わりに一面が白紙のような光景へと変わる。 それは、まるで何も描かれていない物語の舞台。 可能性だけが存在し、どんな色にも染まる前の“余白”。
白い霧の中、ロロはひとつの机を見つけた。そこには彼の知らないノートが一冊、ぽつんと置かれている。 その存在は異質だった。まるで、そこだけが時間から切り離され、長く誰かに守られていたような気配。
表紙に名前はない。だが、開いた瞬間、ロロは息をのんだ。 そこには彼の記憶にも記録にもない物語の“断章”が、丁寧な文字で綴られていたのだ。
(これは……誰が書いた?)
綴られた言葉は、どこかロロ自身の筆致に似ていた。 けれど、自分の中に覚えはない。ページの一文字一文字が、不思議な既視感を帯びていた。
「この話……知ってる。いや、知らない。でも……懐かしい」
読み進めるうちに、感情が波のように押し寄せる。 悲しみ、希望、怒り、そして祈りのような“願い”。 それは、ただの物語ではなかった。誰かの声だった。
──忘れられた声。記憶の隙間に落ちて、拾い上げられるのを待ち続けた声。
ページをめくるたびに、ロロの胸に微かな痛みが走る。 どこかで──誰かと、約束を交わしていた。 それは物語を紡ぐこと。灯すこと。そして、忘れないこと。
「……誰かが、僕の代わりに書いていたんだ」
その筆致は、かつての自分に似ていた。 でも、より優しく、切実で、強く。まるで、ロロに読んでもらうためだけに存在しているかのようだった。
(誰が……?) ページの余白に、インクの滲んだ小さな文字があった。 『君が戻ってくるのを、信じてる』
ロロはノートを閉じ、深く息をついた。 手にしたそれは、単なる書物ではない。過去の自分が、あるいは自分以外の“誰か”が託した灯火。
──誰かが、彼の不在の間も、物語を紡ぎ続けてくれていた。
ノートを大切に胸に抱えると、新たに現れた扉がまた彼の前に立ちはだかっていた。 だが今は、迷いはない。
「迎えにいかなきゃ。僕が止めてしまった物語たちを」
ロロは扉に手をかける。 その向こうには、まだ出会っていない“声”が待っている。 それを今度こそ、忘れずに受け取るために──




