Scene 3|影喰らいの伝承
静寂が変質した。
ただの“音の消えた空間”だったはずなのに、そこに異物が混じったような──湿った、重たい“視線”の気配。
ロロは反射的に息を止めた。
その気配に触れた瞬間、周囲の景色が曖昧ににじみ始める。
蔵書室の壁も床も、ゆっくりと色を失い、代わりに薄暗い街角が浮かび上がってきた。
電灯の切れた古い電柱。雨上がりに濡れたアスファルト。
誰も通らない路地裏──。
(……これ、どこかで……)
アヤが語った都市伝説“合わせ鏡の夜”を連想したが、それ以上に、ロロにはもっと強烈な既視感があった。
──“自分が書いた物語の一部”。
路地裏の奥で、影が立っていた。
人の形のようで、違う。
輪郭が常に揺れていて、顔は墨を垂らしたように黒く塗りつぶされている。
存在の境界がずるずると崩れ、けれど確かに“そこにある”。
ロロの背筋をひやりと冷たいものが走った。
(……影喰らい)
かつて彼が軽い思いつきで書いた、読まれなかった都市伝説。
“人の影を盗み、存在を薄めていく怪異”。
ひとつの物語として完結すらさせず、ノートの隅に放置していたもの。
「……なんで、ここに……?」
影は答えなかった。
だが、ロロを“知っている”目で見つめていた。
次の瞬間──音がすべて消えた。
呼吸すら空気に吸い込まれるような、完全な無音。
ただ、その沈黙の裏側で、“何か”がロロに近づいてくる確かな気配だけが息づいていた。
逃げなきゃいけない。
そう思うのに、足は地面に縫い付けられたように動かなかった。
そのとき、ページがひとりでにめくれる音がした。
ロロのノートに、新しく文章が浮かび上がっていく。
『読まれなかった物語は、やがて現実を喰らう』
ロロは目を見開いた。
胸に走ったのは恐怖ではなく──責任だった。
自分こそが、この影を生んだ張本人なのだ、という。
「……俺が書いたんだ。
なら……俺が、どうにかしないと」
影がにじむように歩み寄る。
存在の輪郭が波紋のように広がり、ロロの影へと触れようとした。
ロロはノートを握りしめ、震える息を整える。
そうだ。
“創造主”が創った存在なら──“名”を与えることで輪郭を取り戻せる。
リルの言葉が脳裏をかすめた。
『言葉を灯すのは、いつだって君だよ』
ロロはページにペンを走らせた。
『ミザリー』
影が、激しく歪んだ。
名を得たことで輪郭が固定され、そして──破裂するように霧散した。
黒い残滓が空気へ吸い込まれ、沈黙の空間にわずかな“音”だけが戻る。
ロロは膝に手をつき、ゆっくりと息を吐いた。
まだ終わっていない。
まだ、この世界には──
“見捨てられた物語たち”が眠っている。
それらが彼を待っている。
ロロはノートを強く抱きしめた。




