Scene2|白紙の扉、その先で
白い扉を開いた瞬間、視界が滲んだ。
眩しいわけでも、暗いわけでもない。
ただ、“音”だけが空間を満たしていた。
波紋のように広がる、微かな旋律。
雨の滴が水面に落ちるように、ひとつひとつが彼の心に染み込んでいく。
ロロは一歩、足を踏み出す。
そこは図書館でも、教室でもなかった。
どこか懐かしい、けれど形を持たない“記憶”の風景。
空は存在せず、地面も曖昧だった。
ただ、彼の歩みに合わせて床が現れ、背後には音が残った。
それはまるで、音が“道”を創っているかのようだった。
その道の先、霧のような空間の奥に、人影が見えた。
ぼんやりとした輪郭。ヘッドホンを着けた少年──
ロロは言葉を呑んだ。
声にはできなかった。
でも、確かに“知っている”存在。
その少年は、ただ静かにロロの方へ顔を向ける。
口は動かない。けれど、確かに言葉が響いた。
「君の声を、ずっと待ってた」
──その名を思い出しそうになる直前、空間が揺らいだ。
誰かがページを捲るような音。
その音と共に、足元にノートが落ちていた。
開かれたページには、こう書かれていた。
『物語を、もう一度』
ロロは膝をついてそのノートを拾う。
かすかに震える指先。風が吹いた。
声が、旋律が、再び彼の中を通り抜けていく。
そして、背後から聞こえた小さな足音。
「やっぱりここだったんだね、やっと追いついた」
振り返ると、リルが立っていた。
白いうさぎのぬいぐるみの姿で、しかしどこか人のような目をして。
「リルは……何者なんだ?」
ロロの問いに、リルはぴょこんと跳ねて言った。
「リルは、偉大なる電子の大魔女様の使い魔!」
「……電子で魔女? なんだかちぐはぐだな」
「それでもリルは、偉大なる電子の大魔女様の使い魔なの!」
小さなやりとりに、ロロはふっと笑った。
それは久しく忘れていた、素の笑みだった。
リルはもう一歩近づき、ぽつりと続ける。
「君が書いたから、僕たちは存在した。だけど、この世界に永遠はないの。だからこそ……続きが必要なんだ」
ロロは、静かに頷いた。
「俺は、感情を失い、記憶を手放してきた。……自分の名前さえ、もう薄れてる。だけどそれが、“創る”ということなら──」
リルがそっと顔を伏せる。
「犠牲は、君がこの世界を再び照らすための灯だった。創作とは、失うこと。けれどその失ったものが、物語を生む」
白紙のノートが、光を帯びて震え始める。
「……なら、書こう」
ロロはそう言って、手にペンを握った。
そのインクは、彼の“喪失”のすべてから絞り出された色だった。
──そして、扉の奥にて、物語は再び始まる。
*
(扉の前、ノートを手にする直前──)
ロロはふと、また思い出したかのように振り返った。
そこに、やはり泉大津ちゃんの姿はなかった。
当たり前のように隣にいたはずの人。
いつも心配そうに声をかけてくれていた、あの表情。
それすら、思い出そうとすると霞んでしまう。
「……なんで、だろうな」
声に出すと、胸の奥が少しだけ痛んだ。
けれど、それすらすぐに消えてしまう。
まるで、彼の中から感情ごと“消されていく”かのように。
リルはその様子を見て、そっと囁く。
「思い出せなくなるのは、君が進んできた証拠だよ。
それは消えたんじゃない。……物語の“代償”なんだ」
ロロは静かに頷いた。
泉大津ちゃんの声も、笑い方も、今はもう、うまく思い出せない。
それでも、確かに“誰か”がそばにいてくれたことだけは覚えていた。
「……ありがとう」
誰に届くとも知れない言葉を、ロロはそっと呟いた。




