Scene 3|誰かの手紙が残る椅子
図書室の最奥。光も届かない古びた書架の向こうに、ぽつんと一脚だけ椅子があった。まるで長い間、誰かがそこに座っていたかのように、うっすらと埃が避けられていた。
ロロは知らぬ間に、その前に立っていた。書架の隙間から、風が吹いた──いや、風ではない。音だった。
かすかな旋律。耳を澄ませなければ気づかないほどの、優しく、柔らかな音。それが、彼の記憶のどこか深い場所をノックした。
(……知ってる。この音)
ロロの胸が、ぎゅっと締めつけられる。その音は、かつてどこかで聞いた──いや、“創った”音。
耳元で、風のように声が囁く。「音が、止まっていたんだよ。君が筆を置いたから」
振り返っても誰もいない。でも、ロロはわかっていた。その声が、“誰”なのか。
“____”。
その名前を、言葉にすることはできなかった。だが、旋律だけは胸の奥で確かに鳴っていた。
ページがめくられる音。椅子の上に、一冊のノートが置かれていた。
その表紙には、うっすらとインクがにじみながら、こう記されていた。 『聴こえる者の、書』
ロロは、静かに椅子に腰を下ろし、そのノートを開いた。ページには、見覚えのない言葉が並んでいた。だが、どれもが不思議と懐かしかった。
──夜の裂け目は、音のない叫びを吸い込む。
その一文が、ページの中央に浮かび上がったかのようにロロの視界に焼きついた。
ノートの中から広がっていく音は、言葉を持たなかった。それは旋律とも、効果音とも、誰かの声とも違う──ただ“物語”そのものの響きだった。
ロロはそのページを指でなぞるたび、自分の指先がどこか異なる世界に触れているような錯覚を覚えた。
ノートの綴じ目のあたり、ページの境界線に、ひとつの“裂け目”が走っていることに気づいた。それはまるで、強く折られて閉じられた何かが、無理やり開こうとしているかのような裂け目だった。
ロロが目を凝らすと、裂け目の奥には“白”が広がっていた。けれど、それは真っ白な光ではなかった。むしろ、何も書かれていない空白──物語の書きかけのような、不安定な余白だった。
その白の奥から、微かに“音”が漏れていた。
──かつて誰かが奏でた音。 ──誰かが言葉にしようとした声。
ロロの視界がにじむ。目の奥に熱を感じた。それは、懐かしさとも違う、けれど確かに彼のものだった“記憶”の感触だった。
「君は……ここに、いたんだね」
そう呟いたとき、ノートのページが一気に風を受けたようにめくれ上がり、ロロの前に新たなページが現れた。
そのページには、まだ誰の言葉も綴られていない。ただ、中央にひとつだけ──
『ここから再び、物語は紡がれる』
という文字が、淡く浮かび上がっていた。
ロロはそっと、ペンを手に取る。その手はかすかに震えていたが、もう逃げることはなかった。
ページの白に、インクがにじみ始めた。それは新しい章の始まりを告げるように、静かで、それでいて確かな“始まり”の音だった。
ロロがペンを置いた瞬間、空気が揺れた。ページの余白から、どこか遠くで誰かが話す声が届いてくる。
「──あー、やっと声届いた感じ? 俺、結構頑張っちゃったんだけど」 「うるさい、ちょっと黙れ。あたしにも話させてよ」 「いやちょっとまって、あの、ほんとにさぁ、もうなんていうかさぁ」 「ハハハハ神ッテイルンダナー」
懐かしい声たちだった。だけどそれぞれが、どこか現実味を帯びながらも、彼の記憶の中の“創作”と重なっていく。
誰一人として名前は出さなかった。けれど、それらはすべて、彼がかつて描いた“物語の住人たち”──その存在のかけら。
彼らの言葉は、ページの中から響いてきた。
そして、その背後で、小さな足音が近づいてくる。
白いうさぎのぬいぐるみ。リル。
「……思い出した?」
リルはそう言って、空を見上げた。
空は、図書館の天井ではなかった。それは、紙と音とでできた世界の“果て”だった。
リルは、ぴょんと跳ねると、その耳で空を叩くように跳ね上がった。瞬間、ぱん、と乾いた音が響き、空が割れる。その音は、音響のように四方へ広がり、世界に眠っていた扉を呼び覚ます。
“思い出すための、特別な扉”。




