Scene 3|歪んだ旋律の記憶
カードの表面には、いつものように黒いインクで短い言葉が浮かんでいた。
『音のない旋律に、君の記憶は潜む』
ロロが顔を上げると、部屋の奥にある古びたオルガンが、独りでに音を鳴らし始めていた。
──カタン。カタン。
鍵盤がひとつ、またひとつと沈んでいく。だが、音は鳴らない。
無音の旋律が、空気を震わせていた。それはまるで、何かを呼び起こすための“合図”のように感じられた。
視界の端で、浮かんでいた楽譜たちが激しく揺れ、音符が紙面から剥がれ落ちるように消えていく。
その一枚が、ロロの足元に落ちた。
拾い上げると、そこには音符ではなく──名前が書かれていた。
『アヤ・タルイ』
その名前に、ロロは眉をひそめた。彼女のことは知っている。忘れてなどいない。
それなのに──胸の奥に、妙な違和感が走る。
“知っているはずの彼女”に、何か隠された部分があるような……そんな感覚。
その瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走る。
思い出のような、夢のような、彼女の知らない顔が雪崩のように流れ込んできた。
──合わせ鏡。 ──深夜の廊下。 ──白いうさぎ。
どれも断片的で、霧の中の影のようだった。しかし、それでも確かな“気配”があった。
「君はまだ、思い出していない」
再び、あの影の声が響いた。
「けれど、“扉”はもう開いた。君が進むしかない道を──」
その言葉が終わると同時に、部屋の空気が音もなく震え始めた。
不意に足元が傾き、ロロの視界がぐらつく。床が、波打っている。まるで音もなく鳴動する地下鉄のように、静かな力が空間を揺さぶっていた。
視線を上げると、部屋の奥に黒い“何か”が浮かび上がる。それは、まるで絵の具を水に落としたような、不確かな境界を持つ影だった。
その中央に、重々しく現れたのは──一枚の黒い扉。
ロロの背丈ほどもあるその扉は、脈動していた。表面に浮かぶ無数の目が、ひとつひとつ、ロロの動きを見つめているようだった。
中央には、先ほど拾った鍵と同じ「IV」の刻印。
「……これが、四番目の扉……?」
ロロは、無意識のうちにポケットから鍵を取り出していた。
「開けるの?」と、影が問いかける。
その声はもう、部屋のどこからともなく響いていた。
「選ぶのは君だよ。開けても、いいし──逃げてもいい」
ロロは息を呑んだ。鍵を扉に差し込む。
触れた瞬間、指先がしびれるような感覚に襲われた。それでも彼は、回した。
──カチリ。
音がしたとたん、空間が歪む。重力の感覚が薄れ、視界の端がにじんでいく。
白いうさぎの影が、扉の向こうに一瞬、見えた気がした。
「“光”が入ったね」
声がそう告げた。
次の瞬間、ロロの意識は真っ白になった。




