断章『白紙の終夜(びゃくしのおんや)』
書く手を止めたのは、風のせいだった。
風などあるはずのない空間で、何かが静かに通り過ぎていった。
白い床。白い天井。白い空。
音も色もない、紙のような世界。
ここは始まりであり、終わりでもある。
そこに時間はなく、形もなく、ただ静けさだけが漂っている。
その中心に、ただ一人、少年が座っていた。
小さな影を落としながら、まるでそこに置かれた人形のように。
手の中には、折れかけた一本のペン。
ペン先は、まるでインクを失ったように沈黙している。
書こうとするたびに、胸の奥で何かが軋んだ。
書けば何かが始まってしまう。
でも、その先にあるものが──ただ、怖かった。
ペンを握る指が、震えていた。
それでも止められなかった。
光は、もう出てこない。
ページの上で踊っていたはずの、あのやわらかな輝きが。
思い出せないだけで、そこには確かに何かがあった。
それは、いまでも、どこかで誰かが待っているような、そんな気がした。
静かに、崩れ去るようなカウントダウンが始まっていた。
誰も気づかないまま、世界が少しずつ色を失っていく。
もしかしたらそれは、既に起きていたことなのかもしれない。
けれど、少年の時間は止まったまま、ただ静寂に身を預けていた。
そのとき、遠くから声がした。
「──◯◯、起きて。忘れないで」
それは、誰かが呼ぶ声だった。
あたたかくて、懐かしくて、それでいて──届かない。
少年は顔を上げた。
けれど、名は聞き取れなかった。
音は、風に溶けてしまった。
彼はただ、肩を震わせ、ゆっくりと目を伏せる。
一枚のページが、音もなく破れ落ちた。
空白のまま舞い、何か大切なものを連れて、消えた。
そして夜が、静かに始まった。




