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【悲しい朝】惨劇は伝承となり、今瞬間の悲劇はその個に閉じて終わる

 〈さーっ〉と丘を吹き去る風には新緑の香りが交じりもう直ぐ春が訪れる事を告げている。


「さあさ急ぐのですよ!豚どもが目覚める前に葬るのですよ〜」

 甲高い声が叱咤する。


「観測班報告しなさい!どうなの風は!」


 風速計を観測しながら防毒マスクの兵士が叫ぶ。

「もう直ぐ風が止みます!」


 〈ターン〉と乾いた音が報告の後に響き観測兵の防毒マスクに潜血が滲み崩れ落ちる。

 静かにしなさい!大声出さないの!

 ドクトル・ジゴバの右手にはワルサーが鈍く光っている。


 毒ガスを散布しなさい!

 早く早くしなさい!


 ブタどもの野営地まで2キロってところね。


 地を張って毒ガスがにじり寄るには最適な距離ね。


 イギリス兵の野営地に向かう途中には朝を待つ村がある。

 戦争、争い事は唐突に全てを奪う。

 村を舐め尽くす様に広域に広る新緑香る丘から死の誘いが静かに歩み降りて来る。


 真っ赤な朝焼けが丘と反対側の田園の地平に上り始める。

 何時もの朝の様に朝を告げる鶏は鳴かない。

 二度と目覚めぬ眠りの帳が朝の日差しの中に降りてゆく。


 村々の戸や家の隙間からにじり寄る静かな毒牙。

 それは薄い黄発色で吸った後に甘い香りを放つ青酸カリウム系の毒霧。

 毒霧は噴霧器から点、線、そして扇状に拡散していく。


 黄発色の霧は村人のベッドの下にどんどん堆積して濃い黄色の死の淵を作る。

 寝返りを打って大きく息を吸って息が止まる。

 この村で目覚める人は居ないだろう。


 いつもの様に喧騒な日常、子供たちの笑い声、足音。

 もう聴こえる事はない。


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