声なき叫びの街
階段の踊り場に、まだポスターが貼ってあった。
『共生の街へ──異なる文化と手を取り合う未来を。』
青空の下で握手する男女の写真は、雨で滲み、顔が溶けていた。
主人公は煙草を踏み消しながら、上から聞こえる子どもの泣き声に耳を塞ぐ。
隣に越してきたカルドゥア人の一家は、夜も昼も泣き、喚き、異国の歌を唄い、団地全体の空気を重くした。
そして今日も、役場の偉い連中がやってきた。
黒塗りの車から降りたスーツの男は、ぶ厚い笑顔を貼り付けて、記者の前で胸を張る。
「我々の町は、多様性の象徴です。共生の最前線です! カルドゥアの方々も、すでに地域に溶け込んでいます!」
笑いながら、彼は何度も「素晴らしい」を繰り返した。
カルドゥアの子どもが足元に縋るように泣いても、視線を一度も落とさず、フラッシュに口角を引き上げたままだった。
主人公は、その背中に小さく呟く。
「じゃあ、てめえが隣に住めよ。」
言葉は誰にも届かず、拍手とシャッター音が団地に響いた。
夜になっても、団地は静まらなかった。
カルドゥアの男がベランダで怒鳴り、女は階段にうずくまって子どもを抱いていた。
壁越しに聞こえるのは、皿が割れる音か、身体が打たれる音か、もうわからない。
そのくせ、頭の奥であのスーツの声がリフレインする。
「彼らも人間です。多様性こそ我が国の宝です!
わざわざ我が国に来てくださった移民の方々も、私たちの大切な家族です。
そして、その価値観を受け入れる皆さんの寛容さに、心から感謝申し上げます!」
表情は作り笑い、目は一切こちらを見ず、ただ空虚にフラッシュを浴びるだけだった。
(宝、だと?
宝はガラスケースに入れて眺めるもんだろ。
俺たちの隣に投げ捨てて...お前らが管理しろよ。
高みの見物かよ....)
主人公は布団の中で吐き捨てた。
「こっちの顔も見ずに、「感謝します」なんて言うな。」
翌朝、階段の下で子どもを見かけた。
まだ六つか七つ。
黒い目は泥にまみれ、赤いサンダルは片方脱げていた。
誰も近寄らない。誰も声をかけない。
それでも子どもは空を見上げ、かすれた声で呟いた。
「おとうさん、かえってくる?」
「……ここに、いていいの?」
主人公はその声を聞いてしまった。
聞きたくなかった。
手を差し伸べれば白い目で見られ、差し伸べなければ、あの子の目が刺さる。
団地の掲示板に、赤いスプレーで書かれていた。
『帰れ』
その上から、役場の人間が新しいポスターを貼った。
『共に歩もう』
ポスターの角が風にめくれ、その下の赤い文字が、まだ透けていた。
主人公は出勤のため、団地を出る。
背中にはまだ子どもの泣き声が残っていたが、振り返らずに歩いた。
空は薄く、冷たい灰色をしていた。