95 幼女吸血鬼に摩天楼の中で語る時を
予約していたタワーに着くころには、すっかり日が傾いていた。
タワーのエントランスに入れば、整えられた白髪に、黒いスーツを着た男性が二人の元に近寄ってくる。
「お待ちしておりました、陽おぼっちゃま。そしてお隣に居るのは、アリア・コーラルブラッド様ですな」
「今は離れて暮らしているんだ、おぼっちゃま呼びはしなくてもいいよ」
「いえいえ、真夜様に仕えている身ですので、陽おぼっちゃまは変わりませんよ」
おぼっちゃま、と聞けば、普通なら優雅な暮らしをしている庶民知らずの人間を思い浮かべる者を少なくはないだろう。
もちろん、陽はそんな甘く育てられたわけはなく、美しい所作は当たり前として、しっかりとした区別を持ちつつ、人としての生き方を磨かれてきた方だ。
振る舞いは学生としては一つ抜けているかも知れないが、アリアの前以外ではほとんど常識の範囲内に収まっているだろう。
ふと気づけば、アリアが袖を引っ張ってきていた。
「陽くん、この方は?」
「ああ……バトラー?」
「アリア様、自己紹介がまだでしたね。私は白井家に仕えている執事のバトラーと申します。以後お見知りおきを」
「こちらこそよろしくお願いします、バトラー様」
「わたくし目はバトラーと気安く読んでいただければ幸いでございます」
相変わらずの堅苦しい二人に、陽は苦笑いを浮かべるしかなかった。
先ほどから接待をしているこの男性こそ、真夜が居ない時に陽のお世話を焼いていた執事のバトラーだ。
バトラーは普段執事なのだが、このタワー自体に息がかかっているので、従業員という肩書で会いに来たのだろう。というよりも、予定を詰め込んだ陽が原因なのは一目瞭然だが。
挨拶もほどほどにし、スムーズに帰れるように荷物を預けてから、バトラーの案内の元予約していた個室へと向かった。
「ここが当タワーの名物『展望台の摩天楼』でございます」
ドアを開ければ、そこには四方八方がガラスに覆われた、煌びやかな部屋へと通された。
一つのテーブルに対して四つの椅子があるのは、ちょっとしたおもてなしだろう。
椅子を二つだけにしていない分、この個室だけでも自由な融通が利くというものだ。
バトラーの手ほどきありきで、陽はアリアと向かい合う形で椅子に着いた。
「ここはマジックミラーを使用した強化ガラスとなっていますので、ごゆっくりと景色を堪能していただければよろしいかと」
「バトラーさん、ご丁寧にありがとうございます」
「滅相もございません。では、料理をお持ちいたしますので、暫しお待ちいただければと」
バトラーは会釈をし、部屋を後にした。
アリアには言っていなかったのだが、アリアの服装的にもエチケットがあるので陽としては安心している。無論、ここは服装よりも品で判断しているので、アリアは十二分に合格だろう。
礼儀知らずの場合、タワーに立ち入ることすら出来ないらしいので。
(……アリアさんに伝え忘れてた)
陽自身、紳士らしい服装が主だったのもあり、アリアに伝えなかったのは正直なところ反省している。
アリアに知られなくとも、どこか抜けた紳士は拭えないだろう。
「ねえ、陽くん?」
「アリアさん、どうしたの?」
「ここは御高いお店なんじゃないかしら……流石に、気まずいというか」
やはり、アリアは値段が心配だったらしい。
陽としては、正直安い方……真夜関連なので、アリアに心配をさせたくないが正しいだろう。
陽はアリアを心配させないように、首を横に振った。
「値段は高いけど、料理の値段が高くない珍しいお店だよ」
「……極論は高いのよね?」
「はい、そうです」
「やっぱり、あなたはどこか抜けているわね。こんな豪華で、安くない方が驚きよ?」
「アリアさん、躊躇ないよね」
「貴方だけに、よ」
「さ、左様ですか」
ここまでアリアに指摘されたのもあり、陽としては正直心が痛かった。
感覚はズレていないと思いたいが、この場所に関してはズレている自覚があったので、反論できないのも事実である。
「まあ、ここの事は料理を食べてみればわかるよ。それに、夜空を堪能しながら料理を食べられるのも、唯一無二の特徴だからね」
「そうね。ここの夜景はとても綺麗で、街の明かりも美しく見えるわね」
陽としては、展望台個室で出る料理で使っている食材が一般的な物で、料理は自他ともに認める敏腕料理人が作っている、と話したかったがやめておいた。
豆知識や自慢話は、二人の空間に合うはずは無いのだから。
くどく話をされるよりも、食べながらも会話のネタとして繋げていく……それも楽しみ方の一つではないだろうか。
料理を目の前にして自慢話を延々とされても、デートという観点で考えればつまらないものだろう。
お互いに興味を示したものに、そして会話のネタを広げていく、それが円滑にコミュニケーションをする秘訣なのではないだろうか。
大事なのは結果もあるが、工程がままならなければ信頼は無いに等しいのだから。
アリアと沈みゆく夕日を見て料理を待っていれば、バトラーが品物を運んできた。
「お待たせいたしました。今宵は御二方への貸し切り特別メニューとなっておりますので、時間の許す限りゆっくりお食べくださいませ。夜景を見るのもよし、会話に花を咲かせるのもいい、料理を堪能するのもよかれかと」
「……バトラー、前置きはそれくらいで十分だよ」
「陽おぼっちゃまには不要でしたか。では、お出しさせていただきます」
バトラーは手短に説明しつつ、前菜をテーブルの上に置いた。
今回はフルコース式……というよりも、特別コースにしたらしく、マナーさえ良ければ食べやすいようにしているらしい。
おそらく、アリアが小食であるのを事前に伝えたので、それに合わせてくれたのだろう。
料理人の手を煩わせてしまう申し訳なさもあるが、精一杯の気遣いをしてくれる姿勢に、陽は心から感謝をした。
コース料理ではあるが、少量で出し、様々な味を楽しめる工夫をしてくれているようだ。
「陽おぼっちゃま、コースは都度作っておりますので、ご希望の時に及びくださいませ」
「……お父様?」
「ええ」
バトラーは言い残し、部屋を後にした。
おそらくだが真夜は根回しをしていたようで、アリアに過去を話しやすい状態を作っていたようだ。
親バカと言えばいいのか難しい気持ちに、陽は頬を軽く掻いた。
料理を食べ進めれば、やはりアリアはお上品と言うか、テーブルマナーまでしっかりしているようだ。
前菜を食べているだけでも理解出来るナイフにフォークの使い方は、所作がままならなければ実現不可能だろう。
陽は改めて、アリアの意外な一面を理解できた気がした。
前菜自体も手は抜かれていないので、アリアは一口食べた瞬間、美味しそうに頬を緩めていた。
アリアの口に合う料理だったのは感謝しかないだろう。
自然すぎて忘れがちだが、これでも彼女は吸血鬼なのだから。
陽もアリアを見習い、ゆっくりとだが、フォークとナイフを持ち食べ進めた。
バトラーから料理が運ばれてくるのを待っている時、陽は静かに手を止め、真剣にアリアを見た。
アリアもそれを感じとってか、しっかりと深紅の瞳に陽の姿を反射させている。
「アリアさん、唐突で悪いんだけど……このタワーというよりも、個室である摩天楼に誘った理由は何だと思う?」
「……いつもの陽くんにしては真面目ね。……答えは不明よ。遠慮はしていないけれど、あなたに深入りしないようにしているもの」
「そうだよね。アリアさん、謝らせてほしいんだ」
陽はそう言って、頭を下げた。
「アリアさんに、自分の過去を打ち明けるためにこの場所に誘うのを、デートとして持ちかけて本当にごめんなさい。謝ってすまされるとは微塵も思ってないよ」
前々から計画していたとはいえ、アリアに本当の事を黙り、連れてきたのだから。
陽自身、アリアの気持ちを踏みにじるつもりで誘ったわけじゃないのも事実だ。
ふと気づけば「頭を上げてちょうだい」とアリアから芯のある声で言われた。
頭を上げれば、アリアは深紅の瞳を深い色と思わせる程、真剣に見てきている。
小さな手の親指と人差し指で持たれているグラスは、確かな風格を感じさせてくるようだ。
「陽くん、私は謝って欲しわけじゃないの。……一つだけ良いかしら?」
陽はうなずくことしか出来なかった。
「私とのデートは、全てこのため『だけ』のお芝居だったの?」
「それは絶対にない! こんなことしておいてあれだけど……アリアさんとのデートは、自分が一番楽しみにしていたんだ」
思わず反論というよりも、間違いをそのままにしたくなかったので、心からの本音をアリアに話した。
陽自身、アリアとデートをしたかったのは紛れもない事実だ。
真の目的をアリアに話さなかった時点で問題ではあったと、陽は重々理解している。無論、二度というか、このような事態は今回で収束させるつもりだ。
言い訳がましいが、目的だけをメインにするのなら、遠回りをする必要は無かったのだから。
陽はただ、アリアと一緒に世界を見たい、その欲に負けてしまったのだ。
前の陽であれば、慈悲なき感情でアリアに過去を話したいと伝え、この場所に来ていただろう。
アリアと近しくなったからこそ、陽自身も成長していたのだ。
一人でずば抜けるのではなく、手を取り合える仲で前に進む、その一歩に。
陽の言葉を聞いてか、アリアはゆっくりとグラスを慣れた手つきで回していた。
グラスの中の紅茶は、水面を揺らさず安定している。
「デートがお芝居じゃないのであれば、私は気にしないわよ」
そう言って、グラスに入っていた紅茶をアリアは飲み干した。
「……前にも言ったでしょう? 話して楽になれるのなら、いつでも話していい、って」
「アリアさん……」
寛容な心で許してくれるアリアに、陽は頭が上がらなくなりそうだった。
どちらかと言えば、元からアリアに上がる頭は無かっただろう。
偽っていた時点でも許せる相手にされる、というのは貴重な存在なのかもしれない。
仮に陽が本当に騙された立場であるとするなら、許せるかは正直疑問だろう。それでも理解できるのは、アリアだけは許していた……本当にそれだけかもしれない。
「それでも……偽りのお芝居で人の心を弄ぶ最低な人、ましてや人の心はもろいものよ。ふふ、私が吸血鬼で良かったわね」
「前者の話は、理解しているよ」
アリアが言いたいのは、アリアという少女が吸血鬼で寛容が故なので、人間であればこうもいかない事だろう。
一度料理を止めてもらうため、陽はバトラーを呼び出すことにした。
バトラーの言葉から察するに、恐らくこの展開は読んでいただろう。
呼び鈴に手が重なろうとした、その時だった。
ドアは開き、バトラーが姿を見せたのだ。
バトラーの登場に苦笑いしているアリアは、流石にこの状況は想定外だったのだろう。
「バトラー、一度料理を止めてもらってもいいかい?」
「いやはや、流石真夜様ですな……陽おぼっちゃまにアリア様、ご無礼を承知の上で、お話のおともに合う食事を一つ添えさせていただきます」
バトラーはそう言って、運んできていたらしい、スープの入ったお皿を陽とアリアの前に置いた。
濁りのない透明なスープであるにもかかわらず、確かな存在たちが鼻をつついてきている。
アリアも初めて見たスープらしく、目を丸くして驚いていた。
「こちらのスープは、当店秘伝のスープとなっております。目で見て捉え、匂いで感じ、体で堪能していただく、人の心を映すが売りでございます」
「バトラーさん、シェフの方に謝りを……」
「アリア様、これらは全て読んだうえで手配しております、お気になさらぬように。ここは密室、誰の声も、中からの声も、姿も理解できませんので、二人の時間をごゆっくりどうぞ」
バトラーは笑みを見せ、部屋を後にした。
ひさしぶりに聞いたセリフであるが、この場所の意味を理解している陽的には、正直辛さがある。
ふと気づけば、アリアはスープを一口スプーンで掬ってから、こちらを見てきていた。
ゆるぎない深紅の瞳は、話をいつでも聞ける、と伝えてくるようだ。
「陽くん、私は……どんなあなたの過去であっても、受け止めてあげるわよ」
「……アリアさん」
「あなたは本当に、どこか抜けているのよ」
心の奥底から込み上げてくる過去という名の恐怖に、賽は投げられた。
今ここに、デートと称した最後の幕が上がる。




