93 幼女吸血鬼と水族館で確かな距離を
電車やバスを乗り継ぎ、陽はアリアと共に目的の場所までついていた。
「アリアさん、大丈夫?」
「ええ、薬がだいぶ効いてるみたいで、大丈夫よ」
アリアはバスでは大丈夫だったのが、電車は駄目だったようで乗り物酔いをしてしまったのだ。
不幸中の幸いか、水族館までは少し歩く距離があったので、その間にアリアの顔色はよくなっているので問題ないだろう。
たとえ問題があったとしても、陽が密かに支えるつもりでいるが。
水族館内にスムーズに入場し、陽はアリアと手を繋いで歩いていた。
やはりと言うか、他県から来ている方もいると思われるが、服装で言えば一際浮いた存在ではあるだろう。
無論、アリアとはデートの一環で来ているので、周囲の目はそこまで気にならないのだが。
店内の暗さはあっても、水槽から差し込む光に、優雅に泳ぐ生き物たちは、夢幻のような心地よさを体感させてくるようだ。
アリアも水族館に来たのは初めてなようで、無邪気のような柔らかな笑みを宿している。
陽自身、アリアの笑みを見られるのも嬉しいが、テレビやスマホから見ていた世界をこの目で見られる事に感動していた。
目で見て、体で感じて、手に触れる雰囲気というのは、その場でしか味わえない、至高の感覚そのものなのだから。
経験というものが小さな蓄積からされていくように、この水族館に来られたのも何かの縁だろう。
ましてやアリアと一緒なのは、陽からすれば願っても無いほど幸せを噛みしめていると言える。
アクアリウムの展示生物の説明を見つつ歩いていれば、アーチ状の水槽がある通路に差しかかっていた。
(四方八方が水に覆われているせいか、人間が逆に見られているようで恥ずかしいな)
アーチ状の通路は、歩くのは普通であるのだが、脳は水の中にいると錯覚しているようで、ふわふわしたような感触が陽を包み込んできていた。
人の足音まで明確に聞き取れるのは、普段と違う体験をしている証拠なのかもしれない。
「アリアさん、水族館は楽しい?」
「どこか、不思議な感じね」
アリアは頭上を優雅に横切った生き物を見ながら、小さく呟いた。
深紅の瞳は光を受けて輝いているのに、アリアの心はどこか曇っているように見える。
乗り物酔いが治ってない、と思いたいが、恐らく別の気持ちが湧き出ているのだろう。
陽自身、アリアに深入りをする気は無いのだが、不安は募ってしまう。
「アリアさん、具合が悪いの?」
「ふふ、大丈夫よ。少し、はしゃぎすぎちゃったのかしらね」
「……そっか。ここから通路を沿っていけば休めるスペースがあるし、そこで休もうか」
アリアがうなずいたのを見て、陽は改めてアリアの手を握り直し、館内を巡っていった。
上の方から巨大な水槽を見た後、下の方に下りてその水槽の目の前に辿り着いていた。
館内に入った時よりもここは暗く、手を離せばすぐに見失ってしまいそうだ。
陽はアリアと隣同士で立ち、しっかりと手を握り、巨大な水槽に目をやる。
様々な生き物が自由に泳ぐのを見られるのは、海や川以外では水族館だけと言えるだろう。
周囲にはあまり人がいないのもあってか、アリアとの距離感を更に近く感じさせてきている。
むず痒さはあるけれど、これがデートというのなら、この上ない幸せをアリアの隣で知れているのかもしれない。
「ここで少し見て、心を休めようか?」
「ねえ、陽くん」
アリアのひんやりとした声を、確かにこの耳は聞きとっていた。
暗い場所に来たからではない、先ほどの悩みが口に出たような、そんな声色を。
「アリアさん、どうしたの?」
「私、水族館で見た生き物は可愛いと思って見ていたの」
巨大な水槽を見ながら言うアリアは、まんざらでも無いのだろう。
ただ単に、アリアの心の何処かに突っかかりがあるのではないだろうか。
陽自身が理解できていないだけで、アリアの見ている世界は、陽が思っている以上に広いのだから。
陽としては、アリアと言葉を交わさずに、表情から察してここまで来てしまったので、アリアの本音が聞けただけでも嬉しいのだが。
普通の恋人同士であれば、恐らく破綻かヒビが生えていただろう。悲しい事か、嬉しい事か、陽はアリアとお互いを信頼しきっているつもりなので、歩む道を一緒にできるのだ。
「でも……人の手によって餌付けられた生き物たちの『自然』は何を意味するか気になったのよ」
アリアの考え、というよりも言葉は、陽に理解できないものでは無かった。
確かに水族館を観賞という観点で見れば、生き物自身の生態系からは離脱しているだろう。
アリアは恐らく、水槽に泳ぐ生き物を見て、慈悲が揺らめいたのかもしれない。
深紅の瞳で見上げているが、その瞳は確かに生き物を見ているのに、心はそこに無いように見えるのだから。
陽はアリアの心配を一緒に考えるように、そっと体を寄せた。
彼女の体温は少しひんやりしているが、自分の体温で温められないものではないだろう。
「上手くは言えないけどさ、これは自然の摂理という理から人の世に移動した、生き物の末路じゃないかな」
「やっぱり、そうよね」
「否定は出来ないかな。人間は弱いからこそ、こうして安全を確保しなきゃ、生きていけないからね」
「人間の治癒というのは、不便なものね」
吸血鬼と比べられたら困るが、人間は自分が思っている以上に、心や身体も弱くもろいのだ。
集団で集まっているからこそ平然としていられるが、形違うものであり一対一だった場合、恐怖が先に来るのではないだろうか。
誰かが虫を嫌うように、誰かが自身とは違う人間を嫌うように、人は弱さありきでは生きていけないのだ。
人は知恵と武具を得た代わりに、生態系から逸脱した存在のようなものを意味しているのかもしれない。
「――猫や犬の様に、大切に命ある限りの人生を謳歌させてもらえるのなら、生き物は悔いが無いんじゃないかな。……危険に怯えないで泳げるのなら、ゆっくりと暮らせるんだし」
「陽くんは、相変わらず、他の人とは違う価値観に観点を持っているのね」
「そ、そうかな?」
アリアが微笑みながら言ってくるので、陽は軽く頬を掻いた。
ふと気づけば、アリアからは迷いの色は抜けており、気が晴れたような振る舞いをしている。
「何の変哲もない会話だけど……私はあなたとの会話を、楽しくて、面白いと思っているわよ」
「それは、あり余るお言葉で幸せですよ。アリアお嬢様」
「ふふ、ありがたく心にしまっておきなさい」
「うん、そうするよ。ゆっくり見たわけだし、お土産でも見ようか」
アリアの承諾を受け、お土産コーナーの方に向かった。
お土産コーナーに向かえば、普段は目にしないであろう、水中の生き物がモチーフとなったグッズが数えきれないほど置かれていた。
流石と言えば流石だが、男である自分が買うのには気が引けるという一面もある。
アリアは見たい物があったのか、個人で見て回っている。また、恋羽にもお土産を買いたいらしく、手荷物が少し多くなるだろう。
そんなアリアを微笑ましく見つつ、陽は手前のお土産コーナーに目をやった。
(ホモにチンアナゴたのまれたんだっけ……なんでチンアナゴ固定なんだ?)
一応、ホモに欲しいものを聞いてみた結果、チンアナゴのグッズを陽判断でお任せされたのだ。
チンアナゴのグッズを選んでいれば、アリアが近寄ってきているのが見えた。
「アリアさん?」
「陽くん、こっちよ」
アリアに手を引かれるまま、陽はアリアが見ていた方に向かった。
アリアは可愛いことに、ぬいぐるみコーナーを見ていたようだ。
そしてアリアが指を指すのは、サイズが様々なペンギンのぬいぐるみである。
見て理解できるほどのふわふわ感に、小さなつぶらな黒い瞳は、見ている方が恥ずかしくなりそうだ。
陽が首を傾げていれば、アリアは自身の体型に収まる程度の小さなペンギンのぬいぐるみを手に取っていた。
「陽くん、お揃いの物を買いましょう?」
「……ペンギンのぬいぐるみ?」
「ええ、そうよ」
「拒否権は?」
「無いに決まっているじゃない。うーん、陽くんは……あなたの手のひらサイズはどうかしら?」
「妙に実用的すぎない?」
「ふふ、あなたに合いそうな物を探すのも、私の役目よ」
自信満々に言われたら恥ずかしいのだが、アリアは何も思っていなさそうなので、陽は薄っすらと頬を赤くした。
ホモと恋羽へのお土産を買いつつ、アリアとはお揃いの物を買ってから、お土産屋を後にすることにした。
外に出ただけでも、お互いの意外な一面を知れたのは大きな収穫なのではないだろうか。
陽自身、アリアとは本当に見て終わりくらいに思っていたので、彼女の考えや世界を共有されたのは嬉しいのだ。
(……アリアさんの笑みを見られるのは、幸せだな)
小さな幸せを、この先も一緒なら、どれほど嬉しいのだろうか。
アリア目線で言う、長い年月から見れば、たかがひと時の戯れかもしれない。だからこそ陽は、忘れられない程の一ページを刻んでいきたいと願ってしまう。
戯れでは終わらない、その時の生きた証を。
その後、陽はアリアと共に、水族館に設置されていたレストランで、休憩と称して可愛らしいデザートを口にした。
水族館から出れば、時間はおやつ時をすでに過ぎていた。
あまり長居をするつもりはなかったのだが、アリアと話したり、見たりする時間が愛おしかったのだろう。
手に持った袋が、今を伝えてくるように。
「アリアさん、予約した場所までは時間があるし……アリアさんの見たい物や買いたい物もあれば寄っていこうか」
「あら、優しいのね。何にしましょうかね」
水族館デートが成功かは不明だが、お互いの距離が近づいたのは確実だろう。
隣を歩く距離は更に縮まっているのだから。
「陽くん、デートは始まったばっかりよ?」
「アバウトに人の心を読まないでもらってもいいかな? 自分の心は傷つきやすいんだよ?」
「陽くんが傷ついたら、私が甘やかして治してあげるわよ」
「はは、迷い人を誘惑する小さな妖精さんには勝てないな」
アリアの言っている通り、デートは始まったばかりであり、終着には着いていないのだ。
高い建物が並ぶ中を、陽はアリアの手を優しく握り、共に歩いていく。
肌に当たる風が、二人の背を押してくれているようだ。




