84 幼女吸血に身を捧げるのは、どこか抜けた紳士で
「陽くん、美味しかったわ」
「そ、そっか……アリアさんの口に合ったようでよかったよ」
当たり前じゃない、と言いたげな目で見てくるアリアに、陽は気まずかった。
アリアがお粥とゼリーを食べ終えてから、というよりもずっと気まずい気持ちが渦巻いている。
未だに滴り続ける雨音が、屋根に当たって弾けていると、カーテンを閉ざしているのに伝えてくるほどだ。
おそらく、自分が思っている以上に、ステラの発言を気にしてしまっているのだろう。
現在のアリアは寝起きよりは楽そうに見えるが、実際は無理をしているのかもしれない、といった心配を底上げする要因を作ってしまったのだから。
陽が悩んでいれば、アリアはじっと見てきていた。
「……陽くん、浮かない顔をしているわよ」
「え、あ、すまない」
先走る謝罪の言葉は、今に合うはずがない。陽は自覚しているにも関わらず、なんとなく謝っていた。
アリアは流石に異変に気付いたのか、上半身を起こした状態でジロジロと見ては、ゆっくりと手を重ねてくる。
小さな手は温かいのに、自分の心は冷えているのかもしれない。
「お粥を作っている際に、何かあったのかしら?」
アリアの指摘に、陽は思わず息を呑んだ。
とっさに何でもない、と言おうとしたが気持ちはとどまらせてくる。
仮に何でもないと言ってしまえば……それは、ステラとした『お姉様に嘘をつかない』という約束を破る羽目になるのだから。
自分が紳士であるなら、約束に嘘をつく気はない。
あの時に見たステラの様子からも、まるで自分が居たことを証明してほしい、と遠回しに言っている可能性がある。
もし違うとなれば、ステラが物を残していった理由が不明なのだから。
陽は気持ちを穏やかにし、紳士の振る舞いをするように胸を張り、しっかりとアリアを見た。
深紅の瞳に反射する自分は、勇敢なる青年そのものように。
「実は――アリアさんの妹である、ステラちゃんに出会ったんだ」
「ステラに? ……私じゃなくて、なんで陽くんに……それに、ちゃん呼びを強要は見逃せないわね」
「……焼きもち?」
「焼いてないわよ! ステラに会った、それは間違いないのね?」
陽が静かに頷けば、アリアは悩んだように頬に指を当てていた。
アリアが驚くと思っていたが、別に興味はなさそうだ。
むしろ、余計な考察をしているのではないだろうか。
陽自身も、ステラがなぜ自分に会いに来たのかは不明なのだから。アリアに会いに来たのだとしたら、初対面でナイフを投げてくる理由がないだろう。
「陽くん、疑っているわけでは無いけど確認よ――仮にあなたがステラに出会ったのなら『嘘をつかない』契約を持ち込まれた、間違いないかしら?」
「何でそれを?」
「間違いないようね」
陽は頭の中がハテナマークで埋め尽くされそうだった。
アリアが悩んでいる中、陽は紳士の一歩である状況把握を、脳のタスクに実行していく。
アリアがなぜステラとの約束を知っていたのか、というのを考えるなら、恐らく二人の間にある合言葉と展開した方がいいだろう。
仮に陽がステラと会った嘘をついたのであれば、その約束ごとで真実かレプリカか判断できるのだから。
悩んだところで、アリアとステラの関係を知らない陽からすれば、どうしようもない事情ではあるが。
「陽くん、ステラには何を吹き込まれたの?」
この話題は正直、結論が出るまで話したくなかった。
「……アリアさんの体調不良の理由を聞いたよ」
「あの子ったら、姉の前で憎たらしい意地悪な嘘をついておいたくせに……陽くん、ステラが何処まで話したかは私には不明よ。それでも、全て事実でしょうね」
「……アリアさんが血を飲めないのと、血の宝石で補おうとしていたことも?」
アリアは静かに頷いた。
正解か不正解、それはどちらでもよかったが、アリアが確信を持たせてくれた。
そうなると、アリアの体調は悪化気味と考えるのが妥当だろう。
どれだけアリアを大事にしたいと思っても、繰り返す悲劇が同じままの状態で変わらないように。
気づけば、雨音は強くなり、部屋に反響していた。
「陽くん、私は吸血鬼なのに、誰彼構わず血を飲めないのよ。……吸血鬼と人の狭間をさまよう私は、どちらも曖昧……知りえる事が出来ないの。主として、いえ、怯えているのよね、私自身をきっと」
アリアは、寂しそうだった。
アリアに一人ではない、と言いたくとも、この口は許してくれない。許してくれないどころか、アリアにかける言葉が見つからないのだ。
どれだけアリアを思おうとも、吸血鬼ではない陽は、血を飲むや飲めない事情に深入り出来ないのだから。
アリアは淡々と言っているが、顔色は一切曇っておらず、清々しさがあるほどだ。
割り切っていると感じるよりも、話したかった秘密を打ち明けたかった、と言ったほうが正しいくらいに。
「自分に話してよかったの?」
「……私は、あなたに嘘をつきたくないのよ。人を愛せなくても、言葉に嘘をつく理由は無いでしょう?」
一番嘘をついていたのは、陽の方だ。
いくら見て見ぬ振りを辞めたつもりでも、真実から目を背けているのだから。
アリア自身から、血を飲めない理由を簡潔に聞いておきながら、理解できていなかった話はない。
むしろ確信に近づいているにも関わらず、話してよかったの、と濁す自分は、アリアよりも怯えている。
拳を握り締めれば、じんわりと痛みを感じさせてきた。
不甲斐ない自分への、戒めだろう。
自分の過去を話すどころか、アリアの過去を追及している自分に対する罰に過ぎない。
目を背けていた真実は、最初から答えが出ていたのだから。
拳を握り締めていれば、小さな手がもう一度優しく包み込んできた。
とても温かくて、自分だけの体温にしていたい……それほどまでに愛おしくなっていた、その小さな手が。
息を吸えば、こちらを見て微笑むアリアの姿が目に映った。
深紅の瞳はうるりとしており、見えないものは何もないほどに輝いている。
「あの、アリアさん」
「なにかしら?」
「アリアさんが嫌じゃなければだけど――自分の血を飲んで、足りない血を補うことは出来る?」
アリアは目を丸くし、驚いた表情をしていた。
普通に考えれば、急に自分の血を飲んでくれと頼めば、驚くのも無理はないだろう。
陽は考え無しに言ったわけじゃない。
ステラはあの時『効能が切れて半年以上』と言っていた。それは、アリアと出会った時に切れていたと仮定していいだろう。
あの日に吸われた血が、アリアに適用していたのなら、陽の血はアリアを救っていた裏付けになるのだから。
無論、アリアがその前に誰かの血を死に物狂いで吸ったのであれば、空想のままだ。
しかし陽は、心から確信している。そうでなければ、アリアが自分の元に一緒に居た理由に説明がつかないのだから。
血を目当てで一緒に過ごしていたとなれば、夜な夜な泣く羽目になるので空想で願いたいが。
「自分は、出会った時にアリアさんが自分の血を吸ったのは、なにかの運命だったんじゃないかと思うんだ。終わりの始まりじゃない、始まりを意味する花咲く意味を」
「……答えがまだだったわね。あなたの血で、私はこれまで無事だったわ」
「補えるんだね」
「でも、あなたが貧血とかになってしまうのかも知れないのよ」
アリアはこの期に及んで、こちらの心配をしてくれている。
陽がアリアを心配するように、アリアが陽を心配しない理由は無いと、重々承知している。
だからこそ陽は、今度は自分がアリアを救いたいのだ。
あの日、アリアが傷から血を吸ったことで、自分が紳士として向き合うキッカケになったように。
「自分が死ぬわけじゃないのなら、アリアさんの気が済むまで飲んでほしいかな」
「……陽くんは、どうして、そうやすやすと言えるの……」
「自分が簡単に言ってるように見える? 自分は、アリアさんが大事だからこそ、消えてほしくないから、笑顔のアリアさんを見ていたいから言ってるんだよ」
深紅の瞳はうるりとしていた。
今にでも雫が落ちてしまうのではないかと思えるほどに、表面を濡らしている。
その時、急にアリアが抱き寄せてきた。
小さな体は温かくも冷えているのに、確かな温かい感触が肌を伝ってくる。
首にかかるアリアの吐息が、少しくすぐったいくらいに。
「……陽くん、少しだけ、いいかしら」
「……少しだけと言わず、アリアさんの自分にしてよ」
ちょっとした茶化しは、今までのお返しだ。
陽は数えきれないほどの幸せを、アリアから知らぬ間に、知っているうちに貰っていたのだから。
アリアは抱きしめていた腕を離し、笑みを浮かべた。
そして吸血鬼姿のままだったアリアは、わざとらしく前屈みの姿勢を取っている。そして、ネックラインを開くかのように片手で触れ、胸元をチラリと見せさせるような、そんな視覚的妄想を刺激してきた。
というか、防護されたふくらみが軽く見えてしまっているので、陽としては心臓に悪いが。
(……アリアさんのナイトブラ……上品なのが余計目に辛い)
元から大き目なスウェットを着ているのも相まって、視覚への興奮の促しや、心臓に悪い仕草は程々にしてほしいものだろう。
鼻の下を伸ばしそうになった陽は、自分に首を振った。
アリアは幼女吸血鬼なのに、まるで小悪魔のようだ。
「……アリアさん、ほどほどにしてもらえるかな? 自分は男だし、狼になるかもよ?」
「ふふ、あなたの血をたぎらせたに過ぎないわよ? それとも、なにか期待したのかしら?」
「し、してないから。……ほら、これなら飲みやすい?」
色目ある姿勢で血が騒いだのは事実なので、陽はそっと自身の首元をアリアに見せた。
どこを吸われてもいいが、吸われるなら近くで距離を感じたいものだろう。
ゆっくりと陽の首元に口を近づけるアリアから、生暖かい息を感じてしまう。
「……いただくわね」
「うん。召し上がれ」
アリアの八重歯は静かに首筋へと。
痛みを感じないのは、アリアの傷を癒す力があるおかげだろう。
(……アリアさんの一部になれるなら、紳士として、いや……自分としては嬉しいかな)
ふと気づけば、こぼれ落ちた雫が肩を伝っていた。
アリアの顔は見えないが、陽がアリアの背を優しく撫でれば、アリアはぎゅっと抱きしめてきている。
手放さない約束を、アリア自身が体現するかのように。




