81 幼女吸血鬼の背に触れる、その手が求めるものとは
(……朝、か)
屋根に当たって弾ける音で、陽は目を覚ました。
ぼんやりとした視線で先を見れば、昨日から手を繋ぎ眠った少女、アリアの姿が見えた。
アリアはぐっすりと眠っているようで、薄暗い部屋に映る寝顔を眩しく思えてしまう。
結局のところ、昨日は本当にアリアに付きっ切りで看病をしたのもあり、陽自身も少しだけ疲弊気味ではある。
(体が痛い)
吸血鬼の熱はうつらないらしく、アリアから隣で寝るように促されたが、アリアの体調を考えて床に座った状態で寝てしまったのが原因だろう。
アリアが健やかに眠れているのなら、陽的には嬉しいものだが。
陽はアリアを起こさないように手をそっと離し、窓辺へと近寄った。
「……雨か。五月だから珍しいことでは無いけど、こうも連休にかぶるとは」
カーテンの隙間から外を見れば、しっとりとしたような雨が静かに降っており、出来た水たまりに波紋を生みだしている。
雨が降っていようと、ゴールデンウィークは現状、縁も竹縄も無い状態だ。
どちらかと言えば、家に居るからこそ、看病をしてアリアを知って自分を知り、小さな距離を縮める感じと言えるだろう。
とはいえ、浮かれない天気なのもあり、陽は思わずため息を一つこぼした。
天候に気分が左右されるのも、人間の持つ感性そのものだろう。
アリアが目を覚ます前に陽が着替えを終えた時、小さく喉を鳴らす声がした。
ふと振り返れば、アリアは小さな手で目を擦り、もう片方の手で何かを探している様子だった。
「アリアさん、すまない。起こしちゃったかな?」
「……陽、くん」
アリアは未だにぼんやりとしているのか、朦朧とした様子で声のした方を見てきている。
焦点が合わないようで、眠気眼の幼い手を右往左往させて何かを求めているようだ。
陽は笑みを浮かべ、ゆっくりとアリアに近づき、その小さな手を静かに握った。
アリアはお目当ての物を見つけられたようで、目を閉じた状態で笑みを浮かべている。
繋いだ手を近寄せ、柔らかな頬ですりすりするアリアは可愛いものだろう。
普段も陽に甘える様子を見せるようになったが、こうした自然的な幼さが垣間見える瞬間は、アリアの体型も相まって微笑ましいものだ。
アリアは朝が弱いわけではないと思うが、体調が良くないのもあり、気怠そうな一面があるのだろう。
その時、瞳を隠していたカーテンが開き、うるりとした深紅の瞳を露わにした。
「アリアさん、おはよう」
「陽くん、おはよう……」
アリアは自分の行動が恥ずかしかったのか、驚いたように目を逸らしている。
「体調はどう?」
「まだ、気だるいわ」
「……今日も横になってた方が楽そうだね」
こういう時にホモが居てくれれば、アリアの体調が不安定な理由はなんとなくでもわかるのだが、都合の良い話があるわけないだろう。
念のためも考えて、アリアには十分に休んで、自分を労わってほしいものだ。
普段アリアは頑張っているからこそ、体が疲弊しきっている可能性もあるのだから。
「今日もお粥食べる? そうすれば、準備をしてから作ってくるよ」
「……お願いしてもいいかしら?」
「うん。遠慮しないで、必要なものがあれば言ってくれてもいいからね。それと、ゼリーを買っておいたんだけど食べる?」
「うん」
嬉しそうに頷くアリアは、本当に分かりやすく甘えているのだろう。
多分だが、陽がアリアを理解出来ていないからこそ、アリアが分かりやすく表情に出してくれている可能性もある。
お粥を作りに行く前に、陽は桶の水をぬるま湯で張り替え、新しいタオルと、アリアに着させるスウェットを用意した。
何回かやったのもあってか、手際よく準備出来るようになっているのは成長と言えるだろう。
サイドテーブルに桶を置き、タオルを濡らせば、アリアがじっと見てきていた。
「前は無理でも、背中くらいは拭こうか? 人目にさらされない宝石を、自分の手で磨こうかな、って」
相変わらずの下手なジョークではあるが、気を紛らわせるには丁度いいだろう。
アリアは流石に驚いたようで、目を丸くしてこちらを見てきていた。
陽自身、アリアの素肌を見るだけでも正直心に来るので、本当に冗談で言ったつもりだ。
アリアも理解はしていると思うので、多くは要らないと思われるが。
アリアは自分の手を見てから、こちらを静かに見てきていた。
熱が未だにあるのか、アリアの頬が赤いままなのは心配である。
「……お願いしても、いいかしら」
「そうだよね。嫌に決まって……お願いぃ!?」
断られると思っていたので、驚きのあまり声をあげてしまった。
陽はゆっくりと気持ちを静め、改めてアリアをしっかりと見た。
大き目なスウェットの影響もあり、見え隠れしている白い肩が、今の状況を煽っているようで辛さがある。
「えっと、アリアさん……背中って言っても、自分の手がアリアさんの身体に触れることになるんだよ?」
「ふふ、陽くんだから頼んでいるのよ……それとも、二言があるのかしら? 前屈みで服の胸元が開いちゃうときに、陽くんが見てきているのをしっているのよ?」
アリアの言っていることは、男の性とはいえ事実なので、陽はぐうの音も出なかった。
ゆっくりと息を呑み込み、深紅の瞳に反射する自分を見る。
「……わかった。背中を拭くだけで、他意は無いからね」
「陽くんが手を出さない優しい人なのは、私が一番理解しているわよ」
陽はむず痒さがありつつも、アリアが上を脱ぎ終わるのを待つことにした。
念の為も考えて後ろを向いているが、すぐ後ろで女の子が服を脱いでいるのは如何なものだろうか。
無論、陽はわざとでも覗く真似をする気はないので、安心してほしいものだが。ただ単に、陽自身の理性が刺激されて辛いものではある。
上の服を脱ぐだけでもまったりな辺り、アリアはまだ万全では無いのだろう。もしくは女の子特有なのかもしれないので、あまり触れたくないのだが。
(……同じベッドに座らなきゃよかった)
アリアの頼みでベッドに座ったものの、小さく揺れる振動は心臓に悪い事この上なかった。
「陽くん、こっちを見てもいいわよ」
アリアの合図を元に、陽は恐る恐るアリアの方を振り向いた。
アリアは女の子座りをしてこちらに背を向けており、微かながらも震えているようだ。
電気の付いていない部屋だというのに、アリアのきれいで白い背中は鮮明に視界へと映りこんできた。
程よく肉がつきつつも、整った背中に薄っすらと浮かぶ骨の筋は、幼女体型も相まって目に辛いものがある。
ちゃっかりと銀髪のセミロングになっているので、こちらへの考慮も抜かりないようだ。
本来であれば、男はがっつくイメージを持たれそうだが……それはその人次第だろう。無論、陽はアリアを大事にしたいからこそ、むやみやたらに手を出さない精神を持てているのだ。
紳士としての教えもあると思うが、紳士だからと言って、男で無いわけがない。
扇情的な姿に、気持ちを揺さぶられない理由が無いのだから。
考えるのもほどほどにしつつ、陽はタオルを濡らし、しっかりと絞った。
ほの暗い明かりに目が慣れる、というのは本当に良くないものだろう。
「……あ、アリアさん、触れても、大丈夫?」
「……思った以上に、恥ずかしいわね」
見ている側も恥ずかしい気持ちはあるので、何とも居たたまれない気持ちはあるのだが。
アリアは呼吸をしているのか、背中が静かに動いていた。
現在アリアは、陽に背を向けた状態であるが、一応胸元を隠しているらしく、片手で胸元を覆っているようだ。
ふと思えば、いつもはナイトブラを付けているアリアだが、今回は付けていなかったのだろうか。
そもそもの話、昨日は陽が半ば無理やり部屋に連れ込んでいるので、用意する暇がなかったのかもしれない。
陽は自分のやらかしに静かに反省しつつも、息を整え、アリアとの距離を少し縮めた。
「それじゃあ、拭いていくね。……心地が悪かったり、違和感があったりしたら言ってね……」
「私は、陽くんを信頼しているわよ」
実際のところ、一番恥ずかしいのはアリアだろう。
陽はアリアの事も考えて、できるだけ早く、丁寧に終わらせることに意識を割いた。
やはりというか、アリアは濡れたタオルが背に触れた瞬間、ぴくりと体を震わせている。
陽が心配して声をかけようとすれば「そのまま続けて大丈夫よ」とアリアに言われたので、陽はゆっくりでもスピーディーに背を拭いていく。
吸血鬼は水……濡れたタオルでも弱いと思っていたのだが、アリアは案の定違うようで、平気なのがありがたい限りだろう。
痛みを負い、暴れられでもしたら大変なのだから。
(……傷跡?)
目が慣れてきたせいか、背を拭くのに意識を割いていたからかは不明だが、陽はアリアの背に確かな傷跡を見つけた。
首元よりも下の方に、ほんの僅かだが、過去に出来たと思われる傷跡。
見えないところでも傷がついているのは……女性の場合、多くは好ましく思わないだろう。
陽は思わず、タオルを持っていない手で、傷跡に軽く触れてしまった。
なぜ触れてしまったのかは、陽にも理解できていない。だが、知りたい、という欲が先走ったのは確かだ。
アリアは流石に触れられると思っていなかったようで、ぴくりと体を震わせた。
「あ、ご、ごめん!」
「……陽くんなら、別に大丈夫よ。その調子で、羽も拭いてもらっていいかしら?」
「羽を?」
「ええ。丁寧にお願いするわ」
アリアが無理をしている気もするが、彼女を信じるしかないだろう。
アリアが羽を顕現させたので、陽は先ほどよりも丁寧に、綿を触るような力加減で触れていく。
アリアの羽は、主に付け根から生えた枝状の部分と、申し訳程度の皮膜しか残っていないのだから。
彼女の羽の付け根をまじまじと見たのは初めてだが、羽が羽なのもあり、上手く感情が浮かんでこないのも事実だ。
羽がボロボロである理由は多少なりとも理解していても、他人である陽は辛さを感じていた。
「……陽くん」
「あ、ごめん……痛かった?」
「そうじゃないわよ。陽くんがさっき触れた傷跡は、妹との争いの痕跡よ。一応言っておくけど、普通の吸血鬼なら、年月も要さずに治る深い傷跡よ」
淡々と言われたアリアの言葉に、陽は怒りが込み上げそうだった。
アリアは大丈夫そうに見えるが、内心は酷く傷ついていてもおかしくないのだから。
とはいえ現状、素肌を見せているアリアの背を拭いている時点で、陽の思う感情は説得力皆無に等しいが。
ふと気づけば、胸元を隠しているのはと逆の手で、アリアは陽の手に触れてきていた。
「あなたが怒ることじゃないのよ」
「……アリアさん」
アリアは顔だけこちらに向け、笑みを浮かべた横顔を見せてきていた。
「陽くん、私はね……そんな出来事もあったけど、その出来事があったからこそあなたという幸せを呼ぶ鳥に出会えて嬉しいのよ。だから、私はあなたの感情を埋められる程の存在じゃないかもしれないけど、どこか抜けた紳士らしい陽くんを好ましく思っているのよ。……あなたは私じゃないの、だから自分自身を見て、過去を乗り越えていけばいいのよ」
アリアの言葉は、心の泉に静かな水滴を落とし、水面を緩やかに揺らした。
その時に「後ろから抱きしめてみる?」とアリアから茶化されたのもあり、陽は顔が熱くなった。
無論、アリアの柔らかさを堪能したくないわけではないが。
陽はアリアの背を拭き終わってから、お粥を準備するために一階のリビングへと向かっていた。
アリアが部屋から出て着替えとかをしたいだろう、という考えを頭に、陽は出来るだけ時間をかけて歩いている。
余計なおせっかいかも知れないが、アリアの背とはいえ、自分の手で素肌を拭いてしまった以上、気持ちを整える時間も考慮しているに過ぎない。
陽だって、アリアの言葉に胸を打たれ、無駄な時間を感じないようにしよう、と重々誓ったのだから……落ちつく時間は必要だ。
たとえ紳士らしい紳士でなくても、アリアの紳士で居られればいい、そんな願いを胸にして。
静かに響く雨が降りやまぬ中、リビングのドアを開けた――その時だった。
(……何の気配だ?)
リビングに足を踏み入れた瞬間、銀色に輝くナイフが顔の横を通り抜け、壁に刺さったのだ。
ほんのりとした暗闇の先に、深紅の宝石が怪しげな光を見せた。




