74 幼女吸血鬼の寂しさを自分の感情で染められるのなら
息を切らしながら自宅に戻れば、既に夜は深まりそうになっていた。
まだ七時過ぎではあると思うが、アリアとの時間を考えれば遅い方だろう。
陽は切らした息を整えつつ、ドアを静かに開けた。
それと同時に、白のパフスリーブブラウスに黒いエプロンを着用したアリアがリビングから顔を覗かせた。
陽は気まずい気持ちがありながらも、ゆっくりと玄関に足を踏み入れる。
「……アリアさん、ただ――」
帰宅の言葉を告げようとした時、黒いストレートヘアーは宙に浮いていた。
舞い降りる髪の持ち主は、気づけば抱きしめてきており、陽の胸の中に顔を埋めている。
陽は、言葉が出なくなっていた。
服をぎゅっと掴む小さな手は、力強く、確かな存在を主張してくる。
いつかは居なくなってしまうのではないか、いつかは飛び立ってしまうのではないか、そんな恐れのある震えも混ざっているようだ。
今のアリアは――寂しかったのかもしれない。
アリアと過ごし始めてから、陽は同じ空間にいなくても、同じ場所にいないことは……買い物を除いて一度もなかった。
同じリビング、同じ部屋に居なくても、ここには居たのだから。
陽がよく知っている……アリアは、普段は凛とした優雅な立ち振る舞いを学校ではしているのに、本当は寂しがり屋で、甘えん坊の一面が真実の彼女だと。
夜に眠っている彼女から落ちる流れ星が、気持ちに伝えてきていたはずだ。
この日、陽は初めて長い時間を、アリアの場所から離れた。
一緒に居る必要が無くとも、陽には、アリアが必要なのだと重々理解しているつもりだった。
(……胸が、痛いよ)
陽は初めて、感情を知った。
今までの感情ではない、アリアの存在があって知れた、自分という感情を。
気づけば陽は、感情が揺れるままに、アリアの華奢で幼女な体を抱き返していた。
柔らかい感覚は、男心を刺激するよりも早く、紳士としてではなく、自分としての感情を抱きしめてくる。
アリアは抱きしめられて嬉しいのか、胸に頬をすりすりさせていた。
美少女から抱きしめられるのは、まるで夢幻のようだが、これはアリアという少女が居る真実だ。
陽はアリアを抱きしめ、軽く彼女の頭を静かに撫でながら、笑みをこぼした。
「アリアさん、ただいま。お腹空いた」
「本当に、どこか抜けているのよ、陽くんは……」
呟かれるような寂しい声は、温かさを灯し嬉しそうな声色に変わっている。
「夜ご飯の準備はとっくにできているわよ。手洗いうがいをして、洗い物は分けて、椅子に座りなさい」
「うん」
「……うん、じゃないのよ」
「はい、アリアさん」
母親のようなおせっかいを焼いてくるアリアに、陽は言葉を返した。
洗面所に向かおうとしたのだが、アリアは抱きしめる手を離そうとしなかった。
「……陽くん、もう少しだけ、抱きしめてほしいの」
「アリアさんなら、いくらでも」
アリアが満足するまで、陽は静かにアリアを抱きしめておく。
準備が終わってから、陽はアリアとダイニングテーブルの椅子に座り、夜ご飯を食べていた。
夜ご飯は、シンプルなシチューで、冷えた心が温まるようだ。
いつもの距離感だというのに、今日はいつもより近いように感じた。
言葉を多く交わしていないけれど、こぼれる笑みが増えているからだろうか。
「陽くん、この時間まで何を一人でしていたの……?」
アリアが申し訳程度に聞いてくるので、陽は一瞬気後れしてしまった。
普段であれば、遠慮をしてないとはいえお互いに深入りをしないので、アリアは申し訳ない気持ちがあるのだろう。
「……色々、かな」
陽は正直、これだけは誤魔化したい気持ちがあった。
現状、陽がしでかしたことは機密事項の機密保持に当たるため、アリアにすら言えない事情が含まれている。
チラリとアリアを見れば、ジッと見てきては、ぷくっと頬を膨らませていた。
今日の事を考えると、アリアは自分だけを除け者という訳ではないが、隠し事をしてほしくないのだろう。
陽自身、今はある迷いとも健闘中なので困る節がある。
「別に……危ないことをしてない」
仕方なく、陽はアリアから目を逸らし、言葉を口にした。
アリアは呆れたのか、ため息をついている。
「嘘ね。陽くんを見ている私を誤魔化すのは無理よ」
見抜かれているとなれば、苦笑いするしかないだろう。
苦笑いしたところで、アリアから白状しなさい、と言いたげな視線は突き刺さったままだが。
「アリアさんを――守る戦いだよ」
「……陽くんが私を守りたい気持ちは、近くにいて幾千も痛感しているわよ。でもね、あなたは生まれつきは人なの……だから、無茶だけは駄目よ」
アリアは怒っているわけではなく、心配してくれていたらしい。
アリアを手放さないようにしているつもりが、心配をされてしまっては紳士としても、自分の覚悟としても良くはないだろう。
「私は、あなたを失いたくないの」
その一言に、陽は息を呑んだ。
吸血鬼は人との別れを惜しまないと思っていたが、出会ったアリアだけは違うと陽自身が一番痛感している。
吸血鬼がいくら不老不死であっても、失うのは辛いのだろう。
陽が愛を理解出来ていないように、アリアには人を愛せない呪いがあるように。
今まで経験してきたはずだ。種族が違っても、同じ食卓を囲み、共に笑い合い、共に涙し、共に過ごせることを。
肝心なことを、ごく当たり前になりつつあったことを、陽は忘れかけていたのだ。
「……今後は裏生徒会をしつつだけど、自分は絶対にアリアさんの傍にいるから」
「陽くん、約束、してくれる? ……本当なら陽くんが女の子の気持ちに先に気づいて、言わせるのはよくないのよ……」
アリアの約束は、束縛や呪縛で無いと、陽は重々理解している。
ただ同じ空間で、笑い合い、共に磨き合える、そんな感じだろう。
陽は敬意を示すように、スプーンを置き、自身の胸に手を当てる。
「この命が輝く限りは、アリアさんに誓うよ」
アリアは嬉しかったのか、口角を上げて笑みを浮かべていた。
そして椅子から立ち上がり、こちらに近づいてくる。
陽は不思議と首を傾げるしかなかった。
何をする気なのかと思って見ていれば、アリアはスプーンで陽のシチューを掬い、片手を小皿のようにしてスプーンを口に近づけてくる。
アリアの突拍子もない行動に、陽は頭の中がハテナで埋まっていた。
「……アリアさん?」
「今日は寂しかったのよ。だから、その罰として、あーんさせてもらうわよ」
罰という名のご褒美を、アリアは実行したいらしい。
陽としては、別にアリアを拒否するつもりや、されたくないという思いはないので、素直に口を開ける。
口を開ければ、スプーンの感触が口の中を伝い、シチューだけを置いていく。
ゆっくりと味わってから飲み込めば、砂糖を食べたのかと勘違いする程に甘かった。
白い優しさに包まれた今は、至高の時間だろう。
深紅の瞳には、信じられない顔をしている陽の姿が反射して微笑んでいた。
「……甘いな」
「あら、ホワイトソースを甘くしすぎたかしら?」
こちらの口を布巾で拭きながら茶化してくるアリアに、陽は思わず笑みをこぼした。
ゆっくりと手を伸ばし、アリアの柔らかい頬に指を触れさせる。
「アリアさんの料理は、いつも美味しくて、隠し味がちょうどいい甘みを引き立てているのかもしれないね」
「……馬鹿。陽くんだけに合うように作っているのだから、美味しくて当然よ」
嬉しいことを素直に言ってくれるようになったアリアは、気心を許してくれているのだろう。
今からでも、アリアで愛を知るのは遅くないのかもしれない。
むしろ、遅すぎたからこそ、二人で歩めるのではないだろうか。
誰かが決めた道ではなく、二人で決めた道を歩むためにも。
気づけば、アリアは陽に食べさせたスプーンを使い、自分でもシチューを口にしていた。
間接キスをしている瞬間を見てしまい、アリアとは当初もしたことはあるが、知った今はむず痒さがあった。
アリアは食べてから笑みを見せ、ふわりと陽の頬に触れてくる。
「陽くん、今日は見せたいものもあるから、時間はまだまだ終わらないわよ」
「……あはは、程々でお願いするよ」
どうしましょうかね、と言いたげな目で見てくるアリアは、どこか微笑ましかった。
この後と言っても、後はお風呂に入って寝るくらいだが、アリアは何を企んでいるのだろうか。
陽は不思議に思う気持ちはあれ、今はただ、アリアからされるあーんを静かに楽しんだ。




